23話 キネマホリックの少女
兄に急かされながら、私はスニーカーを履いて外に出ました。『フォレストガンプ』という映画でトムハンクスが履いていたのと同じスニーカーです。コッペパンみたいな形がかわいいのです。
篠原氏はマンションの近くの公園で待っていました。ヴァイオリンと弓を両手で地面に向かって垂らすように持っています。どこか辛そうな顔をしている彼女に私は声をかけることができませんでした。
「篠原、大丈夫なのか」
兄が尋ねると篠原氏は首を横に振りました。
「大丈夫じゃないかも。でも今日は戦いにきたの。もし泣きそうになったら背中を叩いてくれる?」
「……わかった」
篠原氏は私に向き直ります。
「よしのちゃん、今日は私の演奏を聴いて欲しいの」
「演奏? どうして?」
「聴いてくれればすぐにわかるから。ヴァイオリン、久しぶりだから拙い音でごめんね」
篠原氏はヴァイオリンを構えました。既に調律を済ませてあったのでしょう。すぐに演奏が始まりました。素人にもわかるくらいそれは見事な演奏で、とても拙いとは思えません。
「……『カントリーロード』?」
それは私もよく知っている曲でした。篠原氏は一度を弓を止めて私に笑いかけました。
「ちょっと惜しいかな。ヒントはねヴァイオリンだよ」
「ヴァイオリン?」
篠原氏はまた演奏を再開して、こんどは歩きはじめました。兄が楽器のケースを持って彼女の前を先導します。歩きながらなのに演奏は乱れることなく続きました。私もそのあとを追いかけました。公園を出ると当然、道行く人の視線を集めてしまいます。私は気恥ずかしくて顔を隠したいくらいでしたが、楽器を弾く当の彼女はどこ吹く風で、平気そうにしています。さすがは女優の娘と言ったところでしょうか。肝が据わっています。
「ちょっと待ってくださいよ。どこに行くんですか?」
「さあな」
お兄ちゃんは素知らぬ顔ですっとぼけます。
「先に言っておきますけど、私学校にはいきませんから」
「別に行きたくないなら行かなくてもいいんじゃないか」
嘘です。背中に学校に行けと書いてあります。
「それより答えは分かったのか?」
「答え?」
「お前お得意のクイズだよ」
「あ、もしかして……」
『カントリーロード』にヴァイオリンとくれば答えはひとつしかありません。当然、アニメ映画も私の守備範囲です。
「『耳をすませば』ですか?」
「正解!」
篠原氏はオーケストラの人がするみたいに足を踏み鳴らして拍手しました。
「じゃあ、次の曲いくね」
「待ってください。もしかして私の為に練習してくれたんですか?」
「それは、ちょっと違うかな」
「え?」
「自分の為なの。自分が前に進む為に必要なことだから」
篠原氏は歩きながらまた楽器を構えました。私はどうしても先を行く彼女を追いかけてしまいます。彼女の奏でる音を最後まで聴き逃したくなかったからです。
「『メリーポピンズ』の『 Let's go fly a kite』です」
「すごい! 本当に詳しいのね」
「いえいえ、このくらい当然ですよ」
「じゃあ、次はね……」
篠原氏と映画クイズをしながら私はまた父のことを思い出していました。もちろん父の鼻歌と篠原氏のヴァイオリンでは比べ物になりませんが。
「『サウンドオブミュージック』。有名過ぎますよ」
「また正解!」
「『マイライフアズアドック』、これは名作ですね」
「ね、私あの映画大好きなの」
「『世界でいちばんのイチゴミルクのつくり方』」
「本当になんでも知ってるのね」
「なんでもは知りませんよ、知っている映画だけです」
「じゃあ、次行くね」
「『アイアムサム』ですよね?」
「本当に映画がすきなのね」
「
「
「……そうですね」
「じゃあ、映画中毒さんに最後の問題」
篠原氏は巧みに弓を動かして演奏を始めました。そして曲の途中で涙を浮かべていました。やがて大粒の涙が頬を流れ落ちます。けれど、それでも彼女は笑顔のまま演奏を続けようとしています。
「……篠原氏」
「あれ、難しかった? これね、元はヴィヴァルディの作曲なの」
「そんなこと知っていますよ。『クレイマークレイマー』ですよね」
「……うん、これで全問正解だね」
篠原氏は袖で涙を拭いました。それから楽器をケースにしまいました。
人の心に残った映画を聞いて並べれば、もう殆どその人の人柄を知るのに等しいのです。『クレイマークレイマー』は篠原氏にとって特別な映画なんでしょう。
「ちょうど着いたな」
お兄ちゃんが立ち止まって言いました。
「お兄ちゃん、ここ学校じゃないですよ」
「あれそうだったか? お前の学校はここだと思ってたよ」
目の前には父と通っていた映画館がありました。そこは何度足を運ぼうとしても、辿り着けなかった場所でした。
「確かに私にとって映画が教科書です、役者が教師で、ここは学び舎なのかもしれません。だけど、それだけじゃ足りないんです」
「……よしのちゃん」
「ここで新しい映画を観てしまったら、お父さんが見れなかった映画を観てしまったら、お父さんのこと置き去りにしてしまいそうで、それが怖くて仕方ないんです」
