インターバル

24話 幼稚園の頃の話

 あれはまだ私が幼稚園に通っていた時のことだ。


 ちょうどその頃は父の会社が軌道に乗り始めた時期で、父も母も仕事に忙しく家を空けることが多かった。


 私の送り迎えをしてくれたのは雇われのお手伝いさんだ。園児たちやその親たちも、みんな彼女が私の母親なのだと勘違いしていた。私には誰にも負けないほど美しい母がいるのにと悔しく思ったものだ。


 そんなある日のこと、どれだけ待ってもそのお手伝いさんが迎えにこないことがあった。幼稚園の先生が家に電話をかけても通じなかったらしい。


 あとでわかったことだけれど、その日母が彼女をクビにして家から追い出したそうだ。器量きりょうが良くて従順じゅうじゅんだった彼女が母の怒りを買うとは信じられなかったけど、それから何度も母は人を入れ替えさせたから彼女に原因があったという訳でもないらしい。その頻度は私が彼女の名前を忘れてしまうくらいだった。


 残念なことに母は、娘を迎えに行く者がいなくなったことに気付かずに次の仕事に向かってしまった。私は仕方なく活気の消えてしまったその静かな場所で、誰かが来てくれるのを待つしか無かった。


 幸いにも、私一人きりじゃなかった。同じような境遇の男の子が一人いたのだ。それが悠太くんだった。


 悠太くんはなんというか、幼い頃の私から見ても少し変わっている男の子だった。みんなが園庭で鬼ごっこをしている時に、一人部屋でブロックをひたすらに積み上げていたり、歌の練習をしている時に彼だけ抜け出して木に登っていたり。平たく言えば周りとペースがあっていないのだ。


 そしてどういうわけか、幼児の間ではそういう子がモテたりする。数人の女の子が悠太くんに恋していた。と言っても園児の恋なんて、とても恋とは呼べる代物じゃない。手を繋いで歩いたり、お手紙を書いたり、無計画に結婚の約束をする、そんな類のものでしかなくて、当然そんな小さい女の子たちに男を見定める力なんてない。ちょっと周りから浮いているだけの男の子が魅力的に映ってしまうのだ。


「ゆうたくんちも迎えこないの?」


「うん、たぶん忘れてるんだとおもう」


 先生が話すところによれば、彼の親は常習犯らしい。そして、母親たちの噂では、彼の両親からして変わり者だそうだ。


「ひどいわ、子供のことを忘れるなんて」


「みずきちゃんはどうしたの?」


「わたし? わたしはね違うのよ。ほんの小さな手違いがあっただけなの。いまに二人とも走ってかけつけてくるわ」


「ふーん」


「本当よ、本当なの。いつだってわたしを大事にしてくれるんだから。二人とも寝る前にわたしに頬ずりしてキスしてくれるの」


「いまだって、わたしが心配でしかたないはずよ!」


「そっか。でもぼくのおとうさんも仕事に行き詰まったら、きっとぼくのことを思い出すよ。仕事がうまく行っているときは、妹が泣きわめいても聞こえないくらいなんだ」


「変わっているのね、あなたのお父さん」


 私は言ってから、自分の口を塞いだ。たとえ本当のことでも、そういうことを口に出してはいけないと父から言われているのだ。だけど、つい癖で言葉が口を飛び出してしまう。


 しかし、悠太くんはまるで気にする様子もなく頷いた。


「うん、すごい変だよ。でも面白いから好き。いつもハックの話を聞かせてくれるんだ」


「ハック?」


「そう、ハックルベリーフィン。お父さんの友達なんだ」


 悠太くんは俄かに興奮しながら父親から聞いたハックのことを私に話してくれた。


「ハックはね、たるの中に一人で住んでいるんだ」


「嘘よ、そんなのありえない! だって樽にはベッドが置けないじゃない」


「信じられないかもしれないけど、これはぜんぶ本当の話なんだ」


「ハックはね、ぼくたちみたいに迎えを待たなくていいんだ」


「どうして?」


「だってハックは一人きりだから」


 悠太くんは笑顔で続けた。


「家族もいなくて、幼稚園にも学校にも行かなくていいんだ。一日中、自分の好きにしていられる。好きなものを食べて、好きな時間に眠れる。お風呂にだって入らなくていいんだ」


