49話 腕時計は壊れない?

 俺と篠原がエマたちに追いついたのは、蚤の市から北に進んだ河岸だった。結構な距離を走ったので、俺も篠原も息が上がっている。パリの夏は日本よりは涼しいとはいえ、すっかり体は熱ってしまった。


 エマは少年の腕を掴んで引き留めている。風のように走り去ったあの少年によく追いついたものだ。エマの運動神経は相当良いらしい。


「ミシェル、もう盗みはしないと約束したじゃないですか」


「約束したさ、エマから授業料を貰っている間はね。でも、その後のことは知らないね」


「では、今度は神様に誓ってください」


「もちろん、いいよ。神様が本当にパンを増やせるのなら、いつでもそうするね」


「ミシェル!」


 ミシェルと呼ばれた少年はエマの手を振り払ってから、俺たちを指した。


「ほら、ノロマな日本人のお友達が来たよ。今度は遊覧船にでも乗ればいいさ。蚤の次は蠅というわけだ。おあつらえ向きじゃないか」


 エマは俺たちを振り返った。


「急に飛び出したりして、二人ともごめんなさい……紹介しますね。わたしの友人のミシェルです」


「よろしくな、日本人」


 ミシェルは左手を差し出して握手を求めてきた。


「エマ、友人はちゃんと選んだ方がいいわ」


 篠原は握手などするつもりはないらしい。仕方なく、俺が手を差し出して、握手を交わした。ミシェルは左利きなんだな、と俺は呑気に考えていた。


「僕がどうして日本語を真っ先に覚えたか教えてやろうか」


「どうしてなんだ?」


「それは日本人が馬鹿でとろまなお人好しだからさ。日本人なら簡単に騙せる」


 ミシェルはそう言って、俺に向かって取り外した腕時計を見せびらかした。見間違えるはずもない、俺の腕時計だった。握手をした僅かな間に摺ったのだろう。


「すごいな。まったく気づかなかった」


「感心してる場合じゃないでしょ!」


 篠原に思い切り脇腹を小突かれる。


「ミシェル、ユータの時計を早く返しなさい」


 エマは珍しく語気を強めて言った。ミシェルはそんな彼女の様子に不愉快そうに顔を歪める。


「言われなくたって、ちゃんと返すよ。こんなボロい時計、売れそうもないしね」


「だろうな」


 俺は苦笑まじりに頷いた。ミシェルが時計を差し出すので、手を伸ばした。


「ああ、そうだ。僕が代わりに捨てといてあげるよ」


 聞き覚えのある台詞だなと、俺が思った時には、ミシェルは時計を川に投げ捨てていた。時計は音も立てずにセーヌに沈んでいく。


「ミシェル! なんてことを!」


 エマは頭を抱えて、その場に崩れ落ちた。まずいな、と俺は考え、少年を庇おうとする。篠原が彼に殴りかかってもおかしくないと思ったからだ。


 だけど、そんな俺の予想も裏切って、彼女はもう欄干を飛び越えていた。


「篠原!」


 ドボンと大きな音を立てて、彼女は足から川に着水する。それから間もなく、彼女は泳いで、時計が落ちた場所まで向かった。声をかけたところで無駄だろうな、と俺はエマに上着を預けると、篠原を追って自分も川に飛び込んだ。体が暖まっていて本当に良かった。俺は篠原の元まで泳いでいき、息継ぎと潜水を繰り返す彼女の腕を掴んだ。


「だめよ、見つからないの。流れてしまったかも知れない」


「ばか、怪我したらどうする」


「あの時計は防水よ、まだ壊れていないわ!」


 全身ずぶ濡れで、荒い呼吸でそんなことを言う篠原に俺はつい怒鳴ってしまう。


「いい加減にしろ! 時計なんか……早く戻るぞ」


 エマが船着場まで降りて、こちらに呼びかけている。俺は篠原を強引に引っ張って、そこまで泳いだ。エマの手を借りて、船着場に上がる。少し水を飲んでしまった。海外では水に気を付けろとよく言うけれど、こういうことじゃないよな。


「頼むから、あんな無茶は二度としないでくれ。お前に何かあったらやりきれない」


「でも、時計が……」


 篠原はまだ諦めていないようだった。ほっといたら、また川に飛び込みかねない。


「二人とも、ごめんなさい。本当に……なんと詫びればいいのか」


 エマは自分が悪いわけでもないのに、謝り続けていた。ミシェルは悪びれることもなく、俺たちの様子を側から眺めている。


「……時計はわたしが弁償しますから、どうかミシェルのことは許してくれませんか?」


「弁償なんてできるわけないでしょう!」


 篠原が恐い顔でそう怒鳴ったから、エマは余計に萎縮してしまう。俺は篠原を手で制して、笑顔を作る。


「そうだな、弁償する必要はない」


「高槻くん?」


「あれは安物なんだ。気にしないでくれ。それより、ホテルに戻ろう。早く着替えないと、風邪をひくだろうから」


「何を言ってるの? あの時計は……」


「篠原、いいんだよ、別に」


「何もよくないじゃない! だって、だって……」


「ただの時計だよ、ミシェルの言う通り、ボロの時計だ。いつ壊れたっておかしくない」


 篠原の顔が凍りつくみたいに固まった。


「何よそれ。そんなことよく言えるわね。あなたがそんなこと言うなんて……」


 篠原は顔を背けてそのまま歩き始めた。


「どこいくんだよ?」


「付いてこないで。あなたには失望したから」


「篠原……」


 篠原はそのまま俺から離れていく、エマがそのあとを追う。


「ユータ、わたしが話してきます。先にホテルに戻っててください」


 そう言い残して、二人は消えてしまった。立ち尽くしていた俺の傍で、ミシェルがポケットに手を突っ込んで俺を見上げていた。


「たかが時計くらいで大袈裟だな」


「そうだな、大袈裟だよな」


「言っとくけど、謝る気はないからな」


 唇を尖らせて言うミシェルに俺は笑ってしまう。


「別に謝ってくれなくていいよ」


 謝らなきゃいけないのは俺の方だ。篠原は俺のために時計を探してくれたんだ。けど、あんな危険なことして欲しくはなかった。俺は川を振り返る。本当は俺が血眼になって探すべきなんだ。それが本当に大切なら川に飛び込んででも見つけるべきだった。水を飲んでも、泥にまみれても、見つかるまで探し続ける。だが、篠原はそれをよしとするだろうか。いや、それよりも親父ならどうして欲しかっただろう。それだけはもうわかりっこなかった。



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