42話 難癖美少女はお怒りです。

 携帯の画面を睨みながら、もう一度彼に電話を掛ける。幾度も試したそれは今度も無駄に終わる。彼は電話に出ようともしない。短いメッセージを最後に彼からの連絡は途絶えていた。携帯を地面に叩きつけるのを私はなんとか堪えた。


「ゆ、許せないわ! 私を置いて何処に行ったの? 急用って何よ? ありえないわ、初めての旅行なのに、彼との初めてのパリなのに、あんまりよ、神様」


 こんなことになるなんて想像さえしなかった。彼をパリに誘ったのは素晴らしいアイデアのはずだった。素敵な旅になると信じて疑わなかった。なのに、なのに、あの男は、そんな私の気も知らないで、いったいどこをほっつき歩いているというのだ。


「まさか私以外の女に尻尾振ったりしてないでしょうね? もしそうだったら殺してやるわ」


 怖い顔、と通りすがりの子供が私を指さした。その子は母親に嗜まれながらも、見えなくなるまで怯えた顔で私を窺っていた。眉間に出来つつあったマリアナ海溝を元に戻して、自分を諌める。


「だめよ、彼を信じないと。きっと、何か事情があるに違いないわ。彼に限って、他の女に現を抜かすなんてあるわけないじゃない」


 しかし、そうなると彼はいったい全体どこに向かったのだろう。彼にとってパリは馴染みのない土地だ。特に知り合いもいないはずだ。私を置いていくほどの、重要な用事などあるだろうか。


「……もしかして」


 ジャケットの胸ポケットに入っていた小さい封筒を私は取り出した。塔子が空港まで見送りに来てくれた時に渡してくれた。私が彼女に頼んだのだ。もしかしたら必要になるかもしれないから、と。


「もしかしなくとも、必要になるんじゃないですか、先輩」


 彼女は意地悪く笑いながら言っていた。彼女の考えは時々読めない。よしのちゃんみたいに簡単な子じゃないとは思ってはいたけれど、年下なのに私よりも多くのことが見えているようだった。きっとカメラなんかより画角の広い目を彼女は持っているんだ。


 二人とも素直になればいいのに、塔子はそう呟いてから、


「まあそれはそれで気持ち悪いか」


 と、勝手に一人で得心していた。


「まさか、ね」


 私は封筒を元に戻して、自分の考えを打ち消した。そんなことありえない。考えなくても、わかることだ。


「ミズキ! すまない、待たせたね」


 顔を上げると、壮年の男性が私に近づいてくる。白髪混じりの頭で、昔より少し恰幅が良くなっていたけれど、子供みたいに無邪気な顔は変わっていない。私はすぐに駆け寄って彼を抱きしめる。汗と香水の混じったその懐かしい匂いに、パリに帰ってきたんだとようやく実感が湧いた。


