43話 ムーラン・ルージュ

 エマに連れてこられたのは日本で言うところのアーケード商店街のような場所だった。しかしそれは日本のそれとはだいぶ様が違った。統一された洒落た外観の商店が通路に沿って並んでいるから雑多な印象がない。通路を覆う屋根はアーチではなくガラスの三角屋根だ。


「パサージュ、と言います。ベンヤミンの『パサージュ論』のパサージュです」


「ベンヤミンてのは誰だ?」


「高名な批評家です。パリを愛した文人の1人です。その最後は悲惨なものでしたが……ユータ知らないですか?」


「生憎、教養とは程遠い人間なんでな。親父なら知ってるだろうけど」


「じゃあ、ユータが知らないだけで、忍者も河童もトトロもいるかもしれないですね」


「まだ諦めてなかったのか」


「自分の目で確かめるまでは信じ続けます。わたしが日本行く時はユータが案内してくださいネ」


「そうだな。エマには世話になったからな」


「約束ですからネ!」


 エマは喜び勇んで、俺に小指を差し出した。


「指切りゲルマンです」


「指切り拳万な」


 自分の小指を絡ませる。


「指切り拳万、嘘吐いたら針千本ノーマス! 指キッタ!」


 エマは指を離したあと、顔を青ざめさせる。


「ユータ、日本人は針千本飲んでも死なないですネ?」


「いや普通に死ぬぞ」


「じゃあ、約束違えたらユータ死んじゃいますか?」


「まあ、そうなるな。日本では切腹の方がオーソドックスだけど」


「せっぷく? ああ、ハラキリですネ。サムライ! はっ! ……ユータ、もう騙されませんよ」


「バレたか」


 くだらないことを話しながらパサージュを歩くと、服屋の前まで辿り着いた。中に入ると、俺が知っている服屋とは様子が異なるようで、ハンガーにかけられた洋服や平積みされたシャツがあるわけでもなく、ただ大きな鏡やクローゼットみたいなのが壁に並び、店の奥にはテーブルと椅子がなぜか用意されていた。


 エマは店員と知り合いらしく、親しげに何か話すと、店員はすぐに俺の体を採寸し始めた。腕の長さやら、胸囲からなんやらに至るまで、身体中のサイズを測り終えると、おそらくは仕立て用の型紙やらなんやらを充てがわれ、これまた素人には皆目見当のつかないなんらかの確認が行われ、それら一切合切が終わると、店員は裏に引っ込んでしまった。別の店員が、高級そうなカップに紅茶とコーヒーを出してくれて、俺たちは何かが終わるのを待ち始める。


「なあ、エマ」


「どうしましたか?」


「もしかしなくとも、ここって高級店か?」


 俺がおっかなびっくりに訊ねると、エマは微笑んだまま紅茶のカップを置いた。


「申し訳ないです。ここはオートクチュールではありません。時間があればそういう店も案内できますけど……しかし、この店はセミオーダーですが仕立ては良いです。安心してください」


「オートクチュール? 全自動マウスウォッシュみたいなものか?」


「ユータ……何も心配はいらないです。払いはわたしが持ちますから」


「いや、そういうわけにはいかない。連絡先を教えてくれ。後で必ず返すよ」


「あ、そんなこと言って、わたしのアドレス聞き出したいですか? ユータも隅に置けませんネ」


「いや、そういうことじゃなくてな」


「……いいですよ、別に」


 そう言って、エマはアドレスの書いた紙を俺に差し出した。いつもは目を合わせて喋るのに、その時ばかりは俺から顔を背けていた。鏡越しに顔を窺うと、エマは頬を赤く染めて心底恥ずかしそうに床を見つめている。


「エマ?」


「ニ、日本とは時差がありますけど、いつでも連絡してくださって構いませんから。あ、電話じゃなくても、生き霊とかでも全然大丈夫です」


「生き霊は相手のことを強く思ってないと飛ばせないぞ」


「……ええ、強く想ってくださって結構ですから、絶対連絡してください」


 やっぱりエマの日本語もちょっと変かもしれない。自分でも何を言っているかよくわかっていないのだろう。それではまるで愛の告白みたいじゃないか。俺じゃなかったら、勘違いしてるところだ。


「そんなに念を押さなくても、金は返すから安心してくれ」


 エマは大きな目をパチクリさせて、信じられないという面もちで俺を見る。それから、可愛らしく頬を膨らませて、


「ユータはバカです……」


 と呟いた。店員が俺の服を持ってきたので会話はそこで幕切れとなる。そのジャケットはサイズがぴったりで、今来ている服とも合う色合いだった。


「ユータ、似合ってます。馬子にも衣装ですネ」


「エマ、それは微妙に褒め言葉じゃないから気を付けろよ」


 服が手に入ったので、またタクシーに乗り込み、今度はムーラン・ルージュに向かった。タクシー代も後で払うと俺は言ったのだが、エマはやっぱり聞き入れてくれなかった。ムーラン・ルージュに着く頃にはすっかり日が暮れていた。


