50話 なに、その変な時計
思えばあの時計がすべての始まりだった。
初めてあの時計を腕に嵌めたとき、俺は自分の時間が止まってしまったんだと気付いた。時計は恐ろしく正確に次の時を刻んでいくけれど、その数字の羅列が自分とはなんら関係のないものだと思い知らされる。この数字を数えていけば明日が来ると頭ではわかっていても、体がまだどうしようもなく追いついていないのだ。
それでも俺は時計の示す時間に従ってなんとか高校に向かった。一週間ぶりの教室は当たり前だけど、本当に一週間の時間が流れていたようで、俺はそこでは異物でしかなく、馴染めないまま一人ぼっちで過ごすしかないと悟った。教室やクラスメイトが俺を歓迎していないわけじゃない。ただその場に流れている健全な青春の時間を俺が受け付けなくなっただけだ。隣の席が学校一の美少女だと知らされても、嬉しいわけもなく、むしろ煩わしいとさえ感じていた。その時は自分から雑音を遠ざけることばかり考えていたんだ。
もとより独りになることは怖くもない。それよりもずっと恐ろしいことが起きていたんだから。そんな俺にあいつは言ったんだ。
「なに、その変な時計」
そうだよな、おかしいよな。自分の時間が動いていないのに、腕時計なんて付けている意味がない。
「そんなダサい時計初めて見た」
ダサくて悪かったな。でもな、この時計を壊そうにも、ローラー車に踏ませても動き続けるんだぜ。もうどうしようもないじゃないか。人の心もこんなに頑丈にできていたら苦労しなかっただろうに。
だけど、最近じゃそれも悪くないと思えてきたよ。それもこれも全部あいつのせいなんだけど。まさかセーヌ川に飛び込むなんて思わなかった。あいつがそういうやつだからだろうな。俺の止まっていた時間は徐々に動き始めたんだ。いや、どういうわけか今は8時間ばかり遅れているけれど。
「なんで付いて来るんだよ、日本人」
「さあ、なんでだろうな」
俺はミシェルの後を付いて歩いていた。篠原とエマはもう別に場所に向かったようで、ここにいるのは俺とミシェルの二人だけだ。
「エマの前では言わなかったが、実はあの時計はとても大事なものなんだ。ああは言ったけれど、どうにも諦めきれなくてな」
「……あっそ。まだ流されずに川底に残ってるかもしれないぜ。さっきの姉ちゃんみたいに川に飛び込んで探したらどうだ」
「それも悪くはない。だが、セーヌの底に沈んでいるってのも親父が喜びそうな話だと思ってな。まあ、本当に沈んでいればの話だが」
「なにが言いたいのさ?」
「さあ、別に言いたいことなんてない」
ミシェルはこっちを振り向かないから、どんな顔をしているか想像するしかない。だが、俺の予想が正しければ、こいつはそんなに悪い奴じゃないはずだ。でなければ、エマが友人と呼ぶはずもない。
「日本語、上手なんだな。もしかしてエマに日本語を教えたのはお前か?」
「だったらなんだよ」
「いや、その歳ですごいと思ってな。どうやって覚えたんだ?」
「あんたには関係ないだろう」
ミシェルが歩みを早めたので、俺も足早になる。服はびしょ濡れで、当然靴下にまで水が染み込んでいた。できれば早くホテルに戻りたかったが、ミシェルをこのまま放っておくこともできない。
「僕のこと、怒っていないわけ?」
「怒る? どうしてだ?」
「……あんたの大事なもの川に投げ捨てたんだけど」
「ああ、それか。流石に面食らったが、怒ってはいないな」
「……変なやつ」
「自分でも言ってただろう、日本人はお人好しなんだ」
そういえばミシェルは日本人なら簡単に騙せるとも言っていた。覚えた言葉で観光客から小銭でもせしめていたのかもしれない。
「それにどうにもお前みたいなのを憎めないんだ」
「なんで?」
「お前はハックに似てるからな」
「ハック?」
「ハックルベリー・フィンだよ、知らないか? 昔、親父がよく読み聞かせてくれたんだ」
「……知らないよ、そんなの」
