第78話 上都脱出 其の二 〈別れ〉


 都大路のすぐ側にある教会を任されたダンテ神父は、刑場で倒れていた修道士を連れ帰って介抱した。

 

 「ジャコモ、大丈夫ですか?ところで気分はいかがです?」

 

 「……ありがとうございます。司祭様、お恥ずかしいことに、私は何をしていたのか全く覚えていません。えも言われぬ良い香りがしたと思ったら意識が…… あれ?ジュリアーノは何処ですか?」

 

 ダンテ神父は、一心不乱にスケッチをしている若い修道士を指差した。

 

「それが兄弟、また絵ばかり描いているのです。いつまでも見習い気分ですな。ハァ……」

 

 「え?」

 

 黒髪の若い修道士は、刑台で見た美しい貴公子を描いていた。

 彼の名はジュリアーノ・グリマーニ。ヴェネチア大商人の庶子。


 「またこの貴公子に出会えたら、絶対モデルを頼もう。私の理想のキュピドだ」

 

 彼は伝道旅行の傍ら墨の濃淡を活かして描く水墨画、中国絵画の優美で繊細な線と色彩の技法を独学で習得。当代随一の美人画を描く。

 雪花が観た K宮博物院にある二枚の貴婦人の絵は、実はどちらも彼の作品だった。

 そして運命は彼らを引き合わせる。

 

 *∽*∽*∽*∽*∽*∽*∽*

 

 その日の夜、母后自らトクトアのいる独房を訪れていた

 

 「トクトアありがとう。昼間の殿下の事を丞相から聞いたわ。ふふふ、殿下は逞しくなったのですってね。喜ばしいわ……」

 

 トクトアは恭しく跪いた。

 

「母后様……」

 

 母后は、房飾りが付いた黄水晶製の円形の物を手渡した。

 

 「円符よ。全ての城門はこれで開くわ。あなたには感謝しなければ…… 本当言うと、あなたに去られたくないの。トクトア、あなたの言う通り上都は負けるわ。あなたなら遠く離れていても守ることは出来る。考えたくないけど、もしも、その時が来たなら、都は明け渡してもいい。命だけでも助かれば…… お願いよ!殿下を助けて!」

 

 美しい母后の顔は苦悩の色濃く、悲しみに満ちた目は、これから我が子に起こるであろう災厄を案じているかに見えた。


 「……聡明なる母后様、その様に気に病まれるなど…… どうかお心のままにお命じ下さりませ」

 

 「ありがとう。トクトア……」

 

 母后はその言葉に安堵したのか、いつもの明るい笑みを浮かべた。

 

 コツン……コツン……

 

 暗い廊下に足音が響く。

 思わず身構えたが、足音の主は女官長スレンだった。

 

 「トクトア様、あなた様がおっしゃる通り、予備の馬も入れて全部で三頭。その中の一頭に、あなたの背格好に似せた人形を乗せました。それから塩と武器も。鏑矢もありますわ。さあ、今夜は冷えるからこの外套を羽織って。早く参りましょう」

 

 スレンは母后に一礼し、自分が先頭に歩き出した。トクトアは外套を羽織り、かんざしの入った箱を懐に忍ばせた。

 

 「母后様、このご恩は生涯忘れません」

 

「私もです。さあお行きなさい。お元気で……」

 

 トクトアはスレンに促されて外に出た。

 

 

 上都の皇城(大内裏)は変わった場所にあった。都の右下の角に位置している。上から見れば北と西から囲むような曲尺形(L字型)をしていた。皇城の門は全部で六つ。北と南に一ヶ所ずつ、東と西は二ヶ所。宮城(内裏)は全部で四ヶ所。

 上都の城門は全部で七つ。北と南東に二ヶ所ずつ、西は一ヶ所だけあった。しかし城門東側は皇城の門も兼ねているので関係者以外立ち入り禁止と思われる。南側は二つあるが、その一つ明徳門も、同じく皇城の門も兼ねており、しかも大ハーン専用の門だ。

 これまで街の人々は東側と明徳門を除けば自由に行き来出来たが、現在は一ヶ所だけ。あのドジョウ髭の門番がいる所、名前もそのまま南門。しかし、距離を考えると南門から出る方が、ずっと目的地に近い。

 

 スレンの後ろに付いて走るトクトアは、自分を呼び掛ける声で立ち止まった。

 そこは大安閣と名付けられた壮麗な上都宮城正殿、その雅な楼閣から、皇太子が手を振っている。

 

 「さようなら、またね……」


 トクトアも手を振り返した。 

 

 「……はい、必ずまた……」

 

 主君と臣下はしばし見つ合う。

 二人の胸に、三年前の別れの日の辛い思い出が去来した。

 いつまでも名残りは尽きないとみたのか、皇太子の方が先に姿を隠した。

 