「ユータ、これがモンマルトルの紅い風車です」


「これは、なんというかど派手だな」


 それは俺の想像とはまるで違っていた。ネオンの看板がパリの夜に禍々しく光り、中央には紅い電飾の風車が堂々と聳え立っている。店の前は観光客で賑わい、入り口に行列が出来ていた。もっと落ち着いた場所だと思っていたのだが、こうも人が多くては人探しどころではない。俺が店の外観に圧倒されている間に、エマが俺の分のチケットを買ってくれた。他の観光客と共に行列に加わる。


「すごい人気の店みたいだな」


「ムーラン・ルージュのショーはとても有名ですから。モンマルトルはいろんな映画の舞台にもなっているので、観光客には人気のスポットなんです。『アメリ』に、『モンマルトル』とか、名作ばかりです」


「その映画には覚えがあるな」


「あ、ユータも『アメリ』観ましたか」


「いや、『モンマルトル』の方だ。妹が映画好きでな、一緒に観たんだ」


 俺が言うと、エマはぱっと目を輝かせて、俺の手を両手で強く握りしめた。


「ユータ、『モンマルトル』知ってますか? 少し古風ですが、わたしもあの映画が大好きなんです。だってあの映画には……」


「見つけたわよ!」


 振り返ると、篠原が立っていた。俺を見つけて、走ってきたのだろう、息も絶え絶えに俺を指差し、そして睨みつけていた。せっかくの美少女も、鬼の形相では台無しだ。もしかしなくとも、俺に生き霊を飛ばしていたのは篠原か。隣にいるのはおそらくヴァイオリンの先生だろう。


「やっぱり他の女と……それもこんな店に、あんた死ぬ覚悟は出来てるでしょうね?」


「いや、篠原違うんだ。これには深い訳があってだな」


「どんな訳よ! 理由によっては殺すわよ!」


「ユータ、彼女はどなたでしょうか? とても美人な方ですね」


 後ろからエマが口を挟む。


「こいつは俺の連れの、篠原水希だ」


「シノハラ、ミズキ? じゃあ、ユータが探していたのは……」


「誰なのよ、その女は!」


「落ち着けよ。エマは俺が財布を盗られて困ってるところを助けてくれたんだ」


「嘘よ、それならどうしてこんな店に来たの?」


「俺がエマに無理に頼み込んだんだ。どうしてもここに行きたくて」


「どうしても? 財布をなくしてまでここに来たかったの」


「ああ、絶対に行かなきゃいけなかったんだ」


「あなた、ここがどんなところかわかっているの?」


「どんなって、レストランだろう?」


「ただのレストランじゃないわ」


「? じゃあ、なんなんだ?」


「だ、だからここは、その……」


「はっきり言ってくれ」


「キャ、キャバレーなのよ……」


「キャバレー?」


 それから、篠原は俺を近くまで呼び寄せ、耳元で小さく囁いた。


「トップレスの女の人が踊るのよ。ストリップの発祥の店なの」


「な、ちょっと待て、トップレスって……」


 篠原は長いため息を吐いた。


「私たちの関係も今日で終わりのようね……」


 篠原は真剣な面持ちで時計を外そうとする。


「簡単には壊れないって思ってたのに」


 涙をポロポロと流しながら、バックルに手をかける。


「ちょっと待ってくれ! 知らなかったんだ。たぶん、別の店と勘違いしてたんだ。エマ、どうして教えてくれなかったんだ。エマ?」


 エマは手で口を抑えたまま、息を止めてしまったように固まり、ただじっと篠原の方を見つめていた。


「何よ、私に用?」


「お姉ちゃん?」


「え? 失礼ね、私に妹はいないわ、一人しか」


「……そうですよね、ごめんなさい、変なことを言ってしまって」


「エマ? 大丈夫か、顔色が悪いぞ」


「ユータ、申し訳ないけど、今日のディナーはキャンセルさせてください」


「そうか、別にそれは構わないけど」


「明日の正午に、サクレ・クール寺院の前の公園に来てください。マネージュ……回転木馬の前で待ち合わせましょう。どうか彼女も一緒に」


「……わかった。必ず行くよ」


 エマは別れの挨拶をすると、タクシーを捕まえて、すぐにその場を去ってしまった。


「まさか、明日もあの女と会うつもり?」


 篠原は不満たらたらの様子で訊ねる。


「違う」


「何が違うのよ!」


「エマが会いたいのはたぶん、お前の方だ」


「え?」


 塔子が言っていた通りだった。この街には全てが揃っている。俺の探し物は見つかったみたいだ。

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