33話 傘いれてくれない?
その日も生憎の雨だった。
「傘入れてくれない?」
昇降口に立っていた私に横宮さんが声をかけてきた。彼女は同じクラスの明るい女の子で、一年の時からよく話す友達である。
「あら、横宮さん、今日は早いのね」
「そうなの部活が早く終わってね。ってそういうミズちゃんはなんで残ってるの?」
純真な目が私に向けられる。
「そ、それは……」
「あ、わかった。タカちゃんが来るの待ってるんでしょう?」
「ち、違うわ、いや、違くないけど、ちょっと話をしようと思っただけで」
「へー、やっぱりそうなんだ」
「やっぱりって?」
「二人が付き合ってるってもっぱらの噂だもん」
「え、本当に?」
いったい誰がそんな噂を流したのだろうか。最近ずっと二人で行動していたから、噂されるのも当然だろうけど、後で突き止めてちゃんとお礼を言わないと。
「まあ、あたしからしたらやっとかって感じかな。一年の時からミズちゃんタカちゃんのことばっかり聞いてくるわりに、同じクラスになるまでろくに声もかけられないから心配してたんだ」
「それは言わない約束でしょう!」
私は周囲を見渡して、誰か聞き耳を立ていないか確かめる。
「でも安心したよ。二人とも付き合い始めたみたいで」
「まだよ」
「え?」
「まだ付き合ってないわ」
「そうなの?」
「実はね……」
人に聞かれないように横宮さんに近づいて耳打ちする。
「え、今日返事をするの?」
「しー! 声が大きいわよ」
「そっか、そうなんだ。わーすごいね」
私の代わりに横宮さんが顔を赤らめて恥ずかしがっている。見ている私の方まで緊張してきた。
「ミズちゃんなら、絶対成功するよ」
「ありがとう」
「じゃあ、あたしは邪魔だから帰るね。あ、でも傘ないんだった」
「私のを使って」
「いいの?」
「ええ、教室に置き傘があるから大丈夫」
「ありがとう、じゃあ頑張ってね」
横宮さんを見送って、また彼を待ち始める。そろそろ図書室を出る頃だろうか。
彼に返事をするときをずっと待ちわびていた。結果がわかっているのだから何も恐れる必要はない。今日は喜ばしい日になるはずだ。だけど、どうしてか私の心は憂鬱だった。月並みだけどこの雨空のように。
「どうしたんだ。浮かない顔をして」
「あんたこそ、憂鬱な顔をぶら下げて。何かあったの?」
「ちょっとな。篠原は?」
「私も。でも別に悪いことじゃないの、安心して」
再婚のことは彼には伏せておこうと決めていた。二人の関係はなにも変わらないのだから。
「そうか、なんかあったら相談してくれ」
「うん、ありがと」
私は思わず笑顔になってしまう。いけない、また彼の優しさに甘えてしまいたくなる。これは私の家族の問題だ。それに家族を失うことと比べれば、家族が増えることなんて大したことじゃない。
「ところで早速相談があるんだけど……」
「なんだ?」
「傘入れてくれない?」
「なんで?」
「なんでって……傘を忘れたから」
そう
「そうか。でもいいのか、周りから噂されるぞ」
「もう噂になってるから、別にいいよ」
上目遣いでそう告げる。そして傘を広げた彼に体をくっつけた。これなら彼も意識せざるをえないだろう。作戦通りだ。このまま良い雰囲気を作って、私も彼に告白するんだ。
道中、彼は私に歩調を合わせて歩いてくれた。私が濡れないように傘をこっちに傾けてくれる。相変わらず彼は優しかった。付き合い始めたら、もっと大切にしてくれるのかな。
「駅まででいいよな」
「うん」
これでいい、あとはその間に告白を……おかしい、緊張のせいだろうか、お腹に違和感がある。まずい、いくら雨が降っているとはいえ、こんな近くではお腹の音が聞こえてしまう。今お腹を鳴らしたら雰囲気が台無しだ。告白どころではない。そればかりか、彼に幻滅されてしまう。耐えるのよ、私。駅まで耐えれば仕切り直せる。
「あの、この前のことだけどさ」
どうしよう。彼が告白のことを話題に出そうとしている。私がそう仕向けたんだから当然ではあるけど、今だけは避けなければいけない。
