18話 「その子ね、ヴァイオリンやめちゃったよ」
食事を終えると、今日は帰るね、と一言だけ残して篠原は店を出て行った。
「よしの、先に帰っててくれ、俺は篠原を送ってくよ」
「お兄ちゃん、あの、わたし……」
「大丈夫だ。俺が話してくるから。一人で帰れるな?」
「はい。篠原氏によろしく伝えてください」
「わかった」
心配そうな顔をする妹の頭をいつものように撫でると、俺は店出て、篠原を追いかけた。
「待ってくれ、篠原。家まで送ってくよ」
俺は追いついた篠原にそう声をかけた。彼女はこちらに目を向けることなく答えた。
「大丈夫、一人で帰れるから」
「じゃあ、駅まで送るよ。この辺の道詳しくないだろ、だから駅まで……」
俺はそう言って、ほとんど強引に彼女の隣に並んだ。彼女が小さくうなづくの見て、俺は胸を撫でおろした。だが、駅までは10分とかからないのだ。それまでに何か話をしないといけない。
俺は彼女にどんな言葉をかければいいのか。やはり、母親のことを問うべきなのか。けれど、そんなプライヴェートなことに俺がおいそれと触れていいものなのか。彼女からしてみれば、余計なお世話なんじゃないか。俺がそんなことを考えている間に、篠原が先に口を開いた。
「今日は、ごめんなさい。折角、いい雰囲気だったのに」
「気にするなよ。妹も喜んでたし、俺だって……」
違う、こんなことを言いたいんじゃない。俺は、もっと篠原に笑って欲しいんだ。クラスの誰かに見せているような愛想笑いではない、こいつの本当に喜んでいる顔が見たいんだ。そのためなら、俺はなんだってするつもりだ。だけど、そのために何をすればいいのかわからない。
このままでは彼女が遠のいてしまう気がする。今しかない、今を逃せばもう、あいつのあの笑顔を俺は見れないんじゃないか。たとえ、学校の教室で明日も隣に並んで座っていても、その距離はもう一生縮まらない気がする。まるで、アキレスと亀みたいに。
「…………」
結局、俺は何も言えなかった。駅はもう目の前だ。ここで、気の利いた言葉を思いつくようなら、俺にも青春というものがわかったのかもしれない。だが、現実は無残にも進行していく。
やっぱり、俺には青春なんてご大層なものは似合わないらしい。もともと、妹のことも助けてやれない情けない男なのだ。学校一の美少女とは到底釣り合うはずもない。
「ねえ」
駅舎の手前で、篠原は振り向いた。苦しげな顔で俺を見つめていた。
「この前、話してくれたよね。フランスに引っ越した女の子の話」
「ああ、したな。それがどうかしたか?」
「その子ね、ヴァイオリンやめちゃったよ」
「え?」
「その子はね、とっても恵まれていたの、裕福な父親に、美しい母親、まるで童話の中のお姫様みたいだった。高い楽器も洋服も、ガラスの靴も、欲しいものはなんでも買ってもらえた。高名な先生のレッスンを受けるためにフランスにだって行かせてもらった。彼女は自分が世界で一番幸せな子供なんだって思っていたわ。でも、それは勘違いだったの」
「篠原……」
「その家族には欠けているものがあった。女の子はそれを補おうと必死に頑張ったの。家族に笑ってもらうために、明るく振る舞ったし、褒めてもらうためにヴァイオリンも必死に練習したの。だけど、だめだった。はじめから全部無駄だったの。愛なき家族はすぐにバラバラになってしまった」
鈍い俺でも、それが篠原自身の話だってことはすぐにわかった。篠原は俺に歩み寄って、時計をしている左腕に触れた。
「あなたのその時計が羨ましい」
「お前だって同じの持っているじゃないか」
「いいえ、同じじゃない。あなたたちは亡くなったお父さんときっと今でも繋がっている。けど、私は違う。私の家族は生きているのに死んでいるみたいなの」
あいつはそんなことを考えながら、俺の話を聞いていたのか。どうして、俺はもっと早く気づいてやれなかったんだろう。
「悠太くん、綺麗な音色だって言ってくれたよね。すごく嬉しかったよ。でも、もうダメなの。楽器を持つと、手が震えて、涙が止まらなくなる。まるでロスチャイルドのヴァイオリンなの」
「あなたが知っている私はもういない」
篠原の手が俺から離れた。俺は思わず手を伸ばした。しかし、その手は空を掴んだ。篠原は俺から離れていく。
「さようなら」
そう言い残して、彼女は駅舎に入っていった。俺は一歩も動くこともできずにその背中を見送ることしかできなかった。
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