第62話 あなたの匂い……


 

 中書省、丞相政務室。

 

「父上、仰せの通り、浮浪者の群れをアスト親衛軍に入れました。別に、バヤンの心配などしておりませんが、これではアスト親衛軍の名は地に落ちてしまいます。 いえ、大ハーンのご威光までも失われてしまうでしょう。さすれば陛下のご信頼も失ってしまうのではと」

 

 丞相の長子、唐基勢タンギスは、部屋中に漂う張り詰めた空気と緊張感からか、その場に似つかわしくない、取って付けたような笑みを見せていた。

 父親の燕鉄木児エル・テムルの灰色太眉毛がピクりと動いた。

 

「……今はこれで良い。案ずるな。その内、均等化する。アストの名はそう簡単には落ちんよ。とりあえず、高麗の愉快な仲間達とボンボンケシク四人組をまとめて放り込んでおけ。少しはカッコが付くだろ?ははは、でも余計にややこしくなるかもな…… 今は、バヤンの力を抑えることの方が大事じゃ。致し方ない」

 

「……バヤンが裏切るかも知れないと?」

 

「念のためだ…… トクトアは未だ上都から帰らず。ゆえに、一時的にバヤンの力を削いどく必要があった。トクトアとて、今のバヤンの状況を知れば飛んで帰って来るであろう?上都にはな、以前から間者を忍ばせておるのだ。バヤンが河南におった時に、トクトアの詳細をこと細やかに記した書状を送れたのも間者のはたらきによるものだ。勿論、トクトアに帰って来る様説得する役目の者もおる。要はあちら側に付いてもらっては困るということだ。バヤンの為にもトクトアがこちら側にいてくれる方が何かと上手くいく。軍を動かすだけが戦と思ったら大間違いぞ。戦などもうとうに始まっておるわ!」


「なるほど!バヤンも兵の育成に躍起になっているので他に目を向ける余裕もない筈です。流石は父上!!」

 

「有能な者もそうだが、危険な者ほど自分の身近に置くものだ。あれの忠誠心を利用しない手はない。全ては陛下の御為!この大都の為!だ。残りはあの三つのウルス(ハン国。分裂したモンゴル帝国の国々)が要らんことをせんように睨みを利かすだけだ。上都との戦に干渉してもらっては困るからな。死んだ様に動かず、じっと見ておってくれたらそれで良い」

 

「父上!兄上!」

 

 エル・テムルの次子、塔剌海タラハイは、波打つ様な黒髪を揺らしながら部屋に入って来た。


「お二人は、アスト親衛軍の噂をご存知ですか?あのバヤンがとうとう頭がおかしくなったそうですよ!いい歳をして達磨さんが転んだなんて!」

 

 何も分かってないのは彼だけのようだ。

 

「ほう。バヤンがか?」

 

「はい!左様です父上!最早バヤンにアストを任せられませぬ!どうか、このタラハイに指揮権を!」

 

「フッ、笑わせるでない。じゃあお前が、あれをまとめれるのか?アストにはグズのクズ共がいるんだぞ!お前は、自分で自分の首を絞めたいのか?ええ?もっと状況をよく見てから言え!!」

 

 この愚か者よ、とタラハイは父にデコピンされて撃沈した。

 

「万事、バヤンに任せておけば良いのだ。あの達磨さんが転んだはワシもやっておったんじゃからな!」

 

 まさか、自分達が尊敬する父もやっていたとは。

 驚く息子達に狡猾な笑みを見せる父だった。


 

 *∽*∽*∽*∽*∽*∽*∽*

 

 

 雪花シュエホアはこっそりトクトアの部屋に忍び込み、広い寝台に寝転がった。

 

「ニャーニャーゴロゴロ…… うおぅぅぅ……すう…… ハア~トクトア様のお布団の香り。ウフフ……匂い……あれ?しないな。リネン替えてるのね……ちぇ!」

 

 掛け布団を頭から被って、隙間から目だけをキラリと光らせた。

 

「フッフッフ。いいのみっけ!」

 

 シュタッ、と高速に動いたシュエホアは、小箪笥の上に置いてあった夜着を手に取ると、素早くそれを羽織って再び布団の中に潜り込んだ。

 

「……ハア~トクトア様の香り。あれ?匂いしないな夜着も。洗ってある……ちぇ!」

 

 雪花シュエホアは仰向けになって今日の出来事を思い出した。

 

「やっぱり失礼だったかしら?王子様に対してあんなことを……」

 

