part.2 Lomo lc-a 32話 魔法のカメラ

 6月だ。雨は嫌いじゃない。音楽には不向きな季節だけど、雨音を聞きながらする読書は気分がいい。それに6月に結婚した夫婦は幸せになれると言われている。6月のヨーロッパはブライダルにふさわしい美しい季節なのだ。


「私もできたら6月に……って、べ、別に彼との結婚をすでに考えているわけじゃないんだからね!」


 私は持っていたおたまを思い切り振り下ろした。ああ、まただ。最近彼のことが頭に浮かぶと発作が起きてしまう。胸の高鳴りを抑えることができないのだ。自分を落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。全ては彼に教室で告白されてからだ。ずっと片想いしていた彼とようやく両想いになれたのだ。本当はすぐにでも返事をしたかったのだけど、あのときは事情があってできなかった。でも、いまの私は違う。いまなら、彼の気持ちに応えることができる。それも全部彼のおかげなんだけれど。


「でも付き合って、もし幻滅されたらどうしよう」


 距離が近づけば近づくほど、悪いところも目に入ってしまう。私の虚勢が剥がれても、彼は私を好きだと言ってくれるだろうか。私はみんなが思っているような完璧な人間じゃない。例えばそう、料理だって……。


 私はフライパンの蓋を外した。綺麗な目玉焼きが二つ並んでいる。フライパンを持ち上げて、反対にひっくり返してみても、目玉焼きは張り付いたまま落ちてこない。朝ごはんは見事に失敗したようだ。


 お手伝いさんが夏風邪を引いて休んでいるので、料理に挑戦してみたのだけれど、なれないことをするべきではない。今度は鍋の蓋を外した。


「昨日作ったカレーはなんとか食べれそうね」


 おたまでルーを掬って味見をする。


「一晩おいたカレーって本当に美味しくなるのね!」


 なんだ案外料理もいけるじゃない。これなら彼のお嫁さんにだってなれそうだ。


 携帯の着信音が鳴る。私は画面に表示された名前に大喜びで飛びついた。


「Allo?」


「やあミズキ、手紙読ませてもらったよ。よく頑張ったね」


「ルイ先生、ありがとう」


「きみの新しいヴァイオリンが早く聴きたいな」


「ダメよ、もっと練習してからでないと。錆び付いた音を先生に聞かせるわけにはいかないから」


「ならパリに来なさい。また一から教えてあげよう」


「フランスに?」


「そう、きみの才能にふさわしい環境がある」


「……そうね、少し考えさせて」


「ところで、きみが日本に旅立つ前に渡したカメラを覚えているかい」


「ええ、覚えているわ。大切に仕舞っているもの」


「あれは魔法のカメラなんだ」


「魔法?」


「そう、失われた時間とつながりを取り戻してくれる。きみの役に立つと思ったから渡したんだ」


「でも、先生、私やり直せるのかな」


「使い方は教えたよね。きみの幸福を祈っているよ。それじゃあ、こっちで待っているね」


「ええ、必ず会いにいくわ、またね」


 通話はそこで終わった。先生の申し出は素直に嬉しかった。一度楽器を捨てた私にもう一度チャンスをくれるというのだ。それを断るのは馬鹿だ。


 私はカレーを食べた後、自分の部屋に戻ってクローゼットを探し始めた。


「たしか、ここに置いたはず」


 チョコレートの大きな空箱に先生のカメラとアルバムが入っていた。私はカメラより先にアルバムに手を伸ばした。中には幼い私を中心に若い頃の母や父の姿もあった。けれど、写真をどれだけ探しても見つけることができなかった。


「3人で撮った写真が1枚もないなんて……」


 もしアルバムの写真がばらばらに散らばったら、誰が写真に映る人たちを家族だと思うだろうか。私はアルバムだけを箱に仕舞って、カメラを手に取る。手のひらに収まりそうな小さい黒いカメラだ。正面に『Lomo』とメーカー名が刻印されている。


「水希、入ってもいいかい」


「パパ? 帰ってたのね。どうぞ入って」


 久しぶりに見た父の顔は晴れやかで私は安心する。


「どうしたの?」


「話があってな」


「話?」


「ヴァイオリン、また始めたんだな」


 父は部屋に置かれている楽器に目を向けた。


「ええ、そうなの」


「そうか、良かった。もう二度とお前のヴァイオリンが聴けないと思っていたから」


「……私もね、そう思ってた。それで話って?」


「実は父さん再婚を考えている相手がいるんだ」


「再婚?」


「ああ、まだ早すぎるとも思ったんだが」


「いいえ、とっても素敵よ、パパ。だって新しい家族が増えるんですもの」


 私がそう言うと、父はほっとしたように長い息を吐いた。


「水希がそう言ってくれて嬉しいな、反対されると思っていたんだ」


「反対なんてするわけないわ。パパにはもっと幸せになってほしいから」


「ありがとう。安心してほしい、彼女は素晴らしい人なんだ。きっと、水希も彼女を気にいるはずだ」


「そう、会うのが楽しみね」


「ああ、今度はきっとうまくいくはずだ。とは違う」


 私は父の言葉に固まってしまった。何も言い返せなかった。凍りついた笑顔を崩さぬように努めた。


「だけど、もう一つ問題があるんだ」


「問題?」


 問題なんてなにもないはずだ。だってこれは祝福すべきことなんだから。私が余計な口を挟まなければそれで済む話だ。


「彼女にも二人子供がいるんだ。その子たちとも一緒に暮らすことになるかもしれない」


「そう、でも大丈夫よ。きっと仲良くできるわ。ずっと兄妹が欲しいって思っていたの」


「水希、すぐに賛成してくれなくていい。一緒に考えて決めて欲しいんだ」


「……そんな、私は賛成よ。だってこんな素敵なこと他にないでしょう?」


 そして私は良い案を思いついたとばかりにカメラを構えた。


「記念に写真を撮ってあげるわ」


「それはフィルムカメラかい?」


「ええ、古風でいいでしょう。笑って」


 私は先生から教わったことを思い出しながら、レンズ横のレバーを動かして焦点距離を設定する。ファインダー越しに父の笑顔を見つめた。我ながら名案だった。カメラで顔を隠していれば泣いているのを悟られずに済む。


「撮るわよ」


「ああ、大丈夫だ」


 そういえば、ルイ先生もこうして私と母の写真を撮ってくれたんだった。これが魔法のカメラだと先生は言っていた。失われた過去とつながりを取り戻してくれると。


「水希?」


「目を瞑ってはだめよ」


 たとえこれが本当に魔法のカメラでも、いくらんなんでも手遅れすぎる。光は未来にしか進んでくれない。昔のままに止まってくれるものなどなにもないんだ。


 私はシャッターを押して、またいつも笑顔に戻った。

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