天から来た子供
第63話 上都脱出 其の一 〈仕掛け〉
トクトアは闇夜の中を馬で駆けた。
他にも二頭の馬を従えて移動しなければならなかったが、綱で引っ張るのが面倒なので離したままにした。
放っておいても付いて来るのは、この草原の動物が群れるという習性もあるが、二頭が寄り道せずに後ろから付いて来るにはちゃんとした理由があった。
「ふふ、やっぱり狙いはこれだな?」
巾着から塩の
「よしよし、いい子だ。良いか?今からしっかり付いて来いよ。トクトア殿も頼んだぞ!」
一頭だけ自分の背格好と同じ人形を乗せていた。名前は〈トクトア殿〉。
吐く息が白く、凍えるような夜気が手や頬を遠慮なく刺す。ぶるっと身を震わせ、着ている蒼色の外套に付いている毛皮に顔を埋めた。
季節は夏になろうと言うのに寒い。
空を見上げ、
最初の目的地が "夕陽が見える丘 " で、そこで仲間と落ち合う予定だが、そう簡単に何事もなくたどり着くとは思っていない。
(天の神よ、我を導き給え……)
星月夜を眺めながら進み、遠くの方から狼が悲しげに吼えるのを聞いた。
(私も悲しい時は、狼の様に吼えることが出来れば良いのにな……)
広大な草原を駆け、馬を休ませてを繰り返した。
ところが目的地まであと八里(約4㎞)というところで、大事な銀の
「……ちっ!」
このまま行こうと思ったが、やっぱり見事な銀細工であるし、とても惜しい気がしたので、追っ手に追い付かれるのを承知の上で馬を停め、急いで桐箱を探すことにした。
「……あった!これがなくっちゃアイツが泣き出すかも知れんからな。私だけお土産ないの?って言われちゃかなわん…… うん?」
風が運んで来る音を聞き、地面に伏せて耳を澄ませた。
ごく僅かだが、遠くからやって来る馬の足音が地面を通して徐々に伝わって来た。
直ぐ様馬の
暗闇だろうが、トクトアには敵がこちらに近付くのが見える。モンゴル族は驚異的な視力を持っていることで知られているが、彼の場合は異常だった。
「敵は……一人、二人、三人、四人か……距離は…三里(約1・5㎞)…もないかな……」
弓に矢を
「一番手前の奴の頭を狙うか。その間も馬は進む……」
榛色の目を細め、弦を弾いた。
矢はシュッ、と音を立て、空高く弧を描くかの様に飛んで行った。
「遠矢だ。フフ……ここから向きが変わる」
果たして彼の予言通り、矢は向きを変え下降を始めると一番手前にいる者の額に見事命中した。
この幸運な敵は、全く痛みを感ずる間もなく、また何が起こったのか分からないうちに亡くなった。
敵は仲間がいきなり目の前でどう、と落馬したので慌てふためいているのが分かった。
闇夜で遠矢を飛ばせるなど、常識的にあり得ないと考えているだろう。
「……さて次の手だ。こっちの狙撃に気付いている」
乗っていた馬に優しく声を掛けながら膝を曲げさせ、横向きに地面に臥せると、着ている外套で馬の目を覆った。
「そのままじっとしてるんだ。そう、良い子だ。お前が可愛い
次は巾着から小石程の塩の塊を放り投げ、二頭の馬を誘導し、自分は臥せた馬の側で弓を引き、〈トクトア殿〉の方に
迎え討つ敵は三人。
(……よし、そろそろ放つか)
〈トクトア殿〉の馬の足下に向かって矢を放った。
ヒヒ――ンッ!!!
