第74話 後悔… 父と子


 遼王は夜空を眺め、懐から十字の形の首飾りを取り出した。 

 

 「……父上。私は、あなたの様にはならぬ。こんな物を信じるなど……」

 

 何度もこれを捨てようとしたが、どうしても出来なかった。

 それは父ナヤンの形見であった。


 「私は、あなたとは違うやり方で、権力を掌握するつもりです。手始めにまずはで偉そうにふんぞり返っているムスリム人官僚共の鼻をくじいてやります。この好機、決して逃すものか……」


 

 *∽*∽*∽*∽*∽*∽*∽*

 


 「こまや……駒や……起きろ。みんな困っとるぞ。そちがやらかした悪戯のせいで孫達が迷惑しておる……」

 

 深い眠りに落ちている自分に呼び掛ける声。

 こま命婦みょうぶは目を覚ました。

 枕元に、世祖フビライ・ハーンが立っている。

 懐かしい主君の姿に涙した。

 

嗚呼ああ主上おかみ……やっとお会い出来ました」

 

 駒の命婦は直ぐに今居いを正した。

 不思議なことに、身体が随分と楽になった感じがする。

 

 

「……今や、私はこんなにも老いてしまいまして……お恥ずかしゅう存じます」

 

「……何を申す、そちはあの頃のままじゃ。実はな、もっと早うに来る予定であったがな、大都で思いがけず良い出会いがあった……そちの若い頃に似た女子おなごでな、名前も同じ雪花シュエホアじゃ。なんとも愛らしゅうてな~、ついつい、その女子の後ろを付いて回ってしもうた。懐かしい……あの頃が思い出される……」

 

 命婦は、自分に似ていると娘がいると聞かされて嬉しい気がした。

 幸せな娘時代――あの日、初めて大都宮城に昇殿を許されたのは十八歳の時、まだ大都の街を建設している頃だ。   あれからもう六十年以上の月日が経った。

 

主上おかみ、私もです。あの頃は幸せでございました……世は乱れておりましたが、主上はこの国をひとつにまとめられました。なれど再び、この国は大きく揺れ動くことになりましょう……私はこうして長く生き永らえて参りましたが、長生きなど悲しいばかりでございます……どうか草原の宮に、私もお連れ下さりませ……」

 

「……ハハハ、そのつもりで来たのじゃ。元・始皇帝だとかいうふざけた死神に頼まれてな。でも良かった……お陰で楽しい思いが出来た。駒や……最後に頼まれてくれるか?」

 

「はい、あの鍵ですね」

 

 命婦は、首から掛けているペンダントを握りしめ、目を閉じ、あの日のことを想った。

 

―― これはな……ワシとそちの固い絆の証じゃ。真円の真珠は円、つまり縁じゃ。ワシはそちを手放したくなかった……だからそちは婚期を逃してしもうたな……后妃にと思ったがワシとそちは歳がな……どうかそれを持っていて欲しい。美しい薄桃色が虹色に輝く阿古屋珠あこやだまは、そちによう似合う 。


 それは玉璽の箱の鍵。

 

「……そうじゃ、大切に持っていてくれたのだな……あの小さな皇子に渡してやって欲しい。ワシの愛しい息子トガンの子は……玉璽のありかをずっと探している。トガン……どうしてもあのことが思い出されて悔やまれる……」

 

 世祖フビライ・ハーンは目を閉じた。

 


 「父上、申し訳ございません……」

 

 鎮南王脱歓ちんなんおうトガンは冷たい大理石の床石に伏した。

 

「……トガンよ、お前は庶子と言えど大ハーンの息子ぞ。他の庶子達と差を付けたのは何故だと思う?ワシは、お前の能力の高さを見込んだのだ!お前はワシの分身も同じ……なのに、あの安姿アン・トゥとかいう敵国の姫にうつつを抜かしたばかりか、こんな情けない敗北をしおって!!」

 

 フビライは怒りのあまり、側に立っている近侍の手から剣を奪い取り、トガンに向かって振り上げた。

 側近達が親子の間に割って入った。


「なりませぬ!陛下っ!トガン様は御子ではありませぬか!」

 

「王の血を地に注いではなりませぬ!」

 

 「……父上、どうか!父上の御手で、私の首をおね下さい!」

 

 哀願する息子の目を見ていると、剣を持つ手が震えた。


 我が子ではないか……


   握っていた剣が力なく手から滑り落ちた。

 鈍い金属音は、今は老いた我が身と一緒に、心まで穿うがつかの様に、重苦しく辺りに鳴り響いた。

 

 いったいどうすればいい?愛する息子を殺すなど。だが、許す訳にはいかぬ。


「……鎮南王よ。お主は、今後、余に拝謁することはならぬ。生きながら恥の中に身を置き、死ぬまで後悔をするのだ」

 

「父上、あまりのおっしゃりよう、私に、生き恥をさらせ、とは……」

 

「おい!鎮南王が帰るぞ!早う見送らんか!!」

 

「父上……」

 

  息子は肩を落とし、黙って父に背を向けた。自分の元から去って行こうとする息子の後ろ姿に向かって、老いた父は叫んだ。

 

 「トガン!勘違いするでないぞ!ワシがお前を捨てたのではない!お前が……お前が、この父を捨てたのだ!この父を捨て、共に父の夢も捨てたのだ!!」

 

    トガンよ、ワシが酷いと言うか?お前は、あの場所で死ぬべきではなかったか?そうしなかったのは、あの女との愛を選んだということ…… この父よりも、あの女の為に生きる道を選んだのだ……これは報いだ……いや、本当は夢などどうでもいい……お前だけでいい……トガン……我が息子。


 

 二度も南方遠征(ベトナム、陳朝チャンパ王国)に失敗したフビライは怒りを募らせていた。

 そして遂に三度目の出兵を計画。今回の遠征では庶子の一人である鎮南王脱歓ちんなんおうトガンを総司令官として九万の兵力を動員し、何百隻にもなる戦船と数十万石の兵糧を運ぶ船団も加えた。これを見ても、フビライが庶子トガンを偏愛し、どれだけ期待を寄せていたのかが分かる。


 ところが、白藤江はくとうこうの戦いにおいて敵の奇襲を受けた元軍は大敗した。敵は潮位の上下を日々調べさせ、川底に杭を打ち伏兵を配し、いざ戦いが始まるとわざと負けたふりをして逃げたのだ。

 敵前逃亡――これはモンゴル族がよく使う常套手段であったが、まさか自分達が、同じ手に引っ掛かるとは。


  トガンは船団を率いて川を遡っていた。そして敵軍を追尾した元軍が問題の地点にたどり着いたその時、トガンは、自分達が敵の策略にはまったことにようやく気付いたが、全ては遅かった。川の両岸から何千もの敵の小舟がこっちに向かってやって来るのが見えた。

 

「これは――引き潮!?罠だ!全軍、退却!!」


   元軍の船団は慌てて退却したが間に合わなかった。干潮で水位が下がり川底が丸見えになっていく。

 川底の杭に退路を阻まれ、多くの船が互いに衝突し、杭にぶち当たった衝撃に壊れて沈没した。

 さらに敵軍は、火をつけた舟と筏を潮の流れに乗せて船団に衝突させてこれを炎上させた。

 燃え盛る炎に兵士達は次々と呑まれていく……  生き残った兵士は川岸へと逃れたが、そこで待ち伏せしていた敵兵による奇襲攻撃を受けた。

 元軍は壊滅状態に追い込まれ、トガンは敵の追撃を受けつつも、なんとか逃げおおせた。

 だがトガンは、何故こんな負け戦をしてしまったのだろうか……

 

 

「ワシは頑固になった……皇后ばあさんが先に亡くなってから余計に酷くなった。歳を取るとな、怒りやすくなるのは本当じゃよ。生きて戻って来てくれた我が子に、なんでもっと優しい言葉を掛けてやれなかったのか……今際の別れになり、やっとトガンに拝謁を許した。だがその時、もうワシは自分の外にいた。今思えば嫡子達がワシより早く亡くなったのも、こんな父を持ったばっかりに神経をすり減らし、寿命もすり減らしたのが原因なのかもな……」


   フビライは滂沱ぼうだの涙を流した。

命婦は何も言わず、フビライの背中を擦りながら話に耳を傾ける。


「ワシ自身、太祖チンギス・ハーンの孫という重荷をいつも抱えていた……国境を越え侵入する他国の兵を許すことなど絶対に出来ない。もう一度、あの恐怖を味わわせてやる、と攻め込んだ……だが完膚なきまでに敵をぼっこぼこに叩き潰しても、完全征服とまではいかなかった……それでもワシは、戦い続けなければならなかった……生き延びる為、弟のアリク・ブケや甥のシリギを屈服させ、味方であった東方三王家が担ぎ出したナヤンのクソガキ!我が盟友タガチャルの孫の反乱のせいで、七十を越えても鎮圧に出掛け、神経痛に悩まされても老骨に鞭打って戦った。そして極めつけが、あのクソ憎たらしいカイドゥ!ワシに反旗を翻し、長きに渡って戦いを強いてきた。あやつの息の根を止められなかったのが心残りだった…… 駒や、正直、ワシは何処に居ても落ち着かなかった……死なぬ限り、ワシは永遠に戦い続ける運命さだめなのかも知れぬと……そのことにようやく気づいた……ワシの人生は修羅しゅらの……」


