第59話 面影
今日、見た宮殿群の素晴らしさは、生涯忘れないだろう。
(嬉しい。入場券買わなくていいし……)
プオーー……ドンドンドンドン、ゴオォォーーン……ゴオォォーーン……
正午を知らせる時報だ。
北の方角にあるメインストリートより、鼓楼と鐘楼から、角笛と太鼓と鐘の賑やかな音が聞こえて来た。
「お!昼にしようぜ!飯だ!飯!!」
「わーい!ご飯だ~い!」
しかし、お昼を食べる場所、中書省までの道のりが遠い。
この中書省、皇城から南に位置し、千歩廊の壁一つ隔てた右側にある。
この宮城内からだと中書省までは約2㎞近くは離れている。
宮城は、皇帝のプライベート空間というのだろう。
もうスキップどころではなかった。
慌てて二人は最初の南壁門へと走った。
TVの時代劇ドラマのあるある設定――お姫様か王子様が、お忍びで城下へと駆けて行くシーンをよく見かけるが、あれは絶対嘘だと身をもって知った。
普段から走ることなどないに等しい高貴な人が、いきなり走れる筈がない。
当然、走ってる途中で酸欠みたいになってぶっ倒れるに決まっている。
お部屋からスタートすれば、実に三十分以上は走り続けなければならないだろう。
「ハア……ハア……しくった……ここで食べれば良かった!まあ、こんな時のために馬を連れて来てるんだが……」
「ヒエ~辛い!これで雨だったら、お互い行き来が大変ですね……」
馬に乗ってしまえば、あとは安心だ。
バヤンの執務室に到着すると、副官のコルゲンと金さん銀さんのコンビが二人を出迎えてくれた。
「お待ち致しておりました!さぞかしお疲れと存じます。昼食の準備が整いましたので、お召し上がり下さい」
「わーい、いただきまーす!」
お弁当は、最近開店の
どのおかずも美味しかったが、一つだけ気になることがあった。
それが弁当箱に描かれたのは龍ではなく、何故か
しかし、全員飢えには勝てず、そんな些細なことに突っ込み入れる余裕などなく、ただひたすらシャムシャと食べ続けていた。
シュエホアは食べてる途中、ふと目を壁に
なんと、あの宮城で見た、真っ白い服の福々しい顔をした
「う!ぐ……苦じいぃぃ…………」
副官のコルゲンが茶を差し出し、バヤンは背中を叩いた。
茶を飲み、喉につかえていたモノが下って行く感覚にホッとした。
「す、すみません!そ、そこの壁の辺りに、おじいさんが……あれ!?」
壁には白い服を着た人物の肖像画が掛けられていた。
「おじいさん?モンゴル帝国五代目皇帝、大元の初代皇帝、
食い入る様に肖像画を見つめ、あっと小さな叫び声を上げた。
肖像画の
(じゃあ、あのおじいさんは……そんなことってあるんだ……)
本当に、世の中は不思議なことで溢れている、らしい。
「あ~旨かった!では軍事訓練だ!皆の者、行くぞ!!」
バヤン将軍、気合い充分だ。
「あの……その前にお手洗いに行ってもいいですか?」
「ああ!行って来いっ!!う○こか!?」
「違います!!すぐ帰って来ますから待ってて下さい!」
「そんな恥ずかしがることないのに!
