44話 あなたの中に海がある。

 飛行機でパリに向かう間に私が読んでいた本に一つの詩が載っていた。「郷愁」と題されたその詩のある一節が目に留まった。


「——海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がある。」


「そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」


 私はノートを広げて、meremerと書いてみる。本当だ。今まで気付きもしなかった。その二言語の不思議な共鳴に感動を覚えると同時に、涙が抑えようもなく流れ始める。


「泣いては駄目よ」


 でもどれだけ拭っても涙は枯れてはくれない。隣で眠りこける彼に気付かれないよう声を押し殺して私は泣いた。


 母は父に親権を譲ってしまうと、まるで厄介払いでも済んだように向こうで暮らし始めた。母はまだパリにいるのだ。スクリーンの向こう側の美しい姿で、まだそこにいる。これ以上、考えてはいけない。これは楽しい旅なのだから。彼と一緒にルーブルのモナリザを観て、ルイ先生に演奏を披露する、夜のシャンゼリゼ通りを彼と歩いて、それから、それから、そうだ、回転木馬に乗ろう。母がよく乗せてくれたあの回転木馬に。やっぱりだ。パリに戻るからには、母の記憶から逃れることはできない。


 彼を起こして、飛行機の窓を覗いてもらおうか。そして海が見えるか尋ねよう。誰の前にも海はあるのに、私の中に海はないんだ。




 サクレ・クール寺院は、パリで一番高い丘の頂上に立つ聖堂で、三つの白亜の円屋根は、エッフェル塔と並ぶパリのランドマークだ。日本で例えるなら、京都の清水寺といったところだろう。寺院へと向かう坂道には観光客がごった返し、それを相手どる商売人も血気盛んに土産を売り込んでくる。その観光地染みた景色も清水寺とよく似ているし、そして頂上から市街を一望できるのも同じだ。


「別に高槻くんがどんな女の子とデートしようと、もう関係のない話だけれど、私まで付き合わせるのは御免被るわね」


 石畳の道を登りながら、後ろにいる彼に私は目も向けずに話した。彼の足の運びは遅く、坂に苦戦しているようだった。


「だから、エマとはそういうんじゃないって何度も説明しただろう」


「そうかしら、随分親しげに見えたけれど」


「疑り深いのも結構だがな、今日の主役は俺じゃないみたいだぜ。まったく、正座させられたせいで足が痛いな」


「あらそう? 足が痛いなら、ケーブルカーを使えば楽だったでしょうね」


「ケーブルカーだって? 篠原、わざと黙ってただろう」


「知らないわ。特に他の女とキャバレーに行く男なんかね」


 当分は許してやるつもりはない。せっかくの旅行を台無しにされたんだから、相応の報いは受けてもらう。私は彼を置いてどんどん先に進んでいく。あのエマとかいう女が何を考えて、私を呼び出したのか知らないが、売られた喧嘩は買ってやるわ。


 坂を登り切ると、寺院前にある公園の入り口がある。公園から寺院までは階段と緑の芝生が続いている。公園に入ってすぐ左側に華やかな装飾の回転木馬があった。騎馬と馬車が回りながら、オルガンの音で『You'll Never Walk Alone』が流れている。どういうわけか、遊園地でもないのにパリの名所には必ずと言ってよいほど、回転木馬がある。だから昔の私は、回転木馬を見つけては、お馬さんに乗りたい、と母にせがんだのだ。母はいつもチケットを買うと、落っこちてしまわないようにね、と口添えして私に渡してくれる。私はチケットを握りしめて、一等俊敏そうな馬を探した。母は音楽が止むまで、煙草を吸って待っていてくれる。私の記憶が確かならば、一緒に乗ってくれたことは一度もない。


「どうした篠原? 行かないのか」


「ノロマなあんたを待っていたのよ」


 私は回転木馬の前まで進み出る。約束の時間より早かったはずだけれど、エマとかいう女は既に私たちを待っていた。


「昨日はちゃんとお話もできなくてごめんなさい。動揺していて……」


「だいたいの事情は彼から聞いたわ。それで、私を呼び出してどうするつもり? くだらない用事だったら怒るわよ」


「くだらない用事じゃないです! ……ただ、篠原さんにわたしのママンと会って欲しいんです」


「どうしてあなたのお母さんと会わないといけないのよ」


 おかしい、パリに来てからイライラしてばかりだ。こんなはずではなかった。もっと楽くて、それこそ記憶に残るほど美しい旅を期待していたのだ。なのに苛立ちばかりが募ってしまう。わかっているんだ。その原因が私にあるってことは。