 不意に命婦の手が肩に置かれ、フビライはそれ以上話を続けられなかった。命婦は黙って首を横に振った。

 お互い立場は違っていたが、二人は共に親好を深め、真の友情が育まれていた。揺るぎない信頼――

 

主上おかみ…… もうお忘れなさいませ。現世での苦しい思い出と後悔は、この場所で切り離しましょう。主上おかみは賢き皇帝、セチェン・ハーンでいらっしゃいます!」


 フビライは泣いているのか笑っているのかわからない顔をしていた。

 

「……そうだな。さあ、そちの大活躍を見るかの。 実はな、今はあの世で息子達と上手くやっとるのじゃ!アハハハ」


「まあ!おからかいになったのですね?」

 

「……いや、トガンだけが来ていないのだ。きっと、の畔にいるのかも知れぬ……迎えに行って来るよ。失敗を悔いていたからな……」

 

 「では、その間に最後の御奉公ですから頑張ります!」

 

   命婦は優しく微笑んだ。

 


  *∽*∽*∽*∽*∽*∽*∽*

 

  

 メエメエ……メエメエ~……

 メエ~……メエメエ……

 

 

 「羊さん達、美味しく食べて下さい。頼みましたよ!」

 

 ナンジャーラ・カンジャーラ舞踊団座長は、魅惑?の舞姫美女達を率いてホイサッサ村から羊を借りて放牧。

 

 「わーい!あたい、羊飼いだよ!」

 

 黒髪に褐色の肌のヌールは、見事な碧緑の瞳を輝かせて笑っていた。


 モコモコの羊達は、シャクシャクと美味しそうに草を食んでいた。

 

 「うわー!どんどん草を食べてくれるわね!可愛い~」

 

 「ほんと、癒される~」

 

「これなら草を刈る手間が省けるわね」

 

 「あーん!そっちの方向じゃないってば!!」

 

 ヌールは群れから離れた一匹を追いかけた。

 そりゃあ、羊だって自由に草を食べたいに決まってる。

 

 「アハハハハ、ヌールってば、あんなにはしゃいじゃって!」

 

 「やっぱり、まだまだ子供よね」

 

 座長と村長の二人は、草原の防火対策がなんたらかんたら話していた。

 

「なるほど。横線一本ですな!ではこの辺を、こんな感じに……塩で誘導していきましょう!」

 

 「なるほど!流石は村長!素晴らしい妙案です!いや~助かります!」

 

「ハハハ、お安いごようじゃよ!それで、出来ればその……ワシらも手伝わせてもらえませんかな?ワクワク……」

 

 村長、計画に参加したいらしい。

 テムル・ブカの家人達が持ってきた物を見た村人達は大興奮していた。

 彼らにとって、それはだった。

 座長達が製作した物よりグレードが良いし、完全オリジナルだ。


「……ええ、かまいませんが。本当にいいんですか?」

 

 「やった~い!…………エヘンウォホッン!いや、皆様のお手伝いが出来れば、こんな嬉しいことはありませんな!」

 

  村長、今さら取り繕っても威厳が崩れてますが。

 

 「た、大変だぁぁぁ――っ!!」

 

 村長の息子が蒙古馬もうこのうまで駆けてきた。

 

 「どうしたんじゃ!?息子よ!」

 

 村長の息子は、全力疾走後も弾ませながら話の先を続けた。

 

 「……ハァ……ハァ…父さん!座長!た…大変なんです!大都の……バヤン・バートルの甥、トクトア様が、し、しょしょ処刑されると決まったそうです!」

 

 「……な、なんですって!?そんなこと……」

 

 座長は糸が切れた操り人形みたいに、膝からヘタヘタと崩折れた。

 

 「う……嘘……嘘よ!トクトアにいちゃん!!」

 

 ヌールは泣きながら蒙古馬に飛び乗り、風のように去った。

 

 「ま、待ちなさい!!ヌール!」

 

 ヌールは瞬く間に走り去って行く。

 仕方がなく座長は、三人の舞姫に後を任せた。

 

「ヌールを連れ戻しに行って来ます!ヒュレッム、ミフリマーフ、ミリアム、あとは村長の指示に従って下さい!」

 

 「うん、了解!」


 「任せといて!」


 「気を付けてね!」

 

   草原に緊張が走る。

 舞姫達や村人は上都の方角を見つめた。

 草原を馬で駆ける二人は、今では小さな点になっていた。 

 

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