第50話 女官長の恋



帖木児不花テムル・ブカはにっこり笑うと、まずは母后に挨拶をした。


「お久しゅう、母后様。いや~母后様は相変わらずお美しい!古今東西数ある美姫達も、あなた様を見た途端、顔色をなくすでしょうな!皇太子殿下も亡きお父上に似て来られて…… ワシは嬉しゅうなりました」


テムル・ブカは、皇太子が丞相率いる筋肉ムキムキ男達に抱っこされて喜んでいる姿を見て目を細めた。


「ウフフ、嬉しいことを。テムル・ブカ様は本