7.無刻印キーボードのホームポジション

55話 迫り来る〆切

 九月。俺は夏休みの宿題はきっちり終わらせ、最終日に慌ててやり始めるなんてベタな展開は回避していた。それなのに今、〆切に追われていた。妹が告げた期限は残り少ない。けれど、俺はスマホに文字を打ち込んでは消してを繰り返すばかりで、一向に脚本は進むことはなかった。そもそも俺にラブストーリーの脚本など書けるはずがないのだ。一応、図書館でハウツー本を借りてはみたが、まるで役に立たない。


「何しているの、きみ」


 泊まり込みの仕事から帰った母さんが、書きあぐねている俺に声をかけた。


「見ればわかるだろう。ラブストーリーの脚本を書いているんだ」


「いや、見てもわからないから。何、脚本? 急に作家の血が目覚めたの?」


「違う。妹が文化祭で映画上映したいからって、脚本を頼まれたんだ。作家の息子ならなんとかなるだろうって無茶言いやがる。今月中が〆切なんだ」


 撮影の都合上、その期限を過ぎると間に合わないらしい。なのに自分は監督の仕事で忙しいと、まるで手伝いもしないくせに、妙な注文ばかりつけてくる。なんでも、ジャンルはラブストーリーだと決まっているらしい。本当に困った妹である。素人の俺がそんなものほいほい書けるわけもないのに。


「そうだ、母さんは一応編集者だろう。何かアドバイスとかないか?」


「一応って……まあ昔は文芸もやってたけど、原稿がないことにはアドバイスなんて出来ないわよ。書き方なんて知らないし。一つ言えるとしたら、スマホで書くのはやめておいたほうがいいわ。腱鞘炎になるわよ、パソコン使いなさい」


「パソコン持ってないんだよ」


「あ、そうか。家にあったのは高槻くんが死ぬ前にハードディスクごと破壊してたっけ。小説のデータは私が保存したけどね。私のノートPCは仕事で使うからなあ」


 スマホで長文を打つのは辛いが、パソコンがないなら仕方ない。よしのが言うには脚本はデータで共有したいから、手書きではダメらしい。指は痛めるかもしれないが、フリック入力で書くしかない。


「そうだ、確かあれがまだ残っていたはず。ちょっと取ってくるわね」


 母さんはそう言って、親父の部屋に入っていく。何かを持ってすぐ戻ってきた。


「それは?」


「高槻くんが使ってたキーボードよ。確か、スマホやタブレットにも無線で接続できるって言ってたから、これ使いなさい」


「ありがとう、助かるよ」


 黒いスリーブケースに入ったそれはパソコンのキーボードにしては多少コンパクトで持ち運ぶのにも向いていそうだった。そういえば、妹がネドフリで映画を見るのに使っているタブレットがあったはずだ。これと組み合わせれば、だいぶ執筆も楽になる。妹が帰ってくる前に拝借しておこう。


「これ使って、カフェで脚本書いてくるよ。外の方が集中できるかもしれないし」


「ま、気楽に頑張りなさいね」


 母さんは欠伸を吐きながら寝室に入っていった。あの母さんにしては珍しく、まともな助言をくれたものだ。これで脚本が少しでも進むといいが、なんだか嫌な予感がする。あの母が何もしでかさないはずがないんだ。まあ、俺の考えすぎかもしれないけど。


 鞄にタブレットとキーボードを押し込んで、俺は家を出た。





 

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