第71話 バナナ事件
皇太子は必死の思いで廊下を駆け抜けた。
やっぱりあの時、直ぐにでも玉璽を返しに行けば、こんな大事にならずに済んだのに、と後悔した。
自分達の悪戯のせいで、大切な人を不幸にしてしまったことにとても罪悪感を感じた。
正直の頭に神宿る、という言葉を知っていた筈なのに。
「皇太子殿下~!!」
後ろから、テムル・ブカとオルク・テムルが必死の形相で追いかけて来た。
「テムル・ブカおじさん!オルク・テムルおじさん!」
皇太子は立ち止まった。
「おじさん!大変なことに……ヒクッ……」
皇太子は泣き出してしまった。
「……ゼエ……ハァー…ぜえ……皇太子殿下!トクトアの…ことを…お聞きになったんじゃ……な!」
「実は、玉ブほ……」
テムル・ブカの手が、皇太子の口をふさいだ。
「……やはり
テムル・ブカの手は、オルク・テムルの口もふさいだ。
「……二人共、気を付けた方が良い。とくに
皇太子はしゃくりあげながら、これまでのことを詳しく話した。
テムル・ブカとオルク・テムルはいちいち相槌を打ちながら、話に耳を傾けていた。
「……わかりました。では殿下、玉璽の印が残った紙はまだありますな?一応捨てずに取っておいた方が良いですな。ああそれから、合鍵のことは絶対に秘密にされていた方が良いでしょう」
「……うん、わかったよ。えーと、紙は屑籠に入れちゃったんだけど、宦官は捨ててないと思う。ずっと前、気に入ってた筆が卓子から落ちて下に置いてた屑籠に入ったのを気づかずにいたんだ。あとから宦官は気づいたんだけど、もういらない物だと思ったらしくて捨てちゃったんだ。それから私が確認するまで屑籠はそのままにしてる!」
「……わ、わかりました。大変丁寧にお話しくだされたのでとても助かりました。では殿下は、先にその紙を回収して下され。気持ちが
二人のやりとりを聞いているオルク・テムルは、推理小説を読んでいるかの様な展開に、ちょっとワクワクしていた。
皇太子が居室に戻ろうとした時、
やけに廊下が喧しい。
「キャー!命婦様!」「いかがなさいました!?」「誰かっ!誰か来てぇ!」と、女官達のただならぬ叫び声が聞こえた。
「あの方向は…… 政務室からですぞ!参りましょう!」
オルク・テムルは我先に走り出した。
「ちょっ、ちょっと待ってくれ!ワトソン!」
テムル・ブカの後ろを
「え?ど、どうしょう…… 待って!私も行くよ!」
*∽*∽*∽*∽*∽*∽*∽*
その頃、トクトアとダウ丞相は地下牢へと続く尋問室にいた。
「……申し上げますが、私は玉璽など盗ってはおりませぬ」
「トクトア……ワシもお前を犯人などと思っておらん。荷を調べた者から、玉璽のぎょの字も出なかった、と聞いておる」
「……ほう?玉璽が入っていた箱と、その隠した場所さえもお見せにならなかったのに?」
「隠した場所か……今は秘密じゃ。すまぬ」
「は?玉璽がないのですよ。それでも?」
そう、本当はその仕掛けに気付いていた。
丞相の自分に対する信頼度の深さを確かめたかったので、敢えてそう揺さぶりをかけたのだが。
「何を今さら迷うのです?私は、皇太子殿下の臣です!」
「う……ぐぬぬ」
丞相が返答に窮している時、 守衛達の慌ただしく階段を駆け降りてくる靴音が聞こえてきた。
「一大事でございます!丞相、
「何!?お婆が!?……まさか、意識がないのか?」
丞相は椅子から腰を浮かせていた。
「は、はい!政務室の扉の前でお倒れになっているのを見た女官らが騒ぎまして、鎮南王と斉王、そして皇太子殿下が駆け付けられたとか。歯に、
「……何で
丞相は扉を出る前に振り向いてトクトアを見た。
「〈名物老女〉が倒れた!すまぬが、ちと待ってくれ!」
丞相が駒の命婦の部屋に行くと、大勢の女官や宦官達が集まって心配そうに命婦を見つめ、母后はその手を擦って優しく話し掛けていた。
皇太子はお気に入りの小猿を抱き締め、今にも泣きそうな顔をしながら命婦の顔を見つめている。
医官は銀棒を使い、この老女が食べていた昼食も入念に調べた。考えられる毒物、つまり
今さら毒殺を計るなどと……
その時が来ればだが、いつあの世から迎えが来てもおかしくない年齢ではないか。
「私の見立てによりますれば……
「そ、そんな……お婆……」
皇太子は必死で泣くまいと我慢していた。
廊下ですれちがった時、あんなに元気そうだったのに。
老女をよく知るテムル・ブカとオルク・テムルは、オイオイ泣きながら先に部屋をあとにした。
駒の命婦は、
本名は
若い頃はモンゴル族に引けを取らないくらい馬術が達者で、かなりのお転婆娘であったらしい。
容姿は美人というより可愛いという感じで、艶やかな黒髪に色白。性格は優しく朗らかで誰からも好かれていた。
世祖は、そんな彼女に親しみを込めて〈駒の命婦〉という、あだ名を付けてたいそう可愛いがったとか。
けれど、極一部のくちさがない者達は、こう呼んだ。
大都宮の影の女王――と。
人々は、また旧き良き時代からの友をなくすのか、とさめざめと泣いていた。
あれだけ気丈だった女官長スレンも、敬愛していた駒の命婦とトクトアをも一辺に失うかも知れない不安からか、身も世もなく泣き崩れている。見かねた母后がスレンの手を引いて部屋をそっと出て行った。
駒の命婦は、穏やかな、とても幸せそうな表情をして眠っていた。
「キキー!キキ~!」
突然、
命婦に向かって指を差している。
「シィー!
