41話 お寿司はんぶん食べますか?
斜陽に染まるパリは絵葉書みたいに綺麗で、涙が出そうになる。名も知れぬ広場のベンチに座って、俺は途方に暮れていた。パスポートこそ盗られなかったものの、財布とスマホを失った俺は目的地に向かうことが出来ずにいた。それどころか自分が何処にいるのかさえ分かっていない。篠原に助けを求めようにもスマホがなくては連絡もとれなかった。
「もしかしなくともマズイか?」
ただでさえ篠原には心配をかけている。夜になっても俺がホテルに現れなかったら、あいつはパニックを起こすだろう。とにかく、ホテルまで歩いて戻らないとならない。ホテルの名前はなんと言っただろうか。横文字を覚えるのは苦手なのだ。
「お寿司、お寿司、アキータのお寿司♪」
何処からともなく珍妙な歌が聞こえてくる。雑踏の中で、その歌だけがはっきり俺の耳に届いたのは、それが日本語だったからだ。俺は顔をあげて、歌の主を探した。やがて視線がパック寿司を手に持った金髪碧眼の少女に行きあたる。俺があまりにもしげしげと見つめていたからだろう、彼女もこちらに気付き、目があった。少しウェーブのかかった長髪で、青い目は篠原のそれとは異なり快活な印象を与える。黒のサマーセーターに、膨らみのある深紅のフレアスカート。茶色い革のブーツが振り上がる度に、スカートの裾から白いフリルを覗かせる。彼女はこちらに向かって歩き始めていた。
「あなた、日本人ですネ?」
彼女はかなり流暢な日本語で言った。
「そうだけど」
「やっぱり! すぐにわかりました。わたし、日本人大好きです」
かなり大きな括りだったが、大好きと言われて悪い気はしない。
「クロサワのシチニンノサムライ、オズのトーキョーモノガタリ、とか大好きです」
「クロサワ? オズ?」
よくわからないが有名な日本人なんだろう。
「わたし、エマです。あなたは?」
「高槻悠太だ。よろしく」
「こちらこそ、よろしくです。ユータ、隣に座ってもよろしいですか?」
俺が頷くと、エマはベンチに腰を下ろして、パック詰めの寿司を食べ始めた。よく日本食を食べているのか、箸を器用に使って口に運んでいる。
「アキータで買ったお寿司をこの広場に座って食べるのが好きなんですよ。日本の食べ物、とっても美味しいです」
「…………じゅるり」
「ユータ?」
俺が物欲しげに寿司を見つめていることに気づいたのかエマは怪訝な顔をする。
「よかったら、お寿司はんぶん食べますか?」
「いいのか?」
俺は間髪入れずに聞き返していた。エマはにっこり笑って、もちろん、と頷いた。
「……そうですか、それは災難でしたネ」
エマからもらった寿司はちょっと独特な味だったが、空腹だった俺には願ってもいないご馳走だった。
「でも、もう大丈夫です! わたしがホテルまでユータ連れて行ってあげます」
「本当か? それはすごい助かる、けど……」
「けど?」
「こんなこと初めてあった相手に話すべきじゃないんだろうが」
「気にしないで、ユータ。旅は巻き添え、世は奈良漬、と日本のことわざでも言うでしょう」
そんなことわざは初耳だったが、エマの好意に甘えることにする。
「俺がパリに来たのは観光が目的じゃないんだ。実は人を探していてな。まあ、ある店の常連だってことしか手かがりがないんだが。それでもどうしてもその人を見つけなくちゃいけない」
俺がパリにいる短い期間の間にその人と出会えるか、それは正直言って賭けみたいなものだ。たとえ僅かな可能性しかなくても、簡単に諦めるわけにはいかない。この機会を逃したら、次いつチャンスが巡ってくるかわかったものではないからだ。いや、もしかしたら、もう二度とそのチャンスは訪れないかもしれない。世の中には取り返しのつかないこともままあるのだ。
「それはユータにとって大事なことなんですね」
「大事だよ、すごく大事だ。だから来たんだ、こんな遠くまで」
この街にはなんでも揃っているんだろう、だったら俺が欲しいものだってここにあるはずなんだ。
「わかりました。わたしにもユータを手伝わせてください」
「いいのか?」
「はい。ちょうど暇でしたし、面白そうなので。それにユータが会いたい人にも興味あります。わたしで良ければ付き合います」
「ありがとう、恩に着るよ」
「気にしないで、旅は巻き添え、ですから」
別に巻き添えにするつもりはないんだが。それでもエマが手伝ってくれるのは素直に心強かった。
「それでそのお店の名前はなんというですか?」
「えーと確か、モンマルトルにあるムーランなんとかって店で、なんでもロートレックだか、ルノワールだかの絵画にも描かれた有名な場所らしいんだが」
「ロートレック!」
エマは身を乗り出して反応する。
「わたし、彼の絵は大好きです。なるほど、わかりました。ムーラン・ルージュですね」
「ムーラン・ルージュ……そんな名前だったかな?」
塔子が送ってくれたメールがあれば確かめられるのだが、スマホをなくした今はそれも叶わない。
「間違いありません。ムーラン・ルージュ、とても有名なお店です」
「じゃあ、たぶんそこなんだろうな。どんな店なんだ」
「とっても素敵なお店です。食事とダンスが楽しめます。ユータ、フレンチカンカン知ってますか?」
「フレンチカンカン?」
「踊りですよ」
エマはベンチから立ち上がると、即席のフレンチカンカンとやらを披露してくれた。チアリーダーとかがするラインダンスみたいに、ロングスカートを翻して、足を前方に高く振り上げる。足は幾重にも重なったフリルをかきあげて、スカートは半月に広がって舞い上がる。爪先が頂点に達すると、それにやや遅れてフリルの襞が彼女の足を包むように覆い隠した。服が捲れるのも厭わず、彼女は踊り続ける。
なるほど、フレンチカンカンは非常に興味深い踊りのようだ。念のため言っておくが、俺は何も見ていないからな。
「わかった。ムーラン・ルージュに案内してくれ。早く行こう、急いで行こう」
「はい、あ、でもユータの格好少しラフすぎますね」
「ドレスコードでもあるのか?」
「いいえ、でも伝統的な場所ですから多少は弁えないと、です」
「まいったな。着替えは、ホテルだ」
「わかりました。ディナータイムまでまだ時間あります。服を買いに行きましょう」
「いや、俺金ないし……」
「心配しないでユータ、わたしがコーディネートしてあげます」
そして俺はエマに強引にタクシーに押し込められた。そこまでしてもらうわけにはいかない、と俺が言っても、彼女は頑として聞き入れず、そのあまりの強情さに俺は次第に抗うことを止め、流れに身を任せることにした。自分が間違った方向に進んでいるとも知らずに。
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