19話 春はどんなに青くても青すぎるということはない

 親父に訊ねたことがある。どうやって妹を学校に行かせたのか。入院したばかりの病室で、俺は親父のそばに座って答えを待っていた。だけど、親父ははぐらかすように笑って、言った。


「別に俺はなにもしちゃいないさ。鼻歌歌いながら付いて行ってやっただけだ」


「でも、なにか言ったんじゃないの?」


「何も言ってないさ。だいたい嫌がっているやつに、学校に行きなさいって無理に言って聞かせたって効果ないだろ」


「じゃあ、どうやったんだよ。俺が何を言ってもよしのは聞く耳持たなかったのに」


「あのな、悠太。言葉ってのは案外役立たずなんだ」


「作家先生のくせにそんなこと言うのかよ」


「作家だからさ。言葉ってのは肝心なところで、現実に触れていない、というか無視しているんだ。現実に素手で触れたくないから、言葉を使う、頼りたくなる。人の弱さそのものみたいなもんだ。自分の弱さでは、人の心は動かせない」


「じゃあ、親父はどうやって言葉で人を感動させているんだよ?」


「感動なんてさせてないんだ。まさしく人の弱みに漬け込んでいるだけ。人が忘れたいこと、触れたくないことを、別の言葉で言い換えてやるの。辛い現実ってのすこし取っ付きやすくしてやるんだ」


「聞いて損した。ていうか、がっかりした。それじゃ、ただの現実逃避じゃないか」


「現実逃避、いいじゃないか。俺の病気だって、なにか別のものに置き換えなきゃ、とてもやっていられない。俺流のターミナルケアだな、はは」


「親父、はやく退院しろよ。またよしのが不登校始めたら、俺にはお手上げなんだから」


「別に学校なんていかなくていいんじゃないか。学校の代わりになるものなんて、いくらでも見つけられるさ」


 確かに親父の言う通りかもしれない。勉強なんて他の場所でもできる、学校の代わりなんていくらでもある。でも、親父の代わりになるものは一つもなかったんだ。




「お兄ちゃん、朝ごはん食べないんですか」


「ああ、今日はちょっと食欲なくてな」


 よしのは学校には行かない癖に毎朝律儀に起きてきて、俺が作った朝飯を一緒に食べる。なるべく一人でいたくはないんだろう。母さんは昨日から編集部に泊まり込みで帰っていない。


「今日は学校にいかないのか」


 俺は無駄だとわかっていながら言う。


「学校なんて、行くだけ無駄ですよ。計算なんて電卓使えばいいし、映画の知識だったらググればいくらでも仕入れられますから、……それに私なんかと話が合う子もいませんしね」

 

「別に学校は映画の知識を学ぶために行くんじゃないんだが」


「うるさいですよ。別にいいじゃないですか、学校くらい」


「……そうか、じゃあ、俺も学校サボろうかな」


 俺だって、真面目に学校に通っているわけじゃない。特に最近は学校に向かうことさえ億劫に感じている。


「ダメです」


「え? お前も学校に行きたくないんだろ、俺だってたまには……」


「私は良くても、お兄ちゃんは行かなきゃだめです」


「なんで不登校の妹に咎められなきゃいけないんだ」


「……だって、お兄ちゃん篠原氏と仲直りしたんですか?」


「仲直りもなにも喧嘩なんかしてないだろ。それに元々、篠原とは何にもなかったんだから」


「……そんなわけないじゃないですか。お兄ちゃんは薄情ですよ」


「酷い言われようだな」


「うるさいです。お兄ちゃんなんて、バカ兄貴です。学校に行かなかったらもう二度と口聞いてあげませんから!」


「それは困るな」


 俺はカバンを持って立ち上がる。妹にこうも言われたら、行かないわけにも行かない。


「行ってくるよ。留守番頼むな」


「はいです。任せてください」


 俺は妹の頭に手をポンと乗せて、ありがとうな、と呟いてから、家を出た。



 教室に入ると、俺の隣の窓際の席にすでに篠原はもう座っていた。俺は自分の席に座るついでに挨拶をする。


「おはよう、篠原」


「おはよう、高槻くん」


 篠原はまっすぐ黒板を見つめていて、こちらを振り向きもしない。会話はそこから続くことはなかった。やがて他の生徒が登校し始めて、いつものように篠原の周りを囲んでしまう。賑やかな会話に俺が立ち入る隙はなかった。