馬は元々臆病な性格で物音には敏感だ。耳下でした、矢の音に酷く驚いた〈トクトア殿〉を乗せた馬は、
「逃がすな!追えー!!」
そこへ上手い具合にやって来た敵は、トクトアが乗っていると勘違いして追い掛けた。
「さあ、いい子だから起きるんだ!」
外套を羽織り、馬に跨がって駆け出した。
こっちの狙い通り、馬達は上手く目的地の方に向かって駆け出してくれたのは良かったが、まさか敵も一緒にゴールをするなんてのは予定にはない。
「皆殺しにせねば……」
走りながら弦を引き絞り、敵の背に向けて放った。
矢は闇を切り裂くかの様に進み、背中から肺を射抜き、敵は小さな呻き声を上げて落馬した。
闇の中で人がドサッと地面に落ちる音を聞くのは気味が悪かったが、殺らねばこちらが殺られる。
残る敵二人は、〈トクトア殿〉に矢を射かけたが全く反応がないことから、これは一杯食わされたと気付いた。
「くそ!あれは人形だ。奴め~なんて悪知恵が働くんだ!」
「おい!見ろ!」
仲間が指差す方から、鞍だけ乗せた仲間の馬が戻って来るのが見えた。
「あれ!?なんで……」
そこへもう一頭、鞍だけの馬が駆けて来たと思ったら、突然鞍の反対側から本物のトクトアが姿を現し、抜き身の剣を振り回した。
星明りの下、弯曲した刃は繊月の如く白く煌めき、敵に応戦する間も与えず首を
切り口からは生温かい鮮血が吹き出し、
「は!?何も見え……」
弩の引き金に指を掛ける間もなく、突然急に目の前が真っ暗闇になったのは投げられた剣が額に深く突き刺さり、物言わぬ屍となっていたからだ。
男の身体はぐらりとなって、それから地面に叩き付けられた。
「ハア……疲れる。そりゃ死んだら何にも見えん」
トクトアは馬から降り、男の額に刺さった剣を引き抜いた。
「……やれやれ。高く付いた買い物だったな。
簪の入った桐箱を忍ばせた懐を叩いて呟いた。
口笛と舌鼓で散り散りになった馬を呼び寄せると、再び草原を移動した。
汗をかいたせいで身体は冷え、手も凍え、手綱を掴んでいる感覚がない。
(……よし、最初の合図だ)
星空に向かって
ピイィィィ――……
鏑矢は空に吸い込まれたかに見えた。
「天の神よ、慈愛の涙を。なんてな……え?」
流れ星が長い尾を引き、目指す丘の方角へ落ちて行くのが見えた。
この前テムル・ブカが話していた、天の神が流される慈愛の涙とは空にぶつかって儚く消える流星のことを意味するのだろう。
この思いがけない天からの贈り物に、ちょっと心の疲労も回復した。
「……こんな光景は恋人と見たいものだな。スレン……あれ?流れ星は……もう終わりか?」
天の神も、彼の気の多さに呆れたらしい。
「……今は真面目に走ろう。隕石が頭に当たらないことを祈るか……」
仲間に伝える手段には鏑矢が使われ、一里の間隔で合図が行われる。
二回目は、無事に到着しそうだから計画は使わずそのまま待機を意味するが、追っ手が来た場合、速やかに三回目の矢を放たなければならない。鏑矢の音を聞いた仲間は、速やかに自分の持ち場に移動して準備完了したら合図の鏑矢を放ち、即座にあの計画を実行することになっている。
そして二回目、鏑矢を放つ。
ここから全速力で疾走する。
シュッ……ヒュン……
後ろを振り返ると、三里以上後方から追っ手が来るのが見えた。
「もう、来たか……」
馬術が巧みなモンゴル族は、その昔、逃げるルーシの軍隊を100㎞以上に渡って追跡し殲滅させた記録がある。そのしつこさに周辺の国々は震え上がったらしい。
耳元近くを矢が飛んできた。
当てずっぽうでもここまで飛ぶとは流石は同族。
彼は、敵の追跡を意味する三目の合図をする必要があると判断。
ところがここでまたしても、同じ様なアクシデントに見舞われる。
馬で駆けながら矢を番えようとするが、寒さに手が
「ちっ!またヘマをやっちまった……
いったい何なんだもう……」
天罰。いや祟りじゃ、祟り。
まさか停まって探すだなんて、もう御免だ。
仕方なく指を口に持っていった。
草原に、指から発せられる鋭い音色が響き渡る。
ピュィィィ―――……
その間、幾度も矢による攻撃に晒された。
鏑矢のお陰で敵に位置を知られてしまったがそれも承知の上だ。あとは仲間であるナンジャーラ・カンジャーラ舞踊団の合図を待つだけだ。
(……まだか?早く合図をくれ)
まずいことに、馬が息苦しさに喘ぎ出した。口の端から白い泡の混じった涎が出ている。
ピィィュ―――……
準備完了。やりますよー、の鏑矢の合図だ。
最初はフワッと小さな火が灯っただけだったが、何かが弾けたみたいにぱっと大きく燃えあがって炎に育ち、炎は吹き渡る風に煽られて線を引くかの様に地を走り、やがて噴き上げる火柱に変化した。
赤々と立ち上る
美しいが恐ろしいくらいに燃え盛る炎の壁に馬は怯えて
こんな派手に燃やせと言った覚えはない。
「座長、燃やし過ぎだろ…… いったい何をくべたらあんなに激しく燃え上がるんだ?女難だけかと思ったら、今度は火難もか。あの火の壁を飛び越えなくてはならんとは……」
曲馬団の虎か獅子の火の輪くぐりをやらされるみたいだ。
「全く、命がいくつあっても足りないな……」
トクトアの苦難の物語が始まります。
初めましてニャン。私は
歩。これは歩幅ではなく単位を表します。中国の一歩は五尺。約1・5mです。日本の一歩はそれより長く六尺。約1・8mです。
たま~に昔の方の身長で、六尺って聞くんニャけど、抱っこされたら眺めもいいだろニャ~
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