51話 鳴らない電話、着れない洋服、或いは銀の燭台
「ミズキ! 待ってください」
エマの声が後ろから聞こえる。それでも私は足を止めなかった。
「放っておいてよ、今は誰とも話したくないの」
「でも、そんなびしょ濡れでどこに行くつもりですか?」
確かにそうだ。こんな格好ではお店にだって入れそうにない。さっきから服が体に張り付いて気持ち悪い。髪も早く乾かしたかった。
「それでもホテルにだけは戻る気はないわよ」
エマは強情な私に呆れたような溜息を吐いた。
「だったら、わたしの家に来ませんか? 着替えも貸してあげられますし」
私は立ち止まった。エマには顔を向けずに訊ねる。
「お家には母もいるの?」
「ママンはパパの出張の準備で一緒に出掛けていますよ。今日はわたしだけです」
「そう……仕方ないわね、あなたがそこまで言うなら、お言葉に甘えさせてもらうわ」
「別にそこまでとは言ってませんが、ぜひ来てください」
エマは車を呼ぶと言って、電話をかけ始める。私はその隙に短いくしゃみをした。
エマの家でシャワーを借りた後、用意してくれた着替えを見て、私は叫んだ。
「ちょっと、何よこれ、聞いてないわ」
「ああ、ごめんなさい。ミズキのサイズに合いそうなのがそれしかないです」
だからってこれを着ろと言うのか。しかし、私の服はもうクリーニングに出したと言うし、これを着るより他は脱衣場を出られない。仕方なく、私は髪を乾かした後、その服に袖を通した。
「ああ、安心しました。昔着ていた服なので、少し丈は短いですがそっちのサイズはぴったりでしたね。大事にとっておいてよかったです」
「あなた、私を侮辱しているわね。あなたのその……豊満なそれが異常なのよ。私のサイズは至って普通よ」
「ええ、ミズキはとっても素敵です。さすがは微小女ですね……」
「ちょっと、発音がおかしかったわよ!」
「気のせいです。とっても似合っていますよ」
エマの洋服は、不思議の国のアリスが着ていそうな水色と白のエプロンドレスだった。可愛らしいリボンやフリルがふんだんに付いていて、とてもじゃないが私の趣味じゃない。いかにも少女趣味な服だが、私のサイズにぴったりなこの服を、エマが何歳の時着ていたか訊ねることは精神衛生上許されることではなかった。
「ミズキ、こっちに来てくれませんか」
エマが手招きをするので、彼女と並んでソファに座った。エマは私に背中を向かせて、髪を櫛で梳かし始める。
「あの腕時計、ユータのとっても大事なものなんですよね」
「そうね。あれは彼のお父さんの形見なのよ。あいつが一番辛いくせに、強がってたりして、本当に馬鹿な男よ。でもあなたが謝る必要はないわ。こうなったのも全部あの悪ガキのせいなんだから」
「ミシェルはわたしの友達ですから、わたしにも責任があります」
「何度でも言うけど、友達は選ぶべきよ」
泥棒を友達と呼んでいては、エマの尊厳にも関わるだろう。
「そうですね。だからきっと、わたしが選んだんです。ミシェルを」
エマが櫛を動かすたびにくすぐったいような、でも心地よいような、そんな感覚があった。母が私の髪を梳かしてくれたことはあっただろうか。上手く思い出せない。
「……そもそも二人はどういう関係なの?」
「ミシェルはわたしの日本語の先生なんです。わたし、ママンと仲良くなりたかったけど。フランス語だと、どこかよそよそしい気がして……だから日本語だったら、もっと近づけると思ったんです」
「そう、そうだったのね」
私も母も同じ言語を喋っていたけれど、言葉は互いを遠ざけるばかりだった気がする。それでも、エマの努力は無駄ではなかったんだろう。私よりもきっと彼女は頑張ったんだ。
「ミシェルはすごいんですよ。日本語だけじゃなくて、他の言葉もいっぱい知っているんです。まあ、その目的はあまり褒められたものじゃありませんが」
大方、観光客相手に何か売りつけたり、隙を見て財布を盗ったりするのだろう。彼の腕前を見れば、相当な回数を重ねているのがわかる。
「わたしがミシェルを初めて見つけたのは、擁護施設でした」
「擁護施設?」
「ええ、ボランティアで子供たちに会って、本を読んであげたり、遊んであげたり、寄付集めもしました。いろんな子がいましたけど、その中にミシェルもいたんです。ミシェルはわたしや他の子と遊ぼうとせず、ずっと施設の電話の前に張り付いていました」
「電話の前に? どうして?」
「わたしも施設の人に訊ねました。どうやら、ミシェルは母親からの電話を待っていたらしいです。一緒に暮らせる目処が立ったら連絡する、そういう約束をしていたみたいで。……そう、彼は棄子だったんです」
「だからなの? 彼が気になるのは?」
「どうでしょうね。その時は結局一言も話せませんでした。次に会った時には、彼は施設を抜け出して、ああいうことをするようになっていました。だから、日本語を教えてもらって授業料を払う代わりに、盗みを止めるように頼んだんです」
「あなたのお願いも無駄だったようね」
「本当、とんだ偽善者でした。ミシェルに真っ当に生きて欲しかったのに、それさえも叶えてあげられない。わたしは彼の銀の燭台にはなれなかったんです」
エマは櫛を置いて、部屋のクローゼットからある服を取り出して、それを私に手渡した。
「それがわたしの一番大切なものです。どうぞ、川にでも投げ捨ててください」
「何言ってるのよ。これ、随分とボロだけど子供服?」
随分長い間着ていた服なんだろう。袖口は広がっていたし、破れやほつれを繕った跡がたくさんある。そのまま放っておいたら、本当に捨てられてしまいそうだ。
「わたしが生まれる前に母が縫ってくれた服なんです。さすがにもう着れないですけどね」
そんな大切なものを川に投げ捨てられるほど私も荒んではいない。
「あなたもよっぽど馬鹿みたいね。一応訊くけど、これを川に投げたらどうするの?」
「そしたら私も、どこかのお馬鹿さんみたいに飛び込みますね」
「ああそう。馬鹿で悪かったわね」
私はエマに服を返した。エマはホッとしたように笑う。
「確かに自分の大切なものならわたしもそうしますよ。でも、他人のそれでも飛び込むかは分かりません。きっとミズキはユータがよっぽど大切なんですネ。ユータも、時計よりミズキの心配をしていましたし」
「そ、そんなことないわよ!」
「ミズキも、わかっているでしょう? お父さんの形見より、ユータはもっとミズキが大事なんです。だからもう、ケンカはやめてくださいね。犬も食べないんですから」
「ま、まだ夫婦じゃないわよ!」
エマは私の抗議を適当に受け流して、紅茶を入れると言って部屋を出ていった。私はスカートの裾を握りしめて、恥ずかしさを堪える。彼が悪くないことくらい、私だってわかってるんだ。結局、一番強がっていたのは私の方だった。彼、怒ってるだろうな。
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