  そっと、指先を自分の唇に触れてみた。

 王子の柔らかな唇の感触が思い出され、ドキドキした。


「いいえ!あんなことを知り合ったばかりの淑女レディにするなんて、やっぱり許せないわ!」

 

 床から起き上がり頭をブルンブルンと横に振り、王子とのことを事故みたいなものだと決め付けた。

 しかし身体中が熱を持つのはどうしようもなかったので、少し御簾みすを巻き上げ室内に夜風を取り入れた。

  


 

 王子は自分が傷を負わせた漢人の男女を訪ねた。

 幸いなことに、近所でも評判の美男美女のカップルなので居場所も直ぐに見つけることが出来た。

 王子の誠意の込もった謝罪を受けた二人は、まるで別人を見るかのように終始目をぱちくりさせていた。

 それも無理からぬこと。

 

 帰り際に王子から、「また会ってもらえまいか?」と言われた時、なんと言って断れば良いのか分からなかったので、「その衣服から漂う匂いがオジサン整髪料みたいに臭いから無理です」と、返答した。 その時の王子のショックな顔付きと言ったら、一気に日が沈んでしまったのではないか?と思う程に暗くなったので、流石に気の毒に思った

 しかし今思うと、あんなことを言わずに、そんな気はないので困ります、とはっきり言えば良かったと後悔した。

 と、言うのも王子は立ち直りが早く、またグイグイと押してきた。

 

「分かった。この香料は高いのだが未練なく捨てよう!もっと爽やかな香りに変える!」

 

「あ……あの、そう言うことではなく……」

 

 王子は跪いて、シュエホアの手を取った。

 

「頼む。もうこれきりだ、と言わないでくれ!」

 

 熱すぎるくらいの眼差しで自分を見上げる王子に戸惑った。

 

「あ、あの私はこう見えて……年齢が……ずっと上で……」

 

「……え?」


 王子は不思議そうな顔をしている。

 

「いやあの……中身がオバサンって意味なんですよ!そんな女だから。ほら!私っていまいち色気というか華やかさが足りないでしょ?王子様は私みたいなのより、ずーっと綺麗な女性の方がお似合いです!宮殿には、若くて綺麗な女官がいっぱいなんでしょ?ひとりくらいご側室にお迎えしたら良いのでは?」

 

「……そんな面白みのない女など迎えて何になる?」

 

「いや、面白いとか面白くないとか、そんなことを言ってどうするんです?あなたは高麗の世子様。素晴らしい女性と愛を育くめば、その荒々しいご気性も良い方に変わる筈です!」

 

 王子はシュエホアの手を掴んだまま、いきなり立ち上がった。


「……そんなに聞きたいのか?」

 

「はい?」

 

「……俺は……俺は、お前が愛しく思う。好きだ!」

 

 王子はシュエホアの腕を引っ張り、華奢な身体を愛しそうに抱き締めた。

 

「あ、あの私は……離して下さい!」

 

 なんとか腕から逃れようとしたが、強く抱きすくめられているので無理だった。


「……シュエホア!」

 

 突然、笠のベールを上げられ、指で顎クイされて無理やり口づけをされた。

 

「………い、嫌っ!!」

 

 怒ったシュエホアは、王子の顔に向かって平手打ちをしようとしたが、手首をぐっと掴まれてしまった。

 

「……平手打ちとはな。その鼻っ柱の強さも愛しい」


 また王子がブチューっと、しようとしたので頭を横に振ってかわした。

 

「じゃあしっかりぶたれなさいよ!あなたって最っ低!!大嫌い!今度会ったら、殺して粉微塵こなみじんにしてから濁った黄河に捨ててやる!怪魚の餌にでもなればいいんだわ!!」

 

「それって、また会ってくれるってことでいいんだな!?」

 

 王子は、じゃまたな、笑顔で手を振り、遠くから離れてこちら見ている三人組の所へ戻って行った。

 シュエホアは地団駄を踏んで悔しがった。

 



 夜風に当たったことで冷静になれた気がした。

 近所のオバチャンみたいに、ガハハハハと笑ってみれば、何も悩む程のことじゃないと思えた。

 たかがキスくらいで怒って大騒ぎするなど馬鹿馬鹿しいではないか、と。

 本当に十代の初々しい少女でもあるまいし、近所のクソガキ共の、質の悪いイタズラと考えれば良いのだ。


(あの時は腹が立った。でももう何も考えないでおこう。死神陛下に言われた通り、今を楽しめばいいのよ。深く考えたら疲れそうだから……)


