31話 『by the mark twain』

「どうしたの、急に呼び出したりして」


 仕事を切り上げて帰ってきた母さんは俺を訝しい目で見つめる。


「いや別に、今日はカレーだからみんなで食べたくてさ」


「今日も、カレーでしょう。こんな時期に作り置きなんかして、お腹壊しても知らないからね」


 俺は解凍しておいたカレーを鍋で温める。一応食中毒には気をつけているのだ。


「そんなことより、再婚のことだけどさ」


「へぇー、きみの答えはでたの?」


「俺は別にどっちでもいいんだ。母さんの意見が聞きたくてさ」


「私? 私はもちろん再婚したいわ。遊馬さんはとても素敵な人よ。ハンサムでお金持ちで、どこぞの三流作家とは比べものにもならない」


「そっか、なら反対なんてしないさ」


「いいの? 水希ちゃんと兄妹になっても」


「それもやむなしだ。母さんが望んでるなら」


「やけに素直じゃない」


「俺も高校生だからな。現実は受け入れるよ」


 俺は盛り付けたカレーをテーブルに置いて、母さんにスプーンを渡した。


「ふーん、まあわかればいいのよ」


 母さんはカレーを頬張り始める。


「そういえば、母さんもいらないみたいだったし、あの万年筆捨てといたからな」


 俺がそう口に出した途端、カレーの皿がひっくり返った。


「捨てたってどこに!? どうして!?」


 母さんは俺に詰め寄って、胸ぐらを掴んで問い詰める。


「いらないんじゃなかったのか?」


 俺の薄ら笑いに気づいて、母さんは手を離した。露骨な舌打ちが聞こえる。


はかったわね」


「これも現実だよな」


 俺はポケットから万年筆を取り出して、母さんの手に握らせる。


「大人なんだから受け入れろよ」


「……きみってばますます高槻くんに似てきたね」


「悪くないだろ」


「そうね」


 ドアが開く音がして、よしのが軽快な足取りで入ってくる。片手に一枚の写真をひらつかせている。


「ただいまです。やりましたよ、コンテスト優勝しました。ってなんですかこれは、二人とも食べ物は粗末にしちゃダメですよ」


「お前が言うな!」


 テーブルの上にはひっくり返ったカレーが無残にも広がっていた。母さんはそんなことは気にもとめず、よしのからひったくった写真に見入っていた。


「母さん?」


「いい写真ね」


「そうなのか」


「ええ、素敵な二人ね」


 俺も写真を覗き込んで納得する。


「そうだな」


「再婚の話ね、なくなったから」


「は?」


「向こうから断られたの。まだ早すぎたみたいだって」


「なんだよ、それ」


 結局俺の取り越し苦労だったわけか。


「母を出し抜こうなんて百年早いわ」


 俺の頭をポンポン叩くと、母さんは写真を置いて自分の部屋に戻っていく。その手にはあの万年筆がしっかりと握られていた。


「……これでよかったんだよな」


「お兄ちゃん、スマホ鳴ってますよ」


「え、ってカレーまみれじゃねえか!」


 俺はカレーを拭き取って、スマホを耳にあてた。


「もしもし?」


「私よ」


 耳がくすぐったくなるような声だった。


「篠原か、今回はお互い大変だったな」


 俺はテーブルの上の写真に目を落とした。写真に写る篠原はとびきりに可愛い笑顔をしている。一緒に写真に写れてよほど嬉しかったのだろうか。


「そうね、でもこれで心置き無く言えるわ」


「何を?」


「この前の返事だけど、……『by the mark twain』よ」


「マーク・トウェイン? どう言う意味だ?」


「自分で調べれば! じゃあ、またね」


 電話はそこで切れてしまった。俺は早速スマホでその言葉を調べてみる。


 『mark twain』は水深二ひろという意味だ。そしてそれは蒸気船が航行できる限界の深さだということらしい。


「要するに前に進んでもいいってことか……」


「お兄ちゃん、私のカレーはどこですか?」


「よしの、今日は美味いものでも食いにいくか」


「あ、じゃあうどんで!」


 2人前は食わないぞ、と俺は妹に先に言ってやった。




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