「わたしのママンは、あなたのお母さんでもあるからです」


「……何言っているのよ」


「お母さんがわたしの父と再婚したこと、知らなかったんですね」


「そんな、嘘よ……」


「あなたを見てすぐにわかりました。ママンにとてもよく似ていたから」


 彼が隣で肩を抱いてくれなかったら、立っていられたかもわからない。目の前の少女が自分の妹だなんてどうして信じられるだろうか。


「なんと言ったらいいのか…………でもわたしにできるのはこれだけですから」


 少女は何かを決意したように頷くと、後ろを振り返って寺院を指差した。


「上で母が待っています。お願いです、彼女と会ってください」


 母がすぐそこにいる。それを聞いただけで、体が打ち震えて足がすくむようだった。私は助けを求めて彼を仰いだ。


「まあ、無理に会うこともないんじゃないか。だけど……」


 彼は慣れない笑顔を作る。


「背中を押して欲しいか、篠原」


「うん」


 不思議なことに彼は言葉がなくても、私がどうしたいかわかっているみたいだ。


「会って、伝えればいい。そのまま全部な」


「うん。そうする。頑張るから、見守っていてね」


 彼に背中を押されて、私は一人歩き出した。階段を登る。今度は靴を落としてはいけない。心残りがあってはいけないから。


 サクレ・クール寺院の前に母が立っていた。彼女の美しさはまるで衰えていなかった。私の記憶の中の姿と少しの狂いもなく重なる。


「こっちに来てたのね、水希。エマから聞いた時は驚いたわ。どうしてパリに戻ったの。まさか私に会いに来たわけじゃないでしょう」


「……お母さん」


「いまさら私に用なんかないわよね。それとも、恨言でも言いにきたの」


「恨言?」


「だってそうでしょう? 私がいなければあなたは今でも幸せなお嬢さんでいられたんだから、ヴァイオリンも辞めることもなかった」


「違うよ」


「何が違うの? 恨んでいるんでしょう、私を。私だってあなたの顔なんか見たくもなかったわ。早く消えてちょうだい」


「お母さん、お願いよ、話を聞いて」


 私はゆっくり母に近づいていく、その度に母は顔を悲愴なまでに歪ませた。カメラの前では大女優の母が、私みたいな小娘に怯えているようだった。


「そもそも、あの結婚が失敗だったのよ。あなたがいなければもっと早く別れていたのに……」


 私は母の口を塞ぐように抱きしめていた。こうすることしか私にはできなかったから。


「私は大好きだったよ、お母さんのこと。映画に出ているお母さんも、私のそばにいてくれたお母さんも大好きだった。今でもそれは変わらないから」


 私は母の胸に顔をうずめる。そして心の中で呼び掛けた。ねえ、知ってる? 仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海があるのよ。私はその海から生まれてきたの。


「ずっと会いたかったわ、お母さん」


「水希……」


 私は母からゆっくり体を離した。胸ポケットから小さな封筒を取り出して母に渡す。


「これは?」


「写真よ、家族で写っているのはそれだけ。どうかそれを持っていて欲しいの。私のことがどんなに嫌いでも、私たちが家族だったこと忘れないでね。お母さんがそれを覚えていてくれたら——」


 私は母を見つめて、昔の私がそうだったように笑いかけた。


「それだけで私は幸せになれるから」





 俺とエマは芝生に伏せて、二人の様子を窺っていた。


「ママンのあんな嬉しそうな顔初めて見ましたよ」


 そう言うエマの方が自分のことのように喜んでいた。


「……でもこれで本当によかったんでしょうか?」


「さあな。別にそうでなくても、篠原はとっくに前に進んでたんだ」


「でも、ユータは二人を会わせるために、ママンを探してたんじゃないんですか?」


「それはまあ、俺のわがままみたいなもんだ」


「わがまま?」


「前に進むにしても、置いていけないものもあるだろうからさ」


 エマは静かに頷いた。


「わたしは、ユータのそういうところ嫌いじゃないですよ」


「そりゃどうも」


 エマはもう一度上を見上げて、それから俺に尋ねる。


「ねえ、ユータ。日本人でなくても、生き霊飛ばせますか?」


「どうして?」


「だって、日本人は血でも、物でもなく、魂で繋がれる……そうですよね? それってすごく素敵なことですから」


「そうだな、そうだといいな」


 俺はその場で仰向けに寝転がった。左腕を伸ばしてパリの空に重ねる。腕時計の時間を合わせるのをすっかり忘れていた。ちょうどお昼時だ。そういえば、まだバケットサンドを食べていない。エマに今度こそいい店を紹介してもらおうか。次は篠原も一緒に。




 今回の一件は結局、余計なことをせずともなるようになったのだろう。俺はそれこそドンキホーテの如く空回りしただけに終わった。パリの旅行では他にも色々とあったのだけれど、それはまた別の話だ。ともかく、今回の話はこれで幕切れとなる。いや、蛇足かもしれないけれど、一つだけ付け加えることがある。


 その日の夜、篠原がホテルの俺の寝室まで訪ねてきた。寝間着姿の篠原は俺のベットに座り込んで、窓に映るパリの夜景を横目に鼻歌まじりに足を揺らした。俺は昨日と同じように正座させられる。


「なんか用でもあるのか?」


「まだあなたに言ってないことがあったでしょう」


「ああ、礼なら別に構わないぞ」


「あら? あなた、何かお礼を言われるようなことをしたの?」


「さいですか。じゃあ、なんだよ」


 篠原は今度は口笛を吹いて、余計に足をバタつかせたあと、ようやく口を開いた。


「……き……」


「なんだって?」


 俺が聞き返すと、篠原は立ち上がって半ば怒鳴るように捲し立てる。


「好き、私はあなたが好き。……っそれだけよ! じゃあ、明日も早いからもう寝るわ、またね!」


 篠原はそれだけ言うとすぐに自分の部屋に引っ込んでしまった。


「スマホがあったら録音したんだがな」


 その時の俺は呑気に喜んでいたと思う。これから先の幾多の苦難も知らずに。でもまあ、それも仕方なしだ。俺のご大層な青春はまだ始まったばかりなんだから。

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