第61話 イメチェンですか!?
「夜風が気持ちいい~。箏を弾こうかな」
シュエホアはバヤンの亡き妻サラーナ姫の形見の箏を持って来た。
この箏を弾いている時、とても心が安らぐ。
季節を無視し、今弾きたい気分の曲にした。
弦で旋律を奏で桃園を表現する。
次は弦を押さえ音を高くし、
桃の
今度は
すると一陣の風が桃園を吹き渡り、花弁はもう一度宙に舞い上がり、やがて渦を巻いて、花弁の帯は豊かな爪音と共に、風に乗って大空へ旅立つ。
「……あれ?この音は?」
何処からか夜風に紛れてチェロに似た音が聴こえてきた。
手を止め耳を澄ませば、
馬頭琴とは、
清らかで明るく、音色はどっしりして力がこもっていることから〈草原のチェロ〉とも称されている。
馬頭琴の主は一緒に弾こうと誘うかのように、今しがたシュエホアが弾いていた曲を真似てみせた。
「一度聴いただけで…… いったい誰かしら?」
思わぬ友達が出来た、と嬉しくなった。
*∽*∽*∽*∽*∽*∽*∽*
大都の北にある寂しい区画。
高麗王子の
四人で手分けしてあちこち聞き込みをして、ようやくここにたどり着いたという。
物凄い執念である。
彼らはシュエホアの住まいを聞いたが、尭舜は知らぬ存ぜぬの一点張りだった。
けれどこれしきのことで諦める王子ではなかった。
わざわざ宮城からここまで足を運んだからには、何としてでも愛しい娘の居場所を突き止めたかった。
それで従者三人に引き続き捜索させ、自分だけがここに残り、娘の住まいを知っているであろうおぼしき人物、尭舜の行くとこ行くとこしつこく追い回した。
お陰で畑の草引きから、野菜ちぎりに
王子にとって、どれも生まれて初めての経験だったが、文句を言わずにそつなく作業をこなした。
「なあ!シュエホアは何処に住んでるんだ?あれだけ人を顎で使っておきながら、何にも教えんとは酷いぞ!」
今度は井戸の
尭舜は
「しつこいな…… お前さんには
「ハア……分かったよ。その代わり、シュエホアの居場所を教えてくれよ。頼むから!」
尭舜は王子にいっぱいになった水桶を二つ持たせ、自分も二つ持って先に歩いた。
「そんなことを聞いていったい何を考えとるんじゃ?それにお前さんのその髪型、なんか古臭いな。あとでワシが手直ししてやる」
「何?髪型が古臭いだと!?」
王子は家の手伝いをさせられたうえ、居場所も教えてもらわず、その挙げ句自慢のヘアスタイルを古臭いとケチを付けられ、ショックで凹んだ。
尭舜は
「おい!パッツン前髪なんか……」
「大丈夫じゃ、そんなのは作らんし、お前さんには似合わん。ほんの少しだけじゃよ。お前さんは
尭舜はササっと、手際良く頭上で
これは尭舜が若い頃に武者修行に出ていた時に好んでしていた髪型で、頭上で髷に結って頭巾(紐でも)で包み、残りの布は後頭から垂らすのだ。
「ほれ!こっちの方がずっとマシに見えるだろうが!布の幅を細いのにすると、また粋になるんじゃ!」
「おお本当だ!こっちの方がカッコ良い!この長い布を垂らすのが流行りか?礼を言うぞ!シュエホアも素敵と言うに違いない!」
王子は満足そうに微笑んだ。
「お前さん…… あの子に心底惚れとるんじゃのう。もうぞっこんじゃな!」
「どどどうしてそれが分かったのだ!?」
「……お前さん。それで隠しとったつもりか!?めちゃくちゃ分かりやすいぞ!しかも住所まで探しとるんじゃから誰だって気付くわい!」
王子は顔を赤くし、うつむいた。
そこへ捜索に出た三人が、息を切らして戻ってきた。
「ふう…… アニキ~やっぱり無理です…… 大都は広過ぎますよ~!いったい何十万人いると思ってるんですか!?」