だから私は新しい映画を観ることをやめ、父と一緒に観た映画だけを何度も繰り返し再生して、そんなことをしてももう無駄だとわかっているのにやめることができなくて、抜け出せなくなってしまいました。
「映画だったら二人で楽しんでください。私は先に帰ります」
「待って」
離れようとする私を篠原氏が引き止めます。
「今ね、リバイバルやっているんだ。よしのちゃんと一緒に観たかったの」
「リバイバル?」
「『モンマルトル』って映画よ」
「それって……」
それは篠原氏のお母さんが主演している映画です。お兄ちゃんから篠原氏の家庭の事情は聞いていました。お母さんが出ている映画を観れば辛いことを思い出してしまうでしょう。
「どうしてそこまでして……」
「だって、このままじゃ前に進めない気がする。過去の自分と向き合わなきゃ。どんなお姫様だっていつか硝子の靴を脱ぎ捨てて、12時の先に行かなくちゃならないの。その先に未来が待っているから」
「……未来」
「そうよ」
「嫌です。私には未来なんて必要ありません」
お父さんのいない未来なんて、欲しくない、見たくもありません。
「そうだよね。ごめんね。だけど私も怖いの。怖くて仕方ないから、よしのちゃんに一緒に来てほしいの」
「私に?」
篠原氏は頷いてから、私の手をそっと握りしめました。その手は恐怖に震えていました。どうしてその手でヴァイオリンが弾けたのか不思議なくらいに弱々しい力で彼女は私の手を握っていたのです。
「どうしても観たいんですか?」
「もう3人分チケット買ってあるの。一人だと逃げてしまいそうだから、二人にも来てもらった」
「そうだったんですか」
「ダメかな?」
「……ちょっとチケット見せてください」
「え、これだけど」
篠原氏から私は映画のチケットを受け取りました。
「なんだ、もうすぐ始まるじゃないですか。駄目ですよ、上映五分前には着座していないと。それからトイレには行きましたか?」
「よしのちゃん?」
「映画のことなら任せてください。なにせ私は
「本当にいいの?」
「いいから早く行きましょう。あと、私は上映中にポップコーンは絶対食べない主義なんで、売店で買うのはドリンクだけにしてくださいね」
「うん。ありがとう」
「なあ、チュロスなら食べていいか?」
「駄目です」
3人で劇場に入りました。私とお兄ちゃんで篠原氏を挟んで並んで座ります。上映はすぐに始まりました。
「手、握っててくれる?」
「はい」
映画の流れている間、私とお兄ちゃんはずっと篠原氏の手を握っていました。篠原氏の緊張がこっちにまで伝わってくるようでした。私もその勇気にあやかって映画に集中しました。
そして、映画が面白い場面に差し掛かると、私は決まって篠原氏の反対の左隣を振り返ってしまうのです。そこは父がいつも座っていた場所です。私がそちらに目を遣ると、父も映画を観ているはずなのに何故か目が合って、そして父はにっこり笑って頷くのです。映画に感動するたびに、言葉も使わず二人でそれを確かめ合っていたんです。
「なんだ。ずっとここにいたんですか。すぐ隣にいたんじゃないですか。なのに私、馬鹿ですね。ここにくればいつでも会えたのに」
私は映画を観るのをやめて、二人にバレないようにじっと俯いて涙が止まるのを待ちました。でも、たぶん篠原氏にはバレていたと思います。篠原氏は最後までスクリーンから眼をそらしませんでした。その横顔はまるで一流の女優のように美しく輝いていました。
「もっと早く観に来ればよかった。私、やっぱりお母さんが好きなんだ。あの人の出ている映画が大好きだった。それが変わるはずないのに」
シアターを出た篠原氏は晴れ晴れとした顔で言いました。
「あの、今日はありがとうございました。それに、この前はその……」
「何言ってるの?」
「へ?」
「まだチケットたくさん残ってるの」
篠原氏はどこからともなく映画のチケットの束を取り出しました。
「どれが面白いかわからないから、とりあえず全部3人分予約したの」
篠原氏はこの映画館のすべての時間帯の映画の席を取っておいたみたいでした。混み始めても、必ず3人で座れるように。
「だからね。今日は一日中映画観れるよ」
「でも、そんなにお金使って大丈夫なんですか?」
「うん? お小遣いで十分足りたけど?」
そういえば篠原氏はとんでもないお金持ちなのでした。
「なあ、お腹減ったから次はポップコーン食べていいか?」
「爆発の多い映画なら可です」
それから私たちはレイトショーまで映画を堪能しました。アクションにコメディ、ホラー、ラブロマンス、多彩なジャンルを横断します。疲れたら映画の感想を言い合ったり、次に観る映画を話し合ったり。
目が疲れるまで、耳がおかしくなるまで、お尻が痛くなるまで、映画の世界にどっぷりと浸かっていました。私の映画中毒の日々が戻って来たのです。
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