「会いたかったわ、ルイ先生」


「僕もだよ。仕事がなければ空港まで迎えに行ったのだけど」


「いいえ、いいの。私こそ、急に呼び出してごめんなさい」


「いいんだ、それより彼から連絡はあったかい?」


 先生から体を離してもう一度携帯を確かめた。


「いいえ、ないわ。どこへ行ったのか見当もつかないの」


 先生は少し考えるように顎を撫でてから言う。


「まあ、そう心配しないことだ。そのうち戻って来るだろう」


「でも、彼、海外は初めてなの。何か事故とか犯罪に巻き込まれているんじゃないかと思うと気が気でなくて……」


「大丈夫さ、何かあったなら真っ先に君に連絡するだろう」


 先生は私を落ち着かせようと肩に手を置いて励ましてくれた。


「しかし、こんな美しいお姫様を置いていくなんて、彼はどうかしているね」


「知らないわよ、もう」


「……待てよ、そうか、わかったぞ。もしかして彼は風車に向かったんじゃないか」


「風車? どうして?」


「ただの風車じゃない、真っ赤な風車さ」


 そして先生は人目を憚るように私に耳打ちをする。


「な、な、なんですって!」


 動揺する私に先生は諭すように語りかける。


「彼を責めてはいけないよ、ミズキ。彼も男だったということさ。それに彼だけじゃない。観光客はみんなあそこへ行きたがるから……」


 怒髪天を衝く、その言葉を私は初めて理解できた気がした。


「先生、弓を貸してくれるかしら」


「弓? 演奏するのかい?」


「いいえ、その弓じゃないわ。別に銃でも構わないけど、とにかく彼を仕留めにいくのよ」


「なるほど、魔弾の射手という訳か。僕も一緒に行こう。彼の命が心配だからね」


 覚悟しなさい、高槻悠太。もし先生の言う通りだったら、あなたの墓所はこのパリに築くことになるんだから。





 タクシーに揺られながら、夏だと言うのに強烈な寒気を俺は感じていた。


「へー、日本人はやっぱり忍術が使えるんですネ」


「まあそうだな。分身くらいなら子供でもできる。それより、クーラー効きすぎじゃないか。寒いくらいだ」


「そうですか? ちょっと待ってください」


 エマが運転手にフランス語で話しかける。何を言っているかわからなかったが、短いやり取りの後、エマは再び俺に向き直った。


「ユータ、クーラーは点けてないそうです」


「そうか、すまん。俺の勘違いだったみたいだ。どうやら生き霊の類らしい」


「イキリョウ? ユータ、イキリョウとはなんですか?」


「ああ、生きている人間の幽霊みたいなものだ」


「おー、幽霊知ってます。四谷怪談ですネ! でも死んでなくても、幽霊出るですか?」


「強く相手を思っているとな、魂だけそこに飛んでくんだよ」


「日本人は魂飛ばせますか? あ、陰陽師? 映画で見ました」


「まあ、一般的な日本人ならだいたい生き霊を出せるぞ」


「すごいです! 私、日本に行ったら、サムライとニンジャと陰陽師に絶対サインもらいます!」


 エマには悪いが、現代の日本にはどれもいないはずだ。他人の夢を壊す気にはなれないので、真実は黙っておこう。


「にしても、エマはどうしてそんなに日本好きなんだ? 日本語もべらぼうに上手いし」


 エマはキョトンとした目を瞬きさせる。それからやけにしたり顔になって言う。


「あ、それ聞いちゃいますか?」


「いや、言いたくないなら別にいいけど」


「どうしようかな、ユータにだったら話さないでもないですが」


「いや、そこまで興味があったわけじゃないからいいや」


「わー、嘘です、嘘です。言いますから、ぜひ聞いてください!」


 俺が先を促すと、コホンと小さく咳払いして、エマは話始めた。


「実はですね。わたしのママンは日本人なんです」


「そうなのか? ハーフには見えなかったけど」


 エマはどこからどう見ても生粋のパリジェンヌにしか見えない。


「そうですよね、ハーフには見えませんよね。そうなんです、わたしの本当の母親はわたしを産んですぐに亡くなってしまいました。日本人なのは新しいママンの方です。わたしが日本に興味を持ったのはママンのことをもっと理解したかったからです。もっと仲良くなりたかったから……」


 エマの目は真剣そのもので、本心でそう思っているんだと、今日が初対面の俺にでもわかった。


「エマ、すまなかった。そんな理由があるなんて俺知らなくて……」


 てっきり日本映画に影響を受けたんだとばかり思っていた。


「ユータ、どうして謝るです?」


 エマは不思議そうに首を傾げる。


「エマ、さっきまで話したことは全部忘れてくれ。今の日本には侍も忍者も陰陽師も、河童もいないんだ」


「そ、そんな……嘘だったんですか? で、でも、トトロはいますよね? 日本の森の中に昔から住んでるんですよね?」


「……すまない」


 俺は顔を背けるしかなかった。


 それからのエマの落胆ぶりは凄まじいものだった。信じていたものに裏切られた気持ちが如何程なのか俺にはわからない。結局、タクシーが目的地に着くまで彼女は落ち込んでいた。一方俺は、弱まるどころか、徐々に強まる背筋を凍らせるような寒気に、生き霊だけは本当にいるのかもしれないと考えを改めていた。

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