捜索隊の三人は戻るなりしきりに喉の渇きを訴えるので、尭舜は面倒臭そうに
丞相の息子達と同じおもてなしだ。
これは巷では伝説となっている。
しかし三人はドブの水よりはマシと思い、杓子で水をすくって旨そうに飲んでいた。
その隙に尭舜は三人の帯に挟んでいる紙を
シュエホアを描いた似顔絵のようだ。
それにしてもそれぞれの画力は恐ろしいくらいに酷い。尭舜はため息を付いた。
「お前さん達、これは本気で描いたのか!?どれもぶっ細工じゃのう…… これじゃ永久に見つからんわ。歯がギザギザで鼻から鼻毛かなんか知らんのがボーボーじゃし。この将棋駒みたいな顔の輪郭はなんじゃ?あの子は卵形だ!こんなの見たらきっと怒り狂うぞ!全く呆れるわい……」
「なんと!前衛的な作風と言って下さい!」と、従者三人は主張したが、
「ワシにはその意味がようわからん。お前さん達はやっぱり下手くそじゃ……」
と、尭舜から言われて激しいショックを受けていた。
「さあ帰れ。この大都でたったひとりの人間を探すことなど不可能じゃ。それにな、出会えんいうことはそれほど深い
それを聞いた高麗王子は悲しげに
「砂漠に落としてしまった玉を探すようなものか……」
「まあ、そんなもんじゃな。残念ながら……」
悲しみに暮れる王子を励まそうと、タスルとナギルとチャンディは、今大都で話題の二人の美女の話をした。
タスルは、紅閣楼の名妓で大都一の美女と称される
チャンディは、バヤン家の深窓のお姫様の比類なき美貌と
ナギルは目を輝かせながら二人の話にうっとり聞き入っていたが、王子の方はまるで興味なしという感じだった。
「俺はシュエホアが良い……」
憐れ王子、悲しみの底なし沼にズブズブと沈みかけだ。
ヒヒィ――ン、ブルルル……
表の方で馬の
(嬢ちゃんか?よりによって、こんな時に来るのはやめて欲しいな……)
「金さん!銀さん!じゃあまたあとでね~」
シュエホアは二人の護衛に向かって手を振った。
そこへ尭舜が後ろを気にしながら小走りで来た。
今日のシュエホアの装いは髭に
黄色の小花や濃緑のリボンが付いた萌木色の
「師匠、お土産です 。
「おお。ほんに旨そうな匂いがするの。嬢ちゃんは綺麗な笠とええべべを着てよう似合うとる!のう嬢ちゃんや……悪いが今日は帰って欲しいんじゃが……」
「……何かあったんですか?」
「ちょっと、今取り込んどってのう……」
その尭舜の後ろから、ぬぼーっと見知らぬ男が現れた。
「シュエホア……会いたかった!」
尭舜は「あ……見つかってしまった」と、手を額に乗せて呻くように嘆いた。
シュエホアは目の前の美男子が誰か分からず悩む。
「あの、失礼ですが……どなた様ですか?」
高麗王子、見事イメチェン成功だが悲しいくらい気付かれなかった。
ああそうだな、と彼は言い、前髪を掻き上げニカっと笑った。
「ああ!あなたは王子様!?」
「そう俺だ。だが安心しろ。お前に危害を加えようとかそんなことは思ってない」
王子が近付いたので、シュエホアは後ろに飛び退いた。
「……そんなこと。はい分かりました、と信用するとでも?あなたがしたことは忘れていません!」
隣にいる尭舜は手を叩いて笑い出した。
「……今は反省している!本当だ!!丞相に反省文を提出し、自分の誤りを悔い、二度と同じ過ち繰り返さない、と誓ったのだ!お前が言った言葉は俺の心に響いた!あの日からどれだけお前に会いたいと願っていたか……あの時の非礼、どうか許して欲しい!」
あの傲慢な高麗の王子が
これにはシュエホアも感じ入った。
アニキ~、と前からあの鬱陶しい三人組も出て来たが、まさか目の前にいる淑女がシュエホアとは思わず、キョトンとしていた。
