17話 ……母を知っているの?

 よしのが学校に行けなくなったのは、今回が初めてじゃない。親父の病気のことがわかったときも、あいつは学校に行かなくなった。その時は、親父が説得してくれたみたいで、妹はまた学校に通うことができた。


 だけど、今回はその親父がいない。そもそもそれが不登校の原因なんだろう。親父が前にどんな手を使ったのか知らないけれど、俺に同じことができるとは思えなかった。


 よしのはお父さん子で、映画好きなのも親父がよく映画館にあいつを連れて行ったからだ。


「お兄ちゃん、やっぱりうどんは二人前ですよね!」


「いや、二人前じゃ多いだろ」


「ええー、うどんは何が何でも二人前ですよ」


「だから多いって」


 隣に座るよしのがそうけしかけてくる。結局、妹の要望通り、近所のうどん屋で夕食を食べることになった。テーブル席で、向かい側には篠原が座っている。


「わかったわ、よしのちゃん。私二人前食べる!」


 篠原がなぜか張り切った様子で会話に参加してくる。これが映画のネタだってことをわかってないみたいだ。


「篠原、無理しなくていいぞ。また映画の真似っこしているだけだからな」


「え、そうなの?」


「篠原氏、ブレラン知らないですか、名作ですよ」


「なるほど、うどんを二人前注文する映画なのね」


「まあ、よしのが言うことは気にしないでくれ。こいつは筋金入りの映画オタクだから」


「お兄ちゃん酷いですよ。私は映画を愛しているだけです」


「だからって家に帰るたびに、あんなことされたんじゃ、たまったもんじゃないぞ」


 不登校になってからというもの、俺が家に帰ると、よしのは何かの映画を模した寸劇を始めるようになった。厄介なのは、俺が映画のタイトルを言い当てない限り、それを絶対やめないことだ。今日みたいに知っている映画ならいいんだが、妹は俺が知らないようなマニアックな映画も平気で入れてくるから、終わらせるのに毎度苦労している。


 うどんを注文して、俺は隣に座る妹を伺う。いつもは人見知りが激しいのに、篠原とは普通に話せているみたいだ。大ファンだって言っていた気がするけど、ほとんどひきこもりの妹がどうやって篠原のことを知ったんだろうか。俺は話した覚えがない。


「お兄ちゃん、家に帰ったら、またアレクセイ・ゲルマン監督の『神々の黄昏』を鑑賞しませんか?」


 それは妹が最近溺愛している映画で、3時間近い長さにも関わらず、毎日欠かさず観ているらしい。そろそろブルーレイが擦り切れてもおかしくない。俺は開始十分で寝てしまうから、詳しい内容は知らないが。


「今日はダメだ。篠原を送らないといけないからな」


「え、いいわよ。一人で帰るから」


「篠原氏、帰っちゃうんですか。もっとお話したいです。今日は家に泊まればいいじゃないですか。そしたら一緒に映画も観れますよね」


 妹の提案に篠原はぱあっと顔を輝かせた。


「よしのちゃんがそう言うなら……仕方ないわね。急だったから、準備はしてないけど、必要なものはコンビニで買えばいいし、明日の教科書はこいつから借りればいいし。今日は一晩中お話しましょう!」


「わーい、篠原氏とお泊まりです!」


「篠原、やけによしのに甘くないか?」


「あ、当たり前でしょ。あんたと違って、こんなに素直で可愛い子なんだから」


「また、篠原氏に褒められました!」


「ならいいけど。親御さんに連絡しなくていいのか」


「別に構わないわ」


「いや、帰りが遅いと心配するだろう」


「心配なんて……どうせ家に帰っても誰もいないんだから」


 嘲るように彼女は言い捨てた。もしかしなくとも、篠原は家族と上手くいっていないんだろうか。そういえば、彼女の口から家族の話を一度も聞いていない。


「ところで、篠原氏はお兄ちゃんと付き合っているんですよね?」


「な、そんなわけないでしょう。誰がこいつなんかと」


「そうだ、篠原と俺とじゃ、月とすっぽん、豚に真珠だ」


「そ、そうよ、猫に鰹節よ!」


 いや、篠原それはちょっと意味が違うぞ。


「そうでしたか。同じスピードモデルの時計を付けているから、てっきり既に懇ろな仲なのかと思っていました。美人な姉ができたと思って喜んでいましたが、勘違いでしたか」


「べ、別によしのちゃんは、私のこと実の姉のように思ってくれて構わないわよ」


 なんでそうなるんだ。妹が変なことを言うせいで、篠原がおかしくなってしまったじゃないか。


「篠原氏、さてはキアヌ様の大ファンですね。『スピード』に主演したときの若いキアヌ様は超イケメンですよね。ああ、でも今のキアヌ様もいい味出してますね。甲乙つけがたいです」


「そうよ、大ファンなの。そのキアヌだが、なんだかの」


 キアヌ・リーブスな。篠原、さては知らないだろ。


「私も、篠原氏のお母さんの大ファンなんですよ」


「え?」


「篠原氏のお母さん、数々の名画に名を連ねる大女優じゃないですか。私、あの美貌にはスクリーンでなんど見惚れたことか」


「……母を知っているの?」


「もちろんです! 日本の映画にはあんまり出ていませんけど、海外では有名ですよね。あの演技力は賞賛に値します」


「へー、篠原の母さん女優なんてやってるんだな」


「お兄ちゃん、話したでしょう。日本が誇る至宝ですよ。私、彼女が出てる映画全部観ましたよ。女性が見惚れるほど美しいです」


 もしかして、大ファンだって言っていたのは、篠原のことじゃなくて、その女優をやっている母親の方だったのか。すっかり勘違いしていた。


「娘の篠原氏もお母さんに似て超美人ですよね。お兄ちゃんと同じ高校にいるって聞いた時から、ずっと会いたいって思っていたんです。『モンマルトル』の撮影のとき、子役で出演しないかって監督から誘われたんですよね」


「そりゃ、すごいな」


「雑誌のインタビューで、お母さんと一緒に写っている写真もあるんですよ。その時の話も聞かせて欲しいです」


「……やめて」


 妹の饒舌に気を取られて、気づかなかった。篠原は暗い表情で俯き、テーブルに載せた手が震えていた。


「母の話はしないで……お願い」


 俺も妹も咄嗟のことで何も言えなかった。


 店員が人数分のうどんを運んでくる。美味しそうなだしの匂いが鼻に届いたが、二人前どころか、凍りついたこの空気では一人前だって食べられそうになかった。




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