3.ロスチャイルドのヴァイオリンとシネマホリックの少女
14話 ロスチャイルドのヴァイオリン
『ロスチャイルドのヴァイオリン』という短編小説のことを私に教えてくれたのはルイ先生だ。
私がヴァイオリンを辞めたことを知った彼は、わざわざ日本まで私を訪ねてくださった。先生には、両親が離婚したことも手紙で伝えていたから、心配なさってくれたのだと思う。
先生は私がヴァイオリンを捨てたというのに、何も怒らず、反対もせず、ただもう一度だけ弾いてみて欲しいと私に頼んだ。
パリでお世話になった先生の頼みを無下に断ることもできずに、私は鉄のように重たい楽器を構えた。最後の演奏だから、先生が作曲なさった『スブニール』という曲を選んだ。
重苦しい音が紡がれるたびにパリでの記憶が思い出され、そしてそれが泡のように消え去ってしまう気がした。演奏の途中から、私は大粒の涙をこぼして楽器を濡らしていた。弓を離した時には先生も泣かれていた。先生にだけは日本に来て欲しくなかった。海の向こうで美しい記憶のまま留まっていて欲しかった。
「ミズキ、これではまるでロスチャイルドのヴァイオリンだ」
「ロスチャイルド? 大富豪の?」
「いいや、チェーホフの小説だよ。ドストエフスキーもトルストイも好きにはなれないが、チェーホフだけは違う」
先生は音楽と同じように文学を愛している人だった。
「確かに君は楽器を置くべきだ。こんなヴァイオリンではなおさらだ」
「私、どうしていいかわからなくて」
先生は私に優しくハグしてくれた。レッスンの終わりに必ずそうしてくれたように。先生の香水の匂いを私はずっと忘れていた。
「ミズキ、きみはきみ自身を救わなければいけない。しかし、それは存外に難しいことだ。まず、大切な人に出会わなくては」
「その人が私を救ってくれるの?」
「いや、きみが救うのさ。きみが誰かを助けることで、きみ自身がやり直せる。複雑だが、人生はそういう風にできている」
「わからないよ、先生」
「きっとわかる時がくる。それまでは……」
結局私は今も先生の言葉の意味を見つけられないでいる。ヴァイオリンは部屋で埃を被って眠ったままだ。
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