 「殿下…… お健やかに」


 皇太子の成長を心より喜ぶ自分だったが、同時に少しだけ、淋しく思った。

 

 二人は皇城の小西門の前に来た。

 スレンは、門の外に馬を見ていてくれる老爺がいることを話し、最後に憎まれ口を叩いた。

 

「あたくしはここまでです。早く…… さっさと行って下さい。あなたみたいな浮気性と一緒にいるだなんて、もう耐えられませんわ……」

 

 女官長の頬を涙が幾すじも伝う。

 

 「……女官長、そんな……心にもないことを。無理をなさってはいけません」

 

 「もう、あなたみたいな人にはうんざりなんです。……あなたが敵になってくれて本当に嬉しいわ。だって次、あなたを見かけたら遠慮なく弓矢で胸を射ることが出来るんですから……」

 

 「……女官長、今のあなたの言葉で私は死んだも同然。なのに……また私の心を撃ち抜くと?二度も私を殺すおつもりか?」

 

 「まあ、あなたは…… さあ、早く!そして二度と…… 二度と振り返らないで!」

 

 トクトアは背を向けて歩き出したが突然引き返し、スレンの抱き寄せて口づけをした。

 永遠の一瞬……

 

 「……ではまた」

 

 トクトアは闇に紛れる様に駆けて行った。

 スレンは何かにしがみつかなければ、とても真っ直ぐ立っていられなかった。

 あれほど泣くまいと心に固く誓っていたのに。どんなに強がり言ってもやっぱり駄目だった。嘘でもいいから愛しているって言ってくれたなら、これからの辛い日々も耐えれるだろうに。

 

「 あの人嫌いよ!もう、濡れぬ先こそ露をも厭え、だわ……」

 

 

 久しぶりに登場のドジョウ髭の門番と門衛達に円符を見せると、剛の門は国母の恵みでいとも簡単に開いた。


 「あの、その人形は何ですか?」

 

 やっぱり聞かれると思った。

 トクトアはいちいち答えるのが面倒臭かったが、これ以上は質問は受け付けんぞ、と言わんばかりに語尾を強めて言った。

 

 「……これは相棒の枕だ、以上!」

 

 「……そ、そうですか。確かに枕代わりになりそうですね」

 

 相手は納得したらしい。いやさせた。

 

 「素直な心根だ。それが長生きの秘訣だな。では」

 

 トクトアは足早に馬達を引き連れて甕城おうじょう(二重の門)から出ようとした矢先、何故かドジョウ髭の門番が追いかけて来た。

 

 (ちっ、面倒臭い奴だな……イラつく!)

 

 「……何の用か?」

 

 ドジョウ髭の門番は拱手をした。

 

 「知らぬ事とは申せご無礼の数々、平にご容赦を。小生は賈魯かろと申します。何卒お見知りおきを」


 賈魯かろはトクトアに向かってボロカスに言ってしまったことを、いまだに気にしているらしい。

 

 「ああ、あの時の…… 別に気にしておらぬ。賈魯かろか。覚えておこう。お互い生きておればだが、また会おう……」

 

 この二人は大都で再会。良き上司と部下の関係を築き、歴史書の編纂、黄河の改修工事などを行う。でもその話は後ほど。


 

「さあ、懐かしい我が家へ帰るぞ……」

 

 今宵は月が姿を見せないさく。トクトアは相棒の〈トクトア殿〉と連れ立って馬で駆けた。

 テムル・ブカとオルク・テムルの二人は計画を実行する為、先に上都を出ていると聞いているので心配はいらなかった。

 自分は星を眺めながら指定場所の 〈夕陽が見える丘 〉を目指して走るだけだ。

 何処かで狼の遠吠えが聞こえた。

 


 上都宮城では、まだ香りの効力から抜けきっていない諸侯達がトクトアを訪ねていた。ところが室内はもぬけの殻になっていることに気づいて嘆き悲しんだ。

 

 「トクトア~!!許さんっ!お前を殺して私も死ぬ!」

 

「儂の花嫁衣装はどうしてくれるんじゃー!脇と脛毛処理と股関節の辺りもジョリジョリ処理したのに!」

 

 「新婚旅行を予約してたんだぞ!」

 

 彼らは自国の武官達から選り抜きの者に命じ、これを追っ手とした。

 

「トクトアを連れ戻せ!もし、刃向かえば、その時は殺しても良い!遺体はこっちで葬るからな!いや、我らも参ろう!駿馬を出せ~!!」

 

 " 狂気の愛連合 "を結成したおじさん達は、政務室でうたた寝しているダウ丞相を叩き起こすと、「やいの!やいの!」と、やかましく騒ぎ立て、まだ寝ぼけ眼の丞相の手を掴んで無理やり許可証に印章を押させると、「ほなさいならおやすみ」と、慌ただしく立ち去った。