「おう、悠太。もう罰当番終わったか? 今日はゲーセン行こうぜ」


 他の生徒よりもだいぶ遅めに教室にやってきた三好が声かけてくる。


「悪いが、今日までだ。それに放課後は早く帰るって言ってるだろう」


「ほへー、お勤めご苦労様です。早くシャバの空気が吸えるといいな」


 三好の軽口が心地よく感じるんだから、俺の青春とやらも末期にあるらしい。


 この前、図書当番をほっぽり出した罰として、放課後になると司書さんの仕事を手伝わされている。期限は一週間。しかし、もうあれから、一週間も経ってしまったのか。


 駅で別れた時の彼女の顔を俺はいまでも鮮明に思い出せる。あのとき、手を伸ばしても届かなかった彼女がすぐ俺の隣にいる。なのに、俺はなにもできなかった。一週間もあったのに、この前のことを話すどころか、朝の挨拶を交わすだけで精一杯だった。


 一体、どんな言葉をかけたらいいんだ。いや、言葉なんかで用足りるのか。あのとき、あいつが自分のこと初めて話してくれた時、俺が感じたことを言葉なんかで伝えられるのか。親父の言う通りだ。言葉はどうしようもないくらい役立たずで、俺とおんなじだ。


 結局、授業中も休み時間も、一度も篠原と話すこともなく、放課後になってしまった。俺は、篠原を置いて図書室に向かう。あれから、篠原は図書室にも来なくなった。たぶん、俺のせいなんだろう。

 


 罰とは言っても、やることは対して変わらない。返却された本を書棚に戻したり、整理をしたり、破けた本の補修をしたり、司書の先生が付いてくれるから、特に戸惑うこともなかった。


 いつも通り書棚を整理していると、女性の先生が声をかけてくれた。


「少しは反省したかな。次はサボっちゃダメだよ、女の子がらみでもね」


 先生は篠原との一件を目撃していたらしく、こうして度々からかわれる。


「まあ、そういう青春らしいことも、嫌いじゃないけどね。でも、高槻くんも案外やるのね。あの子、なかなか美人だったじゃない」


「あいつとはそんな関係じゃないですよ。だいたい、青春とは無縁な人生なんですよ俺は」


 俺は返却された本を書棚に差し入れる。


「あら。それ、そこじゃないわ」


「え? でも著者名順ですよね、ここだと思ったんですが」


「それ小説じゃないのよ。『死の瞬間』ってタイトルはそれっぽいけど。エリザベス・キューブラー・ロスという精神科医が書いた本なの」


「……キューブラー・ロス」


 そういえば、篠原の読んでいた本の作者も同じ名前だったな。


「うちの学校もいろんな進路に進む子がいるから、そういう本も揃えているの。ロス氏はね、ターミナルケアの創始者で有名でね」


「ターミナルケアって……」


 無学な俺でも、その言葉の意味は知っている。日本語に直せば、終末期医療。末期がん患者など、治癒の見込めない病気の人たちの苦しみを緩和させたり、死の不安を抱える人たちの精神的なケアを行うことを指している。


「当時、医学的に治療が困難な患者さんの精神状態まではまるでかえりみられていなかったの。患者さんだけじゃなくて、その家族や友人たちも心理的な葛藤を抱えていた。そういう人たちの話を聞く活動を始めたのが、ロス氏なの。患者さんを招いて、学生に講義をしてもらったり、家族との面談をしたり、とっても画期的な試みだったの」


 どうして篠原がそんな人の本を熱心に読んでいたのか。そんなのわかりきっている、決まっているじゃないか。あいつは俺のことをずっと気にかけていたんだ。


「先生、罰伸ばしてもらっていいですか?」


「あら、今日はもう帰っていいわよ。あとは、私がやっておくから。もったないことに本を読みにくる生徒は少ないようだしね。読書って結構面白いのよ」


 先生に礼を言って、俺は図書室を飛び出した。廊下を走り抜けて、教室に向かう。遅い、あまりに遅すぎたんだ。でも、今は1秒でも早くあいつに会いたかった。何を言うかなんて決まっている。


 教室に入ると、篠原は朝と同じように俺の隣の席に座っていた。夕日が教室に差し込んでいる。他のクラスメイトたちは帰るか、部活をしている。なのに、篠原だけは教室に一人佇んでいた。


 俺は走って息が上がっているのを抑えながら言う。


「どうして……お前は」


 俺は篠原に歩み寄る。彼女も黙って俺を見つめる。


「どうしてまだそんなダサい時計付けてるんだよ」


 あれからも変わらず彼女の腕にその時計はあった。


「だって、この時計頑丈すぎて壊れてくれないんでしょう?」


「ああ、そうだな。わざと壊そうとしたって難儀するだろうな」


「まだ壊れてないよ、動いてるよ」


 時計をこちらに見せながら、篠原は笑った。夕日に照らされたその顔をは俺には眩しすぎるほど輝いていた。そうだ。俺が見たかったのはその顔だ。俺はお前のその笑顔が好きなんだ。




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