第64話 去りがたい……
トクトアが上都に来てから三ヶ月は経った。暦は六月。
上都はモンゴル高原南部に位置し、梅雨の時期と言えど平地とは違って日中の気温に大きく差があり、汗ばむくらいの陽気かと思えば外套を羽織らずにはいられない寒い日もあった。
しかし夏場は比較的過ごしやすく、毎年、夏になれば宴会や大掛かりな巻き狩りや競馬などの行事を開催して大いに楽しんでいた。
今は宮廷が南北に別れてしまって中止を余儀なくされたのがまことに残念でならない。
上都の市街地のあちこちでは、大都が戦支度を始めたという噂が囁かれ始め、人々は不安に苛まされていた。
中には戦がない場所に移住をしようと決意し、家財道具をまとめて街を出ようとする者も出始めるのもこの頃からだ。
ところがどっこい。街の城門からはそう簡単には出ることは難しかった。
それはダウラト・シャー丞相が、上都に出入りする者達を厳しく検分、制限し、出入り出来る者は、旅芸人一座、隊商、上都の高官、王族に限る、と触れ書きを出したのが理由だ。
トクトアは、城門の前に立つ門衛達の険しい顔付きを見て、自分は捕らわれの身の上になった気がした。
(困ったことになったもんだ…… )
カランコロン……
カランコロン……
鈴の音が聴こえてきた。
♪幾つもの山~と丘越えて~
幾つものジャムチを通るのさ~
ハンの都の猛将は~今か~今かと我が子の帰りを~待ちわびる日々~♪
あの駱駝に乗った謎の隊商が、新曲を披露しながら悠々とトクトアの目の前を通り過ぎて行った。
(な…… 新曲か?まさかとは思うが私に聞かせる為に作ったような歌だな…… ハンの都とは
いつもは全く気にも留めなかった隊商の歌に、自分の中にある帰巣本能の様なものを刺激された様な感じもし、にわかに浮き足立つ。
トクトアは気を落ち着かせようと、何気に辺りを見渡していたら女官長スレンの姿を見つけた。
(女官長とも別れなければならないのか…… 思いのほか長く滞在してしまった。彼女と過ごすのが楽しくてしょうがなかったってのもあるな……)
*∽*∽*∽*∽*∽*∽*∽*
女官長スレンにとって久しぶりの外出。
お目当ては高級装身具を取り扱う店で素敵な一品を手に入れることだ。
「あら!この
スレンは、沢山の装身具の中からこの一品を見つけて喜んだ。
「おお、そうなんです。よくご存じで。いかがです?お安くしますからこの機会に購入されてはいかがでしょう?高麗産の螺鈿細工はとても質が良いので、どこでも大人気!直ぐに売り切れてしまうのです!残念ながら、今ある分がなくなりますと、本当に売り切れに!お嬢様は大変お美しいので、とてもお似合いになりますよ!!」
店主は愛想の良い笑顔で揉み手しながら接客している。
「まあ、お嬢様だなんて…… お世辞でも嬉しいわ。じゃあ、これを頂こうかしら」
誉められて嬉しくなったのもあるが、本当に品物が良いから買うことにした。
「私が払う。この銀製の蝶花の簪もな。良いか?」
横からぐいっと現れた若者を見て驚いた。トクトアがいつの間にか側に立っていたからだ。
(この人、あたしの後を付けてたのかしら?)
店主は満面の笑顔で驚いて見せた。
「はい!!それも大変見事な銀細工でございます!いや~若様、大変お目が高い!勉強しまして、どちらもお安く致します!もしよろしければ大都の鐘楼前通りに姉妹店がございますので、ご旅行の際は是非ともお立ち寄り下さい!今後もどうかうちをご贔屓に!」
店主はここの若旦那だろう。
素晴らしいセールストーク、また来たい、と思わせる程人好きのする笑顔をしていた。
店を出た後、トクトアは螺鈿の簪をスレンの髪にそっと差し、収納様の木箱を手渡した。
そのさりげない動作にときめいた。
「ありがとうございます。嬉しいですわ。とっても!」
本当に嬉しくて、跳びはねたくなったくらいだ。
トクトアは少し照れ臭そうにしている。
「……どう致しまして。いつもお世話になっているお礼ですよ!」
でも、さっき買っていた銀細工の簪がとても気になった。
(いったい誰に?誰にあげるのかしら!?高価だし、細工も繊細だった……)
「あの、銀細工の簪はどなたかのお土産ですか?」
「ええ。妹がおりましてね。似合うのかどうか分かりませんが……」
(まあ、妹君がいらっしゃるのね!なんだ……でも簪なんて妹君に!?)
「きっと妹君も、あなたに似てお美しいのでしょうね!」
「フフ…… いや全然似ていません。赤みが強い色の髪、おまけに癖毛でしてね、美人とは程遠い顔立ちですよ。唯一美しいのが、きめの細かい色白の肌と陽光の下では青く澄んだ瞳だけです。まだ子供ですから、後二~三年経てば少しはマシな器量になるでしょう…… 頭は悪くない方なんですがかなりの天然です。おまけに、これがどんくさい奴なんですよ!」
と、まあ目の前に当人がいないことを良いことに言いたい放題だった。
しかしトクトアはそう言いながらもどこか楽しげに見えた。
(なんだろう……やきもちかしら?
妹君に対して。あたしって器が小さい女ね……)
スレンは小さくため息を付いた。
「どうかされましたか?」
「いえ、何でもありませんわ。トクトア様、あの方は……テムル・ブカ様ですわ。ほら、お散歩されているようですね」
スレンが指し示す方向から、テムル・ブカがこちらに向かって真っ直ぐに歩いて来るのが見えた。
「よっ!お二人さん!熱々だな!!」
テムル・ブカは一目も憚らず大きな声で話し掛けるから、スレンは顔を真っ赤にしてうつむいた。
「テムル・ブカ様、声が大き過ぎます。女官長が恥ずかしいかと」
「え!?今さら忍び会う仲か?」
やっぱり声のトーンはそのままだ。
「女官長、先にお戻り下さい……」
「いや!そんな女官長との逢い引きを邪魔する様な無粋な真似なんか!なあ?」
「……あ、あの。先に戻ります。ではまた!」
スレンはますます顔を真っ赤にさせ、逃げる様に去って行った。
その背中に向かって、まるでとどめを刺すかの様に、テムル・ブカの残念そうな声が後ろから追いかけて来た。
「すまんのう!女官長~!!悪かったな!!」
二人は、スレンが完全に見えなくなるまで見送った。
「……テムル・ブカ様、あれは酷うございます!」
「何を言うか。これでお互い気兼ねのう話せるというものじゃ。違うか?」
「確かにそうですが……」
「どうじゃ?この近くでゆっくり酒でも飲まんか?ほれ!ちゃんと、この通り肴も用意したぞい」
テムル・ブカはいかにも楽しげな様子だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます