第68話 玉璽盗難事件


 政務室では、ダウラト・シャー丞相と文官達が、イル・ハン国、チャガタイ・ハン国、キプチャク・ハン国に文を書いていた。

 広大な領土を一族で分割統治しているモンゴル帝国の三国である。

 

 イル・ハン国(フレグ・ウルス)は

世祖フビライ・ハーンの弟フレグが、西アジアに建国。

 

チャガタイ・ハン国はチンギス・ハーンの次子チャガタイに与えられ、中央アジアに建国。

 

キプチャク・ハン国(正しくはジョチ・ウルス)はチンギス・ハーンの孫で、ロシア討伐をしていたバトゥが、父ジョチの名を付けて西北ユーラシアに建国。

 

そして大元ウルスは世祖フビライ・ハーンが、中国に建国。

   こうして、大元とハンウルスに分かれ、それぞれの帝国がその土地に同化。

 文化と宗教も異なるが、大元ウルスを宗主国とするモンゴル帝国の一員である三国は、互いに反目することはあっても不思議と帝国を維持出来ていた。

今のところは……

 

 上天より定めにて、生まれたる蒼き狼ありき。その妻なる惨白なましろき牝鹿ありき。太湖を渡りて来ぬ――


 室内の壁には、古モンゴルのと共に、世祖フビライ・ハーンの父トルイと母ソルコクタニ・ベキの、仲睦まじくソファーでくつろいでいる様子を描いた絵が掛けられていた。

 『集史』の挿し絵のように。


「この書簡に玉璽ぎょくじを捺さねばならん!皇太子殿下こそが、正統な君主であるということを、三ウルスにも認めさせる必要があるからな!」

 

 丞相は、壁際に設置された本棚に近付き、そこに無作為ランダムに配置されている置物オブジェから、狼と牝鹿だけを選び出すと、今度は部下に命じて夫婦の絵を外させた。

 そして絵画のあった場所に作られた二つの窪みに、その二つの置物オブジェが互いに向かい合うようにはめ込んだ。

 すると本棚はガタタと音を立てて真横に動き、中から小さな戸棚を出現させた。

 丞相はその戸棚から、仰々しい箱を確認すると、それを恭しく両手に取って机に置いた。

 

 「……緊張するな」

 

 いつも肌身離さず首から掛けている革紐に通している鍵を胸元から取り出し、箱の鍵穴に差し込めば、中からカチリと音がして蓋が開く。

 中には皇帝の権威の象徴である玉璽が入っていた。

 玉璽――中国の歴代王朝および皇帝に代々受け継がれてきた伝国璽でんこくじ(皇帝の印)のことで、秦の始皇帝が霊鳥の巣にあった宝玉から作らせたという伝説がある。


「……丞相、まだ戴冠式は済んでおりませんのに、玉璽を捺されるのは……」

 

「無礼者めが!畏れおおくも、その様な不敬を口にするとは!!今の言葉を皇太子殿下のお耳に入れていたら、お前の耳と鼻を削いでやるところだ!恥を知れっ!!」

 

「ヒッ!も、申し訳ございません!!」

 

 年若い文官はすっかり縮こまって、おまけに涙目になっていた。

 

「大都のトク・テムル皇子なんか、勝手に大ハーンを名乗っておるのだぞ!!公文書に玉璽を捺すことも出来ぬ大ハーンなど、これまで聞いたこともないわ!!当然、全て無効だ!!無効にしてやる!!それにくらべてこっちは玉璽を持っておるのだぞ!!なら、こっちだって負けてられるか!!エルのクソジジイに目にものを見せてくれる!!」

 

   怒りの余り、手に持っている玉璽を今にも放り投げそうだ。

激おこ状態の丞相は、山寺の山門に安置されている仁王像の顔よりも恐ろしい。

これを見かねた別の初老の文官が用心深く慎重に声を掛けた。


「……丞相、どうかお気を鎮めて下さい。手がぶれてしまっては捺せませんぬ。 一度、深呼吸をなされてみては?」

 

「……そうであるな、よし。深呼吸しよう」

 

  まず息を細く吐き出し、それから大きく息を吸い込んだ。

 

