第58話 大都宮殿へ 。そこで雪花が見たのは?


 今日は雪花シュエホアの初勤務。

 バヤンが操る愛馬ゲレルの前鞍に乗せてもらって出勤だ。

 あの " 素敵なオジサンお髭 "も装着済みだ。

 

「ちー坊、お前…… それずっと付けてるけど大丈夫か?」

 

「え、ええ…… 大丈夫です!私、前から男装に憧れてて。ずっと髭を付けてみたかったんです!」

 

 な~んて言ってるけど、本当は心の中で泣いていた。

 実は、あれから何度も髭を取ろうと試みたが接着剤が強いのか、引っ張っても髭は皮膚にぴったりくっ付いていてなかなか取れなかった。

 その最悪な粘着力は、モノ作りにおいては世界的に定評のある日本が誇る、瞬間接着剤ア○ンアルファをも凌ぐ程。

 変に負けん気が強いシュエホアは、わざと付けていると誤魔化しているが、自分でも負け惜しみを言っているみたいで情けなかった。

 

(これじゃスカートが履けない。素直になれない方がもっと情けないかも。ここは恥ずかしいけど、背に腹はかえられない。帰ったら侍女監督のナルスさんに相談しよう)

 

 髭面ひげづらの乙女のスカート姿。

 シュエホアは、トクトアがいないことを初めて喜んだ。

 如何に物静かな彼でもこれを一目見たら、流石にゲラゲラと笑い転げるだろうことは容易に想像出来た。

 そんなシュエホアの心情が分かるのか、ゲレルはまるで彼女を慰めるかの様に、顔を近付けてスリスリした。ゲレルは青毛といわれる黒い馬でとても賢く、美しい黒目とフサフサのたてがみが特徴の大きな馬だ。

 背が高いバヤンにこれ程ふさわしい馬が他にあろうかと思う。

 シュエホアはゲレルの首を撫でてやった。

 ブルルルル……

 ゲレルは嬉しそうに鼻を鳴らした。

 

(うう……あんただけよ。私の気持ちを理解してるのは)

 

 生き物との触れ合いで気持ちも晴れた。

 

「バヤン将軍の雑仕ぞうしですから頑張りますね!」

 

(よし!気分を入れ替えるぞ!気合い充分!さあ、何でもござれだわ!)

 

「今からそんなに気合いを入れてると疲れるぞ。午前中は大都皇城群だいとこうじょうぐんを見学だ。午後から訓練に参加してもらおう」


 まずはオリエンテーションか。

 でも宮殿を見ることが出来るなんてとても楽しみだ。

 馬は皇城の東側の城壁に向かって進んだ。皇城東側の城壁は通恵河つうけいが(運河)に接しているので、荷物を積載した河船が絶えず往き来しているのが見えた。

 高い城壁に驚きつつ、柳並木と運河の組み合わせに見とれていると、唐突にバヤンに話し掛けられ、はっと我に返った。

 

「知ってるか?今歩いてる道路は、もともと険阻な小道だったんだ。それがある事件が起こったせいで歩きやすい道路に変わったんだ。趙子昂ちょうすごうって知ってるか?」

 

「え~と趙子昂…… あんまり詳しくはないんですけど。確か、書画と詩に優れた文化人で宋の皇族の末流とか。奥さんも高名な画家みたいですね。その趙子昂が何か?」

 

「それが傑作だぞ!趙子昂ちょうすごうは馬に乗っててな、その馬が蹴躓けつまづいたせいで、自分だけ、この河に転がり落ちたんだとよ!で、この事件が起こったんで世祖フビライ・ハーンの命でこの道路が作られたという訳だ。わざわざ城壁までも、西側に二丈(6m)ばかり移築したんだぞ!」

 

「うわ~それは大変な工事でしたね。つまり今、私達がこうして安全に歩けるのも、趙子昂が河に落ちてくれたお陰なんですね」

 

(わざわざ趙子昂の為だけに?そんな大物だったなんて。うーん、皇帝ともなると一流の文化人を側に置くのもステータス?の一部なのかしらね)

 

 シュエホアは、現代ではほとんど知られていない秘話みたいな話を聞けて、ちょっと得意な気分になった。

 馬は舎人とねりに預け、馬止めに繋いでもらうことにした。

 大都皇城の門。今日は、南側(南壁)から入った。

 全貌は見えないが、城壁の四隅にはいずれも三層の角楼が置かれている。

 緊張の面持ちで顔を上げる。

 

(いつも遠くから指を咥えて見るくらいしか出来なかったけど、遂に宮殿を見れるんだわ!)