「だから、違います!!」
たまらなくなったシュエホアは駆け出した。
後ろからバヤンが何か大きな声で叫んでいるが無視した。
「やーい、そんなに走ったらチビるぞ~漏らすぞ~ハハハハっ!」
「閣下!女性に対してそれは……せめて、大便の方か?とお尋ね下さい!」
「……副官、大真面目な顔して言ってるが、大して変わっちゃいない気がするぞ…… それも同じ様なもんだろ?」
傍らに控えている金さん銀さんは、聞こえない様にこっそりため息をついた。
中庭は松、竹(黒竹)、梅の縁起の良い木が植えられていた。
鶴と亀の石の彫刻が庭の中央にドンと置かれ、その間を小川がさらさらと音を立てて流れ、端には中国庭園にお馴染みの柳の木が繁っていた。
「はぁ、間に合った…… こんなに広いと、前もってお手洗いに行かないと大変なことになるわ……」
シュエホアはすっきりした顔で元来た道を辿って行こうとしたが、何処から漂って来るのか、えも言われぬ良い香りに思わず立ち止まった。
(
いったい何処から?と辺りを見渡す。
香りは中庭を挟んで向こう側にある廊下の辺りから、風に乗りここまで漂って来るのが分かった。
立ち去ろうとしたが、何となく気になったので見ていると、
その歩き方はシュエホアがよく知る人に似ていた。髪は栗色。
「あれは……トクトア様!?」
まさか、と思ったが念の為に確認することにした。
もっとよく見よう、と近付き懸命に爪先立ちして首を目一杯伸ばしたその時――直ぐ側でギャーという女の悲鳴がしたので、こっちは飛び上がらんばかりに驚いた。
いつの間にか厠の格子窓の真下近くまで来ていることに気付いた。
「あんれ~わたすのお尻さ見ようとするのは誰がやー!?」
どうやら
厠の窓の付近で、爪先立ちに首を伸ばしていたら誰だってそう思うだろう。
「あわわわ。ち、違います。わ、私は決してそんな……」
慌ててその場から離れるが、バヤン達が待つ正反対の方向に逃げ出していた。
女の悲鳴を聞き付けた武官達がぞくぞくと現れた。
「何奴!?待てぇ――!」
赤い官服の男性が歩いた廊下を駆けた。
「ちょっと、何でこんなことになるのよ!あれ?」
男の姿は何処にもない。
(ヤバい。何処に隠れて
朱色の円柱の間を闇雲に走っている時、出し抜けに柱から伸ばされた腕によって引き寄せられる。
突然のことに、キャッと悲鳴を上げた為、手で口を塞がれた。
手の主は先程の赤い服の男。
「あ、あの」
「静かにしなさい……」
男の声は、優しく穏やかで心地良かった。
「怪しい
武官達がこちらに走って来た。
扇がシュエホアの鼻先でパッと開く、すると白檀の香りが辺りに漂う――
男は、武官達の目からシュエホアを隠す為、目立つようにして前に出た。
シュエホアは目をつぶって男の背中にしがみつく様にじっと動かなかった。
男は、何食わぬ顔をしてひらひらと優雅に扇を仰ぎながら
はあ良かった、とシュエホアは胸を撫で下ろした。
「……
ちらと上目遣いに見上げると、その人はトクトアに似ているが別人であることが分かった。
年齢も三十代後半くらいだろうか。
顔のサイドの髪だけを頭上で結い上げ、それを
これは漢人の髪型だ。
刺繍の柄を除けば騎馬民族特有の装束だ。
しかし、目の前の男は、騎馬民族らしい荒々しいイメージとは程遠く洗練された雰囲気を身に
後ろの景色とぴったり合う、その美しい佇まいにシュエホアの目は釘付けにされた。
(す、素敵…… トクトア様が良い具合に歳を取った感じ)
ろくに受け答えも出来ずモジモジしていた。
「フフフ、君はまるで女の子みたいだね。幼い顔立ちに
不意に、男は身を屈めた。
顔が間近に迫り、気恥ずかしくなった。
「あ、あの、覗きだなんて…… それは誤解です。私はバヤン将軍の配下の者です。別にお尻なんて見たい訳では……」
男の眉が少し動いた。
「アスト親衛軍か……」
「はい。あ、あの……」
男はシュエホアの髭を少し引っ張り、頬を優しく指先でつついた。
「この髭を知っているよ。
じゃあ、と男は言うと優雅に扇をひらひら仰ぎながら行ってしまった。
「ありがとうございました!」
シュエホアは男の後ろ姿に向かって礼を言うと、向こうは返事の代わりに手を上げ、廊下の突き当たりの角を曲がって行ってしまった。
(素敵な優しい人…… 名前聞いてなかったな…… きっとまた、出会えるといいな)
このしつこいくらいの粘着力のある、 " 素敵なオジサンお髭 "の取り方が分かってホッとした。
しかし、この後、波乱の訓練の幕開けとなる。
シュエホアは、軍事訓練兼兵士養成所に集まった兵士志願者達を見て、にわかに不安になった。
「み、皆さん、痩せてる……」
(元ホームレスの方達が集まったってこと!?)
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