 

 「ったく……なんなんじゃ。フワァァ……ムニャムニャ……うん?許可証?……し、しまった~!!」

 

 と、気付けば時既に遅しである。

 ダウ丞相は、直ちに母后の居室を訪ねた。


 「……まさか母后様が、トクトアに円符をお授けになったとは……」

 

 「これは、殿下の為なのです。私を反逆罪に問いますか?」

 

 女は弱し、されど母強し。

 母后の我が子を守ろうとする強い意志に、流石のダウ丞相もタジタジに。

 間違いなく上都で一番最強なのは、この母后だ。


 「いえ…… ただ、表向きは追っ手を差し向けなければ示しが…… 何卒お許しのほどを。トクトアなら大丈夫だと信じております!」

 

 ダウ丞相も選り抜きの兵士を集め、しっかり装備の点検と点呼をさせ、時間稼ぎに長~い自分のサクセスストーリー〈ダウラト・シャー、会計係から宰相への道。上都出版〉を語った後、やっとこさ出発させた。

 

 「トクトアに大事な精鋭を殺されては堪らん。 あいつなら本気で殺るからな……」

 

 *∽*∽*∽*∽*∽*∽*∽*

 

 目的地、夕陽の見える丘。


 トクトアは命懸けの逃避行だが、こっちはワイワイガヤガヤとみんな楽しそうに軽作業に勤しんでいる。

 

 「村の衆、舞踊団の方々、一里ですぞ。油を含ませた干し草と薪は、完璧に一定の間隔を空けて置きましたかな?」

 

 ホイサッサ村の村長、大張りきりだ。

 今、ふさわしい合言葉は〈完璧〉。

 座長はそんな村長を尊敬の眼差しで見ていた。

 

 「はーい!村長!」と、村人達。

 

 「完璧~!!」と、舞姫と付き人と裏方達。

 

 「本番は待ったなし!三回目の鏑矢かぶらやが鳴り響いた時から全てが始まります!おそらく、追っ手はやって来ると私は睨んでおります!打ち合わせ通り、神器を持つ方は持ち場を離れてはなりませんぞ!よろしいか?」

 

 「はーい!!」

 

 「ばっちり!」

 

 「任せて下さい!」

 

 みんな拳を振り上げ、掛け声を上げたその時、何か得体の知れない謎の気配というか、不気味な音を立てながらこっちに近付いて来る存在ものに気付いた。

 

 ザザ……カラ……カラ……コロン

 コロン……カラ……カラ……ザザ

 

「ここは私に任せて下され!」

 

 村長は勇ましく前に飛び出した。


 「アァァァェェュョォォォゥゥ――」

 

 闇夜に響く、村長の不気味な声。

 村長は両耳に手を当て、まるでパラボラアンテナみたいに頭を左右に動かしている。

 

「声が跳ね返って来る感覚でわかる! …………駱駝じゃな。しかも行列?これは……隊商じゃ!」

 

 凄い特技である。

 

 「来たぞぉぉぉォォォオオオオ!!」

 

 皆が固唾をのんで見守る。

 果てしなく続くかと思われる草原から、ひょっこりその姿を現したのは――


 カランコロン……

 カランコロン……

 

 なんか聞いたことのある鈴の音がした。

 出ました――っ、謎の隊商。

 こっちは不気味さにかけては世界一。

 

 ♪幾つもの山~と丘越えて~

      幾つものジャムチ~を通るのさ~

 蒼き狼の若者が~落とし物~可愛い~あの子にあげる銀の簪~さあ、もうすぐ来るよ、もうすぐ来るよ~夜空を見上げて~ご覧♪

  

 隊商らが空を指差した。

 

 ピュィィィ―――ッ

 

 草原に響き渡るピーの音。

 村長はみんなの視線が自分に向けられているので驚いた。

 

「私は卑猥なことを言ってませんぞ!……あれ?」

 

 ド天然?の村長は、自分の勘違いに赤面した。

 

 「ウォホン!!微かだが……この音は鏑矢!トクトア様の一回目の合図です!全員配置に付いて下され!」

 

 「はーい!」

 

 「それ~!」

 

 村長の息子は蒙古馬に乗り、一里先の終点まで駆けた。

 村長と村人、そして舞踊団も、それぞれが自分の持ち場へと急いだ。

 

 「あっ!流れ星!」

 

 ヌールは嬉しそうに飛び跳ねる。

 でも星が一つだけ、クルクル回りながら遠くの山に転がる様に落ちて行くのが見えた。

 

 「あれ?何だろう?」

 

 三ツ又フォークに黒カツラの旗印はたじるし、ヌールの作った白烏シロカラスの旗がコテっと倒れた。

 

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