皇太子は慌てて
丞相もその後ろを付いて出た。
「殿下、どうして政務室の前をお通りに?」
皇太子は目線を命婦の部屋に向けたまま答えた。
「その前に答えよ丞相、トクトアを逮捕したとは本当なのか?何故その様なことをしたのだ?」
「この上都の為。いえ、殿下の御為にございます。このダウラト・シャーは、大元の丞相。疑わしき者は捕らえねばなりませぬ」
「……では真の犯人を教えようではないか。玉璽は私の部屋にあったのだ。つまり犯人は私だ。玉璽を盗んで紙に押して遊んでおったのだが、沐浴の時間が来たので、後で返そうと思ってそのままにしていたのが間違いだった。しかし、私が部屋に戻ったら玉璽はなくなっていたのだ!」
「……殿下!その様なこと、臣は信じませぬぞ!」
「私が嘘を言っておるとでも?よし!証拠を持ってきてやるから待っておれ!」
「殿下!!」
皇太子は居室へ向かって駆け出した。
「
ところが玉璽を押した紙は捨てられたのか、屑籠にはなかった。
そこでいつも側に仕えている女官と宦官を直ぐ様呼び出した。
「この屑籠の中身はどうしたのか?ないではないか!?」
「……畏れながら申し上げます。この宦官と女官は、屑籠には一切触れておりませぬ。以前、殿下の屑籠を触ったおりに絵筆が……それ以来、殿下のお許しがない内は触れないようにしてございます」
「では何故ないのだ?」
「し、しかし……て、天地神明に!いえ、
宦官と女官達はその場にひれ伏した。
嘘を言ってるようには見えない。
皇太子は途方にくれた。
「……玉璽と一緒に紙も持って行ったというのか!?」
皇太子は悔しそうに拳を握りしめた。
*∽*∽*∽*∽*∽*∽*∽*
一方、テムル・ブカとオルク・テムルは政務室にいた。
二人はこの部屋に玉璽があったとは思いもしなかった。玉璽は普段は人目に触れない場所、つまり宝物殿に保管されているのだと思っていたからだ。
「この部屋に玉璽があったとは…… 箱すら片付けられたのか、何も見当たりませんな。玉璽が戻らないのなら、そのまま置いてても構わないと思いますが……」
「多分、この部屋の仕掛けと、玉璽が納められた箱がどんな構造なのか、誰にも知られたくないんじゃろな」
二人は、本棚の辺りがそれらしき場所だと睨んだ。
「この置物……狼と牝鹿か」
「狼と牝鹿と言えば、我らが遠い先祖である〈蒼き狼と白き牝鹿〉ですね。どうされました?テムル・ブカ様?」
テムル・ブカの視線は一枚の絵画に注がれた。
古モンゴルの伝承の詩文と共に、
この二人は、夫婦仲が良いことで有名だった。
「……曾祖父様、曾祖母様……」
テムル・ブカは、壁に掛けられた絵画を眺め、感慨深げにそう呟いていた。
「思い出すな…… 幼き頃、
――テムルや!その絵に触れてはならぬぞ!!
「そう言えば、大都宮でもこの絵があった。
「テムル・ブカ様、あの……そろそろ……」
オルク・テムルが、作業を促すようこちらを見ている。
「す、すまん、つい。のんびり思い出にひたっとる場合じゃなかったな……」
二人は捜索に集中した。
「うーん、なかなか見つかりませぬな。なんと!蓮根が!?アハハハ」
オルク・テムルは、屑籠に捨てられている公文書を手に笑っていた。
「そんなもんを三ウルスや欧州諸国に出したら、さぞかし向こうは驚くだろうて。……おお!これか!?」
テムル・ブカは、中国風の窓枠の飾り棚に、
それは光の加減で見えにくいが、自分の立ち位置を変えながら動くと、その可愛い足跡ははっきり見えた。
「……これであの小猿が入った証拠を見つけることが出来た。だがトクトアは、聡明がゆえに言えなかった…… その理由は殿下と丞相を守る為と考えては?」
「え?殿下を守る為なら分かりますが、あの丞相までも?」
「……今さらお猿のせいなんかに出来るか?玉璽が見つかったんなら笑い話で済むが、まあ無理だな…… 丞相は、皇太子殿下の盾だ。その丞相が、あれだけ騒ぎを大きくしてしまったから、すっかり頭に血がのぼっちまった王族達は、玉璽をみつけるまでうるさいに決まっとる。今の上都には諸侯らの支持が必要ということだ。従兄のオンシャンとエセン・テムルだけでは頼りないからの」
二人は絨毯の上にゴロンと寝転がった。
「……玉璽か……お手上げ状態ですね」
「だが、ワシらはトクトアの手助けをしてやらねばならん……全くっ、エル丞相は、どこまでも王族をこき使うわい」
「でもテムル・ブカ様、なんでお婆は
「さあな、おやつに持っとったんじゃろ?
テムル・ブカは指で鼻をほじりながら、懐から一枚の紙を取り出した。
「……いや、
テムル・ブカは確信に満ちた、声音で言った。
「フッ、一つ分かったことがあるぞ!廊下に
オルク・テムルは苦笑いした。
「ハハハ、まだ念に持ってらしたとは…… うん?ではお婆は別の場所で
「まあな…… で、これじゃよ。お婆が倒れとった時にな、政務室の扉の隙間に挟まれてあった。トクトアが書いたのでもあるまい……これが手掛かりじゃ。だがその前にやらねばならんことがある」
テムル・ブカが拾った紙には――
〈伝説の悲しき五つの龍、東宮の水舟にて四神の友と遊ばん。
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