インターバル
54話 八月某日、シャルル・ド・ゴール空港。
八月某日、シャルル・ド・ゴール空港。
俺は見送りに来てくれたエマとミシェルの前で感涙に咽んでいた。
「もう、男子がそんなことで泣いてみっともないわよ」
隣の篠原がハンカチを手渡してくれる。
「すまん、だがどうしても心残りでな。正直、日本に帰りたくないよ」
ミシェルは俺の涙に引き気味で、エマも苦笑いを浮かべていた。あれから、ミシェルはエマの計らいで、泥棒から足を洗い、施設に戻った。九月から、学校にも通い始めるそうだ。それはとても喜ばしいけれど、俺の涙の理由ではない。
「まあ、ユータがパリを気に入ってくれて、わたしも嬉しいですよ」
「ああ、本当に楽しかった。なあ、篠原もう少しだけ残ってはダメか?」
「ダメに決まってるでしょう。今更、予定も変更できないし、それに学校も始まるわよ」
「そうか、そうだよな。やっぱりダメだよな」
できればあと数日残っていたかった。でも学校をサボるわけにもいかないか。
「ツール・ド・フランスのゴール、生で観たかったな……」
今年は例外的に一ヶ月ほど遅れて始まったツール・ド・フランス。その最終レース、総合優勝を決めるゴールはパリに置かれるのだ。過酷なレースを戦い抜いた選手たちの総力戦を間近で観戦する滅多にない機会だったのに、俺は無惨にも日本に戻らなきゃいけない。
「別にいいのよ。あなただけ残っても。その場合、帰りは自転車になるけど」
「それだけは勘弁してくれ。わかったよ、帰るよ」
「まあ、ユータもそんなに気を落とさないで。日本でもジャパンカップがあるじゃないですか」
「そうだな。エマもその頃に日本に来るといい」
「え?」
「約束しただろ。忘れてないからな。日本を案内するよ」
「そうでしたネ。指切り拳万しましたから」
エマは頬を赤く染めて喜んでくれた。パリの夏と一緒で、やっぱり別れは湿っぽくないほうがいい。しかし、俺の足の甲に篠原のヒールが突き刺さったのには、また涙が出そうだった。
「あら、二人でどんな約束をしたのかしら? 私はぜぇんぜぇん聞いてないんだけど」
「まあ、もちろん篠原も一緒にな。俺が十月まで生きていればの話だが……」
「はい、楽しみですね!」
「ミシェルも来ていいからな」
「僕はいいよ、自転車に興味はないから。それより、」
ミシェルは俺に手を差し出して、また握手を求めた。今度は右手だ。小さいその手を握りしめる。手を離すと、俺の右手にミサンガが巻いてあった。本当に器用なものだ。
「これは餞別か?」
「うん、ユータだから特別に十ユーロにまけてやるよ」
「金を取るのか。もう財布はカバンにしまったんだが……」
「安心して、もう抜いておいたから……冗談だよ、馬鹿だな」
エマとミシェルに別れを言って、俺と篠原は飛行機に乗り込んだ。色々トラブルが絶えない日々だったが、総合的には楽しい旅だった。願わくばまた、パリを訪れたい。
始業式の日。篠原と一緒に登校した俺は夏休み明けの教室の様子を、まじまじと眺めた。
「どうしたのよ? 変な顔して」
篠原は俺の隣に座って言う。
「いや、四月とは随分と様変わりしたと思ってな」
「そう? なにも変わっていないわ」
篠原の言う通り、周囲の景色は変わってもない。教室は青春に勤しむ生徒たちで騒々しく、相変らず俺をやっかむ声も聞こえてきそうだ。
「……俺が変わったんだ、きっと」
ホームルームが始まる。見慣れた担任の顔も、久しぶりだと何故かありがたく思える。
「えー、うちのクラスに転校生です。さあ、入って」
金髪碧眼の美少女が、慣れない制服を身に纏って、辿々しく教卓まで歩み出る。俺と篠原は口をぽかんと開いてそれを見ていた。
「初めまして、エマ・フロベールです。気軽にエマと呼んでくださいね」
エマは俺と篠原を見つけると、あの間に席を置いてもいいかと担任に訊ねていた。
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