 寝台の柱に寄りかかり、王子の屈託のない笑顔を思い出した。

 

「なんだか憎めない人。私と同じ不器用で……お前が好きだ、か。でもあれがトクトア様だったら。ズズズ……あ、涎が。ほら恋!どんと来い~待ってます!!」

 

 相撲取りの突っ張りの真似事をした。

 そんなことをしたら誰も近付けないのに。

 その夜はこのままトクトアの寝台で眠ることにした。

 少しでも良いから僅かに残ったトクトア臭みたいなのを嗅いでいたかった。

 彼はいつも爽やかな香草と香木の香りを身に纏っていた。

 それは香草を入れて作ったサッシェ(匂袋みたいなの)を箪笥の中に忍ばせて、匂いが自然と行き渡る様にするのと防虫のダブルの相乗効果を狙ったものだ。

 彼は、シュエホアにもサッシェを作ってくれた。トクトアお手製だ。

 

「わーとってもいい匂い。トクトア様、ありがとう!」

 

 トクトアは優しく微笑んでいた。

 綺麗な榛色はしばみの目が、時々金に近い色に見えることがある。

 蒼き狼の目と同じ色だ、とバヤンが言っている神秘的な目。

 

「トクトア様、早く帰ってこないかな。こっちは河南から帰って来ちゃったよ…… 早く……お土産の岩絵の具を見せてあげ…るね……」

 

 また馬頭琴の音色が聞こえた。

 優しい音色はまるで子守唄みたいだ。


「……誰かな?上手……」

 

 馬頭琴の音色を聴きながら眠った。

 

 

 実はバヤン邸から何軒か先の近所に、その馬頭琴の主が住んでいた。

 彼の名はジョチ。

 海外でも人気の、日本製の薬用化粧品ビュー○のイメージキャラのビュー◯君みたいな癒し系で、黒髪ショートが似合うナチュラルな美貌の持ち主だ。


「ジョチ、今夜は箏の音色が聴こえないね。せっかく近くまで来たのに。演奏もばっちりだし、僕も月琴を弾こうと思ったんだけど、いったいどうしちゃったんだろ?」

 

 この貴公子は名をボアル。

 フワフワサラサラのカシミアみたいな天パの髪をしている。

 西域からきた美容染料で髪を染めることに凝っており、中性的な美貌の持ち主だった。

 ここだけの話、母親からはボアちゃんと呼ばれているらしい。

 彼らは近所の庭園にある眺めの良いちんにいた。


「そうだね。多分疲れて寝ちゃったんじゃないかな。子守唄に聴こえたんなら占めたものさ」

 

 ジョチは馬頭琴を片付け始めた。


「寝たって!?まだ早いんじゃないの?子供が寝る時間じゃないか!」

 

「もう明かりは消えたけど、あの辺りにトクトアの部屋があったと思うね。さあどうなんだろ」


「トクトアが帰って来たってこと?」

 

「いや、それはないね。丞相からはまだ何も聞いていない。間者はいるらしいけどね。トクトアはまだ上都にいるだろう」

 

「……助けに行かなくて大丈夫かな?」

 

「大丈夫、ヘマさえしなけりゃ心配ないさ。トクトアならちゃんと帰って来れるよ。ところで君らが王子に教えた古臭い髪型、いつの間にか変えられてたよ。それだけじゃない。可愛い女の子と歩いてた……」

 

「なんだって?ジョチ!それってほんと!?あの王子に彼女がいるのかい?ちょっと~よしてくれよ!」

 

「……僕も気に入らない。あの子に近付くのが!」

 

「え!?ジョチ!誰のこと?」

 

 月明かりに照らされたジョチの美しい横顔を眺めて、はて?と思うボアルだった。

 

 

 

 その夜、雪花シュエホアは夢を見た。

 

 何処の都の風景。

 そこは山々と草原に囲まれた美しい高原にあった。

 夜になり、城門から大きな蒼色あおいろの狼が飛び出した。

 吐く息が白い。凍える夜気。

 輝く様な榛色の目をした狼は、空を見上げた。

 後ろから馬に乗った男達が追いかけるが、この狼の足には到底追い付けなかった。

 狼は目を細め、口から白い牙を覗かせた。


 狼は広大な草原を疾風の如く駆け抜け、止まることなく走り続ける。

 

 月のない晩に頼りとなるのが星の光。


 狼は、時折空を見上げては星の位置を確認していた。


 そしてひたすら南に向かって駆け続けた。

 

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