「それってまるで悠太くんみたいね」


「お風呂くらい入ってるよ」


「でも、それってすごくさびしいんじゃない?」


 少なくとも私には両親のいない生活なんて考えられなかった。


「そうだけどね、自由でいられる」


 なるほど確かに他の女の子が彼に夢中になるのもわからないでもない。他の男の子だって、アニメや特撮の話は聞かせてくれるだろうけど、こんな話をしてくれるのは彼だけだ。


「ねえ、みずきちゃん。一緒に帰らない?」


「そんな、ダメよ。きっと叱られるわ」


「でも家だって近くだし、僕らだけで帰れるよ」


「……そうかもしれないけど」


「行こう」


 悠太くんは私に向かって手を伸ばした。咄嗟にその小さな手を掴んでいた。二人はそのまま先生の目を盗んで、園を抜け出した。そして悠太くんは私を家まで送り届けてくれた。当然、そのあと大騒ぎになって、先生たちと悠太くんのご両親が揃って家まで謝りに来た。でも、私が自分で悠太くんをそそのかしたのだと父にうそぶいたおかげで、こちらも平謝りするしかなく、双方が謝罪を繰り返すことになった。私にはその様子が愉快に思えて仕方なかった。


 その日からというもの悠太くんが私の中で特別になった。


 毎日のように手紙を書いて渡し、他の子とじゃなくて自分と手を繋いでくれるようせがんだ。私のその熱心さが彼に伝わったか知らないけれど、それは別れのときまで続いた。


 私がフランスに行くことが決まって、引越しの前日、同じ組のみんなの前でヴァイオリンを披露した。どうしても悠太くんに自分の演奏を聴いてもらいたかったのだ。演奏のあと、私は彼をひとけのないところまでつれだした。


「あのね、わたし、フランスにいってヴァイオリンのレッスンをうけるの」


「うん、がんばってね」


「それでね、その、私がもっとヴァイオリンがうまくなったら、私と結婚して欲しいの!」


「うん、いいよ」


 それはとんでもなくあっさりとした返事だった。しかし、幼い私はそれを気にすることもなく話を進めた。


「それじゃあ、誓いのキスをして」


 おそらく私は結婚式の真似事をしたかったんだろう。母のクローゼットからくすねた白いスカーフを花嫁のヴェールにみたてて顔に被り、彼にキスを求めた。


「ねえ、早く」


「……でも、恥ずかしいよ」


 さすがの彼もキスには尻込みしていた。私も緊張していたから、焦って彼に詰め寄る。そして、スカーフ越しに無理やり唇をくっつけた。顔を隠していなければ、そんな大胆なこともできなかっただろう。


「絶対約束だからね!」


 私はそのまま彼の前から逃げ出した。私の小さくて微笑ましい思い出の一つだ。高校生となった今では恥ずかしくて思い出すのもはばかられるけど。


 そしてちょうど今も私は高槻悠太に詰め寄っていた。学校の図書室、カウンターに座る彼に問い詰める。


「ヴァイオリン以外で何か覚えていないでしょうね」


「いや、昔のことだからな。あんまり思い出せない」


「そう、もし何か思い出したら、私、あなたを殺すから」


「怖いな! なんでだよ?」


「いいから、全部忘れて!」


 もしあんなことを思い出されたら、今度は私が不登校になるだろう。恥ずかし過ぎて生きていけない。


「あれ、あんたそんなの持ってたっけ?」


「ん? ああ、これはな……」


「ふーん、それ変わっているわね」


 どうやら私の高校生活はまだ続くようである。


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