「この前っていつ? 映画のとき? タピオカ飲んだとき? それとも図書室で勉強したとき?」
私は適当にはぐらかしながら、この状況を切り抜ける方法を考える。
お腹はまるで別の生き物が中を這いずり回っているみたいに変な調子で、今にも不協和音を奏でそうだった。
「わかった。もう一度言えばいいんだな。大声で叫んでやるから今度は聞き逃すなよ」
「え、待って、本当にここで言うの?」
今同じことを叫ばれたら、周りの人に聞かれてしまう。それに周囲の注目を集めたら、ますますお腹を鳴らすわけにはいかない。
「あ、思い出した。そうよね。そんなこともあったわね」
「それで?」
「それでって?」
「だから、返事は?」
万事休すだ。これ以上誤魔化せない。追い詰められた私のお腹はもう限界に近い。
ふと、彼のポケットに刺さっているそれが目についた。
「あれ、あんたそんなの持ってたっけ?」
「ん? ああ、これはな……」
それは作家をしている彼のお父さんの使っていた万年筆だった。その万年筆にはちょっとした秘密があったのだけれど、それはまた別のお話。ともかく、私はそのペンのおかげで話題を逸らすことができた。
緊張がほぐれたのかお腹の不調も治まってきた。私たちはそのまま万年筆のインクを買いに出かけることになった。残念だけれど、告白はまたの機会にとっておこうと決める。
電車に乗ってからも、告白の話題がでないように万年筆の蘊蓄を熱心に喋り続けた。
「安心して、私の行きつけのお店があるの。そこならインクも紙も揃っているし、店主さんはペンドクターの資格も持っているのよ」
「要するにその店に二人で出かけるってことだよな?」
「ええ、私が色々教えてあげるわ」
「じゃあ、これはデートってことでいいか?」
「へ? で、デート!?」
急に何を言いだすのよ。確かに今までだってデートのつもりでいたけど、改めて言われると恥ずかしくなってくる。
「放課後に二人で出かけて、買い物するんだからデートだよな?」
「そ、そうだけど。どうして殊更に強調するのよ。そんなこと言われたら意識しちゃうでしょう」
治まっていたはずの腹痛がまたぶり返してくる。もしかして今朝のカレーが痛んでいたのだろうか。痛みはさっきよりも激しさを増して襲ってくる。まるで猛獣が中で暴れまわっているみたいだった。
「意識してもらわないと困るんだが」
彼が私の寄りかかっているドアに手を押し当て、体を近づけてくる。これでは逃げ場がない。もしかすると、もしかするかもしれないのに、この距離では間違いなく音と匂いでバレてしまう。もしそうなれば、きっと千年の恋も冷めてしまうことだろう。
「なんのつもり?」
「車内で靴を投げてくる女に言われたくないな」
そんな昔のこと持ち出さなくてもいいじゃない。早く、早く駅に着いて! お願いだから。
「み、見られているわよ」
「そんなの屁でもないさ」
「屁も出ないって言うの?」
だめだ私。動揺しすぎて変なこと言ってる。
「篠原こそどうなんだ?」
「ど、どうって?」
私は出そうだから早くトイレに行きたいだけよ。
「俺のことどう思ってるんだ?」
どうして今聞いてくるの! もう我慢の限界。許して!
私は両手で彼を前に突き飛ばした。彼が尻餅を付いてドスンと大きな音が響く。電車がようやく駅に辿り着いた。
「先に行っているからね!」
開いたドアから電車を飛び出した。改札を抜けて、トイレに駆け込む。ことを済ませてトイレを出ると、私を探していた彼と行き当たる。
「さっきは悪かった」
「いいのよ、気にしないで」
半ば放心状態のまま応える。
「でも、本当にごめん、俺、焦ってたのかもしれない」
「私も焦ったけど……でも本当に気にしないで」
私は自分の恋を守り切ったんだ。よくやった私。頑張った私。悟りを開いたかのような充足感が体に染み渡ってくる。
これでもう恐れることなどなにもない、そう思っていた時期が私にもありました。しかし、次の試練が目前に迫っていることを私はまだ知らなかったのです。
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