 期待に胸が高鳴った。

 自分は現代人代表として、失われた大都皇城(大内裏)と宮城内部を見ることが出来るのだ。

 皇帝の居所たる宮城(内裏)と、皇后と妃や皇太子の住まう諸宮殿、および皇族達の園遊の場所である御苑を含む広大な敷地。

 皇城の紅門欄馬墻こうもんらんばしょう(紅門)と呼ばれる城壁に隔てられた内外は、この世と天上程異なった二つの世界だという。

 シュエホアはバヤンの後ろに付いて、ほの暗くひんやりとした城門をくぐった。

 

「ああっ!」

 

 思わず目をつぶってしまう。

 欄馬墻らんばしょうの赤色が陽に映って眩しい。

 しかし欄馬墻に負けないくらい高い木が密に植えられ、鮮やかな緑色が、目が受けた刺激をいくらか和らげてくれた。

 色彩学で言えば『心理補色』という。

 赤の反対色が青緑。

 昔の人は、そのことを経験から学んだに違いない。

 

 バヤンは笑いながら言った。


「驚いたろ!?外側は雨晒し日晒しで色褪せてるが、内側は鮮やかなんだ。今日は天気が良いから余計に赤く眩しく感じる。私など気分が高揚するんだけどな。さあ行こう!」

 

 皇城南側の城壁の真ん中にある門は霊星門れいせいもんと言って、位置はだいたい現代の故宮こきゅう午門ごもん付近にあたる。

 

「この霊星門から真っ直ぐ南下するとな、大都の城壁の南側の門の一つ、麗正門れいせいもんがあるんだ。途中に広い空間があってな、そのど真ん中に七〇〇歩(約1.1㎞)くらいかな?千歩廊せんぽろうって名付けられた道があるんだが、残念ながら皇帝しか通れない。御幸ごこうの折りに付き従う随身ずいじんになれば通れるがな。この先を北上する。真ん中の御門は皇帝専用。その両側の西と東にある門が、臣下が使うと覚えとばいい。ここまでは大丈夫か?」

 

 早速オリエンテーションが始まっていたらしい。

 メモだ。シュエホアは返事の後、慌てて懐から筆記具を取り出し、紙にさらさらと黒炭をすべらした。

 

 (なるほど、君子と臣下は別々の門を使うのね……)

 

 二人は、皇城内を流れる金水河きんすいがに掛けられた三座の右側の橋に沿って、真っ直ぐ北上した。

 この金水河も現代で見ることが出来る。

 この橋は、漢白石かんぱくせきといって大理石よりはややきめの荒い純白の高級な石で造られており、周橋しゅうきょうと呼ばれ、龍鳳祥雲りゅうほうしょううんが彫刻されていた。

 この橋の設計と宮殿の彫刻は、楊瓊ようけいという名の、優れた石大工の技の結晶だ。

 周橋の周囲は楊柳が沢山植えられて鬱蒼としている。

 さて、周橋を過ぎること3~4分くらいで崇天門すうてんもん(午門)に着く。

 門の高さはマンションなら八階くらいだろうか?横幅は競技用ロングプールより少し長い。

 この門の上には門楼という、屋根の付いた高楼たかどのがある。

 両側は突き出て凹字を逆にした型、この左右に出っぱっている所はかんと呼ばれ、この上に角楼があった。門の扉は五つ。

 その姿は現代の故宮の午門に似ていた。

 これまで、いったいいくつの門をくぐり抜けてきただろうか。


 (迷子になりそう……)

 

「あの、まだ内裏だいりに着かないんですか?」

 

「ああ、目の前の門をくぐれば直ぐだ。さ、自分の目で確かめてごらん!」

 

 門の額に〈月華門〉と書かれている。

 この門の向こうに内裏がある。

 ドキドキが止まらない……

 そう、門の向こうは別世界が広がっている筈だった。

 

――ドドドド!!!


「え?じ、地響きがきこえるわ……」


 それはほんの一瞬の出来事だった。

二人の目の前を、未確認の何かが、慌ただしく右から左へと横切って行くのが見えた。

 

「……な、なんだ!?」

 

「わ、わかりません。竜巻みたいでしたね……」

 

 その約数秒後か。

今度は、キャ~と黄色い叫び声をあげた、目をハートマークにした女官の軍団が、たった今二人の前を右から左へ横切って行ったのである。

 二人は気持ちを落ち着かせる為、一旦は門の内に戻った。

 突然の予期せぬ出来事に、出鼻を挫かれる格好になったが、気を取り直して再び門から出た。


 ドキドキ……嗚呼!