「……あなたの言葉を信じますが、本当に謝るべき人は私ではなく、あの恋人達では?」
それを聞いた三人組は、やっと目の前にいるのが誰か分かったらしい。
漢人に謝るなんて、と怒っていた。
シュエホアは三人の言葉に酷く苛立ち、もう我慢がならなかった。
「私にも漢族の血が流れています。あなた方が卑しいと蔑む血が。 高麗は儒教を厚く信奉し、高貴なお方は生まれながらにして徳も高いとか。では、始祖である孔子にも漢族の血が流れており、貧しい母子家庭であったのもご存知のはず。何かおかしいと思いませんか?その孔子がこう言っています、過ちて改めざる是を過ちという、と。では先程、王子様ご本人がおっしゃった言葉は口先だけと言うことになります。 身分なんて関係ありません!たった一言、ごめんなさい。すみませんでした。を言えない人は、そんな当たり前のことが出来ない人は、人としてどうかと思いますけど!」
「お前!
「無礼ってどちらの方かしら?あなた達みたいなのが幅を利かせて道を歩くから邪魔でたまんないわ!あんた達は、主君を諌めることも出来ないの?そんな腰抜けは、本当の忠臣とは言わないわ!それにここは高麗じゃないんだから!よその国で好き勝手しないで欲しいわ!」
(だからこの歳までお馬鹿なのよ!ったく!)
怒ったナギルが、そこらにあった中華鍋を頭に被って前へ出た。
そうまでしてわざわざ出て来なくてもいいのに。
多分、シュエホアにまた頭を殴られないようにする為だろう。
王子は苦笑いし、ナギルを制した。
「シュエホア、お前の言う通りだ。俺は謝りに行こうと思う!高い身分に生まれ付いたというだけで徳が高いという教えはおかしい…… それは特権階級の手前勝手な言い分だ。これが真の儒教の教えというなら本末転倒だろう。さあ、共に行ってくれるな?」
これには全員驚いた。
(……いったい何があったのかしら?)
「……私も行くんですか?」
「なんだ、見届けぬのか?この俺が信用ならんか?じゃ、これを持ってろ!」
王子は剣をシュエホアに渡した。
「こんなの渡されても……」
「嬢ちゃんや、良かったな。もし王子が嘘を付いたら、それでバッサリ殺ったらいいんじゃ。本人もそう望んでそうだし。これで何の憂いもなくなる」
尭舜はそう言い、まだ温かい土産のホーショールを頬張った。
「おい!何の憂いもだって?ちょっとは信用しろよ。俺はちゃんとけじめは付ける男だぞ!さあ行こう!!」
王子はシュエホアの手を引いて歩き出した。
それがあまりにも自然なので、何にも文句を言えなかった。
「……その服、良く似合ってるな。女笠も雅だし、とても綺麗だ!」
王子の目はあの時の、人を見下す様な目はしていなかった。
優しさに溢れる黒い目で、じっとこちらを見つめていた。
「……ありがとございます。確かに、服と笠は綺麗で私も気に入ってますが」
(それって、服と笠が!って意味でしょ……)
「いや、そうとらえられてもな…… そうではない。笠に付いてる日除け布のせいで顔が見えにくいが、一目でお前だと分かった。今日も一段と美しい……」
美しい。それは女の子をうっとりさせる魔法の言葉だ。
頬が赤くなったのが自分でも分かった。
「あなたも。今の髪型の方が良くお似合いです。いったいどうされたのですか?」
「ま、まあ、気分転換みたいなもんかな……」
まさか再び王子に会うことになろうとは……
世の中、不思議な巡り合わせがあるものだ。
(なんか暑い…… 扇子を持ってくれば良かったな)
待って~、と後ろから三人組も追いかけて来た。
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