父が聞かせてくれたその男の子のイメージとミシュエルが見事に重なっていた。まあ、ここはセーヌ川で、ミシシッピ川じゃないけれど。
「それで、どこに向かっているんだ?」
「まだ付いて来る気かよ」
「ダメなのか?」
「……ふん、勝手にしなよ。犯罪大通りの小劇場にアジトがあるんだ」
「犯罪大通り? そんな場所があるのか?」
「そうさ、命が惜しかったら帰るんだな、日本人」
ミシェルにそう脅し文句を言われたけれど、後に引くわけにもいかず俺は黙って彼についていった。
犯罪大通りこと、タンブル大通りは凶悪犯罪が横行するような場所では全然なくって、むしろ整然とした街並みが広がる場所で、特に治安が悪いとも思えなかった。犯罪大通りなんて物騒な名前がついているのが不思議なくらいだ。ミシェルが言っていた劇場は通りの端っこにポツンと建っていて、脇の路地に屋上へ登るための鉄梯子があり、屋上に上がると、随分と大きな象の銅像があった。
「なんで象がいるんだ?」
「さあ、知らないよ。右足が劇場の屋根裏に繋がってるんだ」
ミシェルは象の背中に空いた穴から中に潜り込む。俺もそれに続いたが、案外狭くて、ミシェルが引っ張ってくれなかったらとても屋根裏に抜けれなかっただろう。
「静かにしてくれよ。今日も劇団が稽古をやっているから」
「わかった」
床板の隙間から確かに照明の灯が漏れている。役者のセリフも微かに聴こえた。
屋根裏は狭苦しく埃っぽかったが、子供一人が寝泊まりするには十分な広さとも言える。ミシェルはこんな場所で生活しているのだろうか。そうと知れば、エマが彼を気にかけるのも分かる気がする。
「服、バトンにこっそり干しといてやるよ。ライトのあたりは熱いからよく乾くんだ」
濡れたシャツを渡すと、ミシェルは器用にも外れた床板から屋根裏を降りて、舞台の頭上、照明が取り付けられた黒い棒に俺のシャツを掛けてくれた。ミシェルは物音ひとつ立てないから、劇団員が気付くことはなかった。
ミシェルが戻ってくる間に俺は部屋を見回していた。おそらくは彼の寝床の薄汚れたソファ、それと、盗品なのかゴミ捨て場から拾ってきたか知らないが、古ぼけた日用品が転がっている。だが、それよりも目についたのは、壁を敷き詰めるように電話機が積み上がっていたことだ。いかにも古そうな黒電話から、プッシュフォンやファクシミリ付きの電話機、中には電話ボックスに置いてあるようなでかいものまであった。そして、脚の欠けたテーブルには携帯電話とスマートフォンがこれまた山となって積まれている。俺は目を惹かれたスマートフォンを一つ手に取った。
「ああ、それ。仲間が馬鹿な観光客からくすねたのをくれたんだ」
「馬鹿な観光客ね……」
その馬鹿な観光客とはまさしく俺のことだった。まさかこんなところで盗まれたスマホが見つかるとは思わなかった。
「欲しいなら、好きに持ってっていいよ」
「そうさせてもらえると、ありがたいな」
俺は試しにスマホの電源を入れてみる。幸運なことにスマホは無事に起動し始めた。
「ところで、なんでこんなに電話を集めてるんだ?」
「別に、大した理由はないよ。ただの暇つぶしさ」
「そうか」
理由もなくこんなに大量に集めるものだろうか。スマホなんて売ればそれなりの金になりそうなものだが。
スマホが起動し終えると、いきなり電話が掛かってきた。篠原かと思ったら、それは日本にいる妹からの着信だった。
「もしもし、よしのか?」
「お兄ちゃん、日本に帰ってきてください」
久しぶりに聞いた妹の声は震えていた。
「いきなりだな。どうした?」
「私、もうどうしていいかわからなくて……」
妹の言葉に、俺を置いて去った篠原のことを思い出した。あいつ、まだ怒っているんだろうな。
「奇遇だな、妹よ。実は俺もだ」
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