 

 目の前には、黄釉瑠璃瓦こうゆうるりかわらが光り輝く壮麗な宮殿群が。

 遠くにうっすらと霞の中から浮かんで見えるのは後宮だろう。

 一瞬、紫禁城しきんじょうかと思ってしまった。

 それ程よく似ていた。

 

「でも瓦の輝きが違う。黄金みたいで美しい…… なんて壮麗なんでしょう」

 

 予想以上のシュエホアのリアクションに、満足したバヤンが答えた。

 

「凄いだろ?主殿、大明殿だ」


 現代の故宮の主殿、太和殿と大体同じくらいかそれ以上。

  屋根の大棟おおむねの両端には龍の子を模した金色に輝く鴟吻しふん。朱塗りの円柱、色鮮やかな彩雲と瑞獣が描かれたはり斗拱ときょう(梁を支える)が美しい。宮殿の台基は三層。

 龍と鳳凰を彫った漢白石かんぱくせき欄干らんかんを張り巡らせ、欄干のそれぞれの柱の下には大きな亀が首を伸ばした彫刻が置かれていた。

 世界一の富を集めたと言われるフビライ・ハーンは、ここを世界の中心に据え、自分の理想の宮殿を作った。

 

「ふふ。ここを攻め込んだ奴は、さだめし夢でうなされるだろうな!」

 

「……どうしてそう思うんですか?」

 

 バヤンの先を見通せる直感というか勘の鋭さに驚いた。 勿論、彼流の冗談かも知れないが、将来本当にそうなるからだ。

 

「勝利の美酒に酔っててもすぐ醒める。それはな、自分の中から世祖フビライ・ハーンの幻を追い出せないからさ。例えば、憎しみに囚われ全~部宮殿を破壊したとしよう。だがまた再現しないと気が済まない。でなけりゃ、自分は負けちまうのさ。 この偉大な帝王にな」

 

 遥かな時を超え、故宮を想う。

 世界で一番大きな木造建築の宮殿。

 どうしてあんなに巨大な宮殿を建設しなければならなかったのだろうか?

 ここに来て、やっとその謎が解けた。

 それは結局、洪武帝こうぶてい永楽帝えいらくていも、元朝の痕跡を完全に拭いきれなかったという証拠。

 初めて見る荘厳華美な宮殿を前にし、素晴らしいと思う気持ちまで消せなかったに違いない。

 きっと生涯世祖を意識し、その幻影に悩まされ続けた筈だ。


 (明の皇帝二人がどんなにあがいても超えられない存在。世祖に激しい嫉妬心を抱いた。それが理由……)

 

「女もそうですけど、男の人の方が数段見栄っ張りなんですね。そんなつまらないことにこだわるなんて。なんか馬鹿みたい……」

 

  これは随時と厳しい、とバヤンは笑い出す。


 ――ほう。男の浪漫ろまんを解さぬとはな……


 不意に何処からか声が聞こえ、優しく福々しい顔の好好爺こうこうやが柱の影からシュエホアに笑い掛けた。

  宮殿に居るくらいだから公職に就いている人だろうと思ったが、官服ではなく真っ白いデールを着ている。

 こっちが一礼したら向こうは何故かピースサイン。


「ええ!?」

 

 目を擦ってパチパチ瞬かせた。

 

(あれ?いない。今のは何だったのかな?)

 

 不思議な白い好好爺こうこうやの姿は消えていた。

 バヤンはシュエホアの視線を追うかの様に後ろを振り返った。

 

「ちー坊、どうしたんだ?」


「……あ、あの…その、世祖フビライ・ハーンはどんな生活をしてたかな?と。こんな素敵な宮殿で暮らすなんて楽しいかな~って」

 

 それを聞いたバヤンは躊躇ためらいがちに答えた。

 

「夢を壊すようだが…… 世祖フビライ・ハーンはな、庭に建てられた大天幕オルドで暮らすのを好んだんだ。意外だろ?仕事の時だけ宮殿を使ってたんだ」

 

「ええ!?貧乏性?広い場所とか怖い、とかですか?あっ!?」

 

不意に背後より何者かに頭を軽く突かれた感じがして後ろを振り返った。

 しかし――誰もいなかった。


「はれ?」


「うん?どうした?」


「い、いえ、気のせいみたいです」


 首を傾げていると、何処から聞こえてくるのやら、なんとも知れない珍妙なしわがれ声がする。


 カァカァカァ……ガァガァ……

 ガァガァ……カァカァカァ……


 てっきりカラスかと思っていたら、淡い桃色の羽が特徴の朱鷺トキの群が見えた。

青空に朱鷺が羽ばたき、金色の宮殿の上を飛んで行く―― まさに絶景。


「きゃー!素敵過ぎるぅぅぅ!」

 

 ――とそこへ、またさっきの地響きが聞こえてきた。

 

 ――ドドドド!!!


 今度は見逃すまいと、目を凝らし通り過ぎる瞬間に見たのは、白と青が基調の揃いのデールを着た見目麗しい貴公子達。

 その後はさっき見た通り。

 目をハートマークにした女官軍団がキャーキャー叫びながら後を追いかけている図だ。

 バヤンは半ば呆れ気味に言った。

 

「まただ!花のって形容が付く、名物ボンボン怯薛ケシク四人組だ!全く、あいつら何やってるんだか……ブツブツ……」

 

「さっきの貴公子達が怯薛!?皇帝の親衛隊!?」

 

 真後ろで、誰かのため息がした様な気がしたので振り返ってみたが、当然誰もいなかった。

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