 「ギャーァァァァ!!!」

 

 突然中庭の方から、女とも男ともつかない叫び声が聞こえてきた。

 

「す――――ッ!ふぁふぁ!?くっ!息を吸いこんで…ばかりに……」

 

「じ、丞相!!大丈夫ですか!?」

 

「な、何じゃ!今のは!?」

 

  丞相は文官を引き連れて現場に向かった。

そして、部屋の中は誰もいなくなった……

 玉璽は置いたままで。

 その時、素早く部屋に侵入する怪しい影が……

 影は玉璽の方向に進むと、手に持っている物を書簡に置き、そっと玉璽を掴む。

 そして大胆にも廊下側へ出ると、まるでゴム毬が飛び跳ねるかのように去った。

それはほんの僅かの間の出来事……


 

「ったく!人騒がせな~!たかがさそりごときで大騒ぎしおって!なんて情けない奴!あれは毒がない種類だから刺されても痛いだけだ!」

 

 若い園師が庭の小石をひっくり返したら、蠍が出た為にびっくりして腰を抜かしたらしい。

 

「えーい!ワシは忙しい!早く玉璽を………  お!?えぇぇぇ!!な、な、何じゃ!?こりゃぁ――!!」

 

 丞相が書簡に捺した印を見て、文官達も驚いた。

 

「ぎょぎょぎょ玉璽がぁぁぁ!!

 す、すすすり替えられてるぅぅ!!」

 

 大事な書簡に、大きく蓮根の断面が綺麗に写っていた。 

 

曲者くせものじゃー!出会え~曲者ぞ!!いったい誰だ!?蓮根なんか置いてったのは!!」

  


  *∽*∽*∽*∽*∽*∽*∽*



  帖木児不花テムル・ブカは、エル丞相からの知らせで、兄弟の威順王いじゅんおう寛徹不花コンチェク・ブカも大都側に付いたことを知った。

 

「フム、兄上もか。こりゃますます上都は危なくなってきたな。さてこっちも文を送らねばの。いくら小遣い稼ぎの為とはいえ、かんさんも楽じゃないわい……」

 

 何を隠そう、彼こそが間者なのだ。

 

 

トゥトゥ~ポッポー……

ポッポー……ポッポー……

 

テムル・ブカは鳩の足に文を取り付け、空に向けて放った。

 

「よっしゃ、大空はお前のもんじゃ。ゆけ~媽蘇蠡モスラよ。頼んだぞぉ~い」

 

 鳩はバトバトっと、羽音を響かせて飛び立った。

 

 バタバタ……バタバタ……

 

 「はて?何じゃ?」

 

 部屋の前で足音がしたと思ったら斉王オルク・テムルがやって来た。

 実は彼も間者。一族を存続させることを第一に考えた彼は、大都側に付いたのである。

 

 

「テムル・ブカ様、大変ですぞ!玉璽が盗まれたとか…… 中庭に、遼王らが呼び出されておるのを見ました!」


 御免、とオルク・テムルは卓子に置いてある杯を口に持っていったが、中身が水ではなく阿剌吉アルキ酒だと知って目を丸くした。

 テムル・ブカは鳩が飛び立った方向を指差して言った。

 

「え?いや…… さっき鳩を大都に向けて飛ばしたところじゃ。トクトアに説得など必要なかったし、別段変わったところもなく順調だからって。なのに…… 本当に?玉璽がなくなったのか!?」

 

「はい。政務室からとか。今、捕吏が各部屋に回って、出て来てね!って呼び掛けておるとか。なんとも無礼な話です!」

 

 オルク・テムルは怒りながらも酒のお代わりをしていた。

 

「ハァ、これでは大都に行けんではないか…… とにかく、今はワシらも行くしかないじゃろう。疑われてはたまらんからな」

 

 テムル・ブカは、にわかにトクトアのことが気になり出した。

 

「まずいな。トクトアが真っ先に疑われるやも知れぬ……」

 

二人は、卓子に置いている酒をグィッとあおり、共に部屋を後にした。

 



※ウルスとは国。元の正式名称は大元ウルスです。

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