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このたびは当方の企画〝歴史好き集まれ〟にご参加下さり誠にありがとうございます。戦国時代の生活や風習がわかりやすく、とても勉強になっています。
さて、鎌倉時代から戦国時代にかけて騎馬戦はどう変わったのか気になっています。ルイス・フロイスの〝日本史〟には武士は騎馬から降りて戦ったと書いてあるようで。そうなると戦国時代の騎兵は伝令くらいしかしてなかったのかな?と推察しますが…。騎馬隊による突撃などは皆無だったのでしょうか?長篠の戦いをどう書こうか迷ってます
→丁寧なお返事ありがとうございます。そうなんですよねぇ。甲斐は良い馬の産地なんですよねぇ。それから武田家は鎌倉武士である甲斐源氏の名家なんですよねぇ。そこが迷いどころなんです。
騎馬隊とまではいかなくても騎馬を有効活用しているはずではないか?という。少なくともルイス・フロイスが書いているように当時の日本の馬がポニーサイズで貧弱で突撃すると潰れるってことはなかっただろうと。
うん。最後は突撃させます。甲斐源氏の名家・武田氏の家臣達の最期のちりざま。やっぱり騎馬の突撃による玉砕が美しい\(//∇//)\
作者からの返信
こんにちは!
この度は素敵な企画をありがとうございます😊
そして♡とコメントありがとうございます!
すみません、長いです。
騎馬隊に関してですが、最終的な答えは「分かりません」です。
ちょっと騎馬隊に関しては、置いておいて、まず騎乗での戦について話をさせてください。
それに関して、多くの方が降りて戦っているというご意見をお待ちですし、それぞれに馬の性能?などの根拠を示されておられます。
そのご意見を拝見するたびになるほどなと思います。
戦国期の大名は、お金のあまりない家が多いですし、馬を非常に大切にして、馬から降りて戦っていたかもしれないなーと思ったりします。
あと当時の木は広葉樹で、大きく伸びた木で無ければ、引っかかってしまうんですよね…
お洒落な兜の飾りが…
引っ張られて、首が折れそうな…
それで兜の飾りはすぐ折れるように作ってたと現代で和種馬に鎧兜で乗っておられる方が言われておられました。
ですから、三河とか尾張とか、平地で戦える所はいいですけども、山で戦うのは、そりゃ降りなきゃ、足元に折れた兜の飾りがゴロゴロして、情けない状況になりそうですね。
それに城攻めとなると、城下町まではまだ良いでしょうが、城自体に攻め入るとなると……
どんな土地で、どんな風に戦うかで、違うんじゃないかなーと思います。
騎馬隊もね、やっぱりそこまで馬を揃えられるのかという問題がまずありますよね。
戦さに行くのに、一匹だけってことはなくて、二匹、三匹、四匹と一人の騎馬兵は何匹もの替え馬と口取を連れて行きます。
ご飯もそれぞれの馬の3日分も持っていかないといけないし、なかなか厳しいことです。
騎乗での戦さにしても、騎馬隊にしても、当時の物語や絵にしても、盛っているかもしれませんし、見てきた人がいない以上、わかんないですよね。
その上で私の意見を書かせていただきます。
まず騎乗で戦ったかに関しては、あった!です。あはは…
あくまで個人の意見ですよ!
私はあまり戦さは好きではないので、現代の戦争のやり方も分かりません。
ですが、少なくとも当時の戦さは、長い時間の経過の中で展開されます。
そのどの局面で「馬から降りて」になるか、なんだと思うんですよ。
1つの部隊、備の騎馬兵を見ると、まず各部門のリーダー達です。
それからその備のリーダーと副リーダー、家によっては彼らの側にいる馬廻、あるいは小姓の中に騎馬の兵がいるかもしれません。
彼らは基本的に戦うというより、指揮をする、鼓舞するのがお仕事で、身分が高くなればなるほど戦さでの死亡率は下がっていきます。
先ほど鼓舞すると申し上げました。
つまり、戦さ場でここにあり!と目立ち、勇気付けるお役目です。
そんな彼らが戦う時、それはもう首を取るか取られるかという状況ではないでしょうか。
そういう状況では、馬を降りて、組討になりますよね。
中には特攻をすることもあると思います。
この時、旗頭が馬を降りて走ったのでは格好がつかない気がします。
やはり馬に乗り、大音声で「かかれ!かかれ!」と叫び、走り抜けるからこそ、その勇ましい姿に、従う兵は鼓舞され、敵に突進ができるのではないかなぁと思うのです。
そんな時には、馬で威嚇をし、馬上で振るうのにぴったりな長巻や槍を振り回し、走った!と考えています。
だって自分が足軽で、わーっと走ってて、向こうから槍を振り回してる人が来るより、馬がダーと来た方が怖いですもん。
また殿の周りの人々は、殿を生かすお役目です。
備のリーダーの殿(上級馬廻から宿老級)の所まで、兵がくるとなると、「生かす」という問題、つまり「殿を逃しつつ、戦う」という事態が発生します。
こうなると、もちろん足軽たち歩兵もいますが、騎馬兵も盾になる兵と逃す兵に分かれます。
この場合は騎馬の方が有効かなという気がします。
最終的には馬を降りて、組討になるのでしょうが…
そりゃ、騎馬の時に敵兵が来れば騎上で戦った方が便利かなぁ?
だから、なんていうのか、あんまり四角四面に考えない方がいいんじゃない?って思うんですよ。
訓練された軍団と言っても、ほぼかき集めた足軽ですよ?
自衛隊とかU.S.ネイビーじゃないんですし、形式美の江戸期でも、西洋化された明治以降とは違いましょう?
それに生活ですもの、臨機応変にその時一番いいと思ったやり方をしてて、適当な部分が多かったのではと思うんですよ。
さて、長いですね。
ごめんなさい。
さて、騎馬隊です。
長篠の戦いの問題点は、この沢山の騎馬兵だと思います。
本当に居たのか、居たとしても騎馬で戦ったのか。
まず戦さ場までそこまでの進軍がないので、替え馬はそんなに必要ではありません。
そして武田の甲斐の黒駒は有名です。
わざわざ天覧の馬揃えがある時代に、いかにも荒々しげな馬を大量に揃えて走らせるというだけで、敵はその威容に驚き士気が下がると思います。
すこし話が変わります。
伊達政宗の項でも書きましたが、伊達政宗はご遺体を調べた結果、実は目の機能に問題はなく、痘痕がまぶたの上にできていただけだそうです。
それでちょっと、まぶたを抑えて見ていただけますか。
完全に切れ目を覆っていない限り、見えますよね。
となると独眼竜ってなんや?ということになります。
それは結局、虎哉宗乙のプロデュースではないか。
片目なのに、あたかも両目が見えているようだ。
中国の隻眼の英雄独眼竜である。その黒揃えの軍団である。
敵が怯む要因ですし、神がかって見える風景です。
それと同じように、明け方の山の端に立ち並ぶ、武田騎馬軍団。
燎原を覆い尽くすような、黒駒。
これは当時からすると、鳥肌が立つような眺めだったと思います。
それが柵に向けて押し寄せてくる。
想像するに総毛立つ情景で、多くの兵が感動をし、恐怖したのではないでしょうか。
現代的な手法としての、騎馬戦であれば、そんなのありえないになるのかも知れませんが、当時の起死回生を掛けた勝頼の戦術としてはアリだと思います。
だもんで、もう考えかたですよね。
現代で分析されて、「ある」とされるものをできるだけ書くのか。
それとも、勝頼なり、家康なり、信長公なり、そして兵たちの思いを中心に書いていくのか。
それからルイス・フロイスは、やや大げさに違いを書く癖があるようなので、またこれが判断が難しいところですよね。
そういえば、信忠の愛宕神社へお礼参りにいった話の記述で、「雪で体をこすった」と書いてあり、6月頃に雪?!とびっくりしましたが、一日経ってようよう「雪辱をはらしたか…」気がついて脱力しました。
なんかどうなんでしょう。
微妙な答えでごめんなさいね。
「ほぅほぅ…」と呼んでいて、最後「桃尻」で反応してしまう。
そんな自分にちょっと首をひねる今日このごろ…。
実は乗馬をしたことがあるのザマス!
懸賞で体験チケットが当たって!
現代なので、多分西洋式の鐙を使ってたと思います。
鎧櫃みたいな?台からヨイショとよじのぼる感じで、それでも足をかけるとグラグラして、日頃なまけてばかりの身には堪えました。
体育祭とかほんとに大嫌いでした。
信長公の体幹たるや、きっと物凄いのだと思います。
作者からの返信
コダーマ氏、コメントありがとうございます。
よじ登る!
そんなに苦労して乗る!
乗馬とは何ともはや、全く恐ろしいものです!
乗るのも大変なのに、武将の皆様は手放し!手放しで乗っているに飽き足らず、槍やら長巻を振り回したりする!
全く恐ろしい。
恐ろしいことです。
実は私もはるかかなたの幼少の砌、観光農園かなんかの馬に乗せられた写真が残っているのですが、馬の背に揺られつつ「これはやばい、やばいやつや」と思った記憶があります(それしか記憶にない)
ブランコですら不愉快な乗り物の私には、馬は親しくお付き合いできるとは思えません。
twitterでフォローさせて頂いている方の、馬上の動画で十分です。
戦国モノを描き始めて色々調べててこちらに辿り着きました。
確かに今まで見てきた戦国モノの映画、大河などで戦場にて落馬したものが再び馬上に跨るシーンを見た覚えがないのでなるほど!と思いました。めちゃくちゃ参考になります。
でもそうなると山地が多く不利な土地なのに武田は騎馬軍団を本当に主力としていたのか、気になるところですね
作者からの返信
コメントありがとうございます♪
川中島様!!お名前からして、軍神感が漂われ、非常に神々しい!
実はこのエッセイの目的のひとつに、戦国ものを書かれる方への史料提供というのもありまして、ご利用いただけるととても嬉しいです。
ありがとうございます。
とは言うものの、素人なんで、間違っておるところがあるでしょう。
その時は、ごめんなさい(平伏
言われておられる通り、山間の地域は、まぁお行儀よく道を並んで歩いてる分には良かったと思うんですけど、戦となると…
植物学者さんの話では、中世日本の山は基本的に広葉樹林のところが多く、昼間も夕暮れか夜のように暗くて、シダ類の下生えに木の根っこの凸凹で、足元が悪かったと。
しかし文化を主に研究されておられる方の話では、室町時代の木材消費量は相当で、禿山に近かったと。
禿山だと上は良いとして、足元は根っこにプラスして、切り株があったりして、戦闘中に脛をしたたかにうって、馬鎧を着た馬も歩兵も悶絶してしまいそうな気がして怖い。
放牧されてる、或いは野生だかの馬には良いでしょうけど…ねぇ??
かたや、どどんと広い濃尾平野の尾張は海抜ゼロ地帯で、雨が降ると小さな川はすぐに氾濫し、足元ズブズブで、「戦さ場を探して…」という記述もあって、戦さ場を設定する先鋒衆は大変そうですね。
武田家の武力の主力が騎馬隊かどうかは、私も正直わかんないんですけども、お値段のお高い馬は、武田家の主力産業だったのではないかと思います。
何かお祝いがあれば、馬と刀、むっちゃ人に贈りますが、刀はまだしも、馬には寿命があるので、室町特有のいただきものはよそに回す文化も、限度がありそうで…
やはり目録だけだったのでしょうか?
殿や重臣の皆様の懐が心配でたまらない麒麟屋です。
このエッセイに毎週追われており、プロフィールに書かせていただいているように、なかなか読みには行けませんが、川中島様の戦国ものの成功を心よりお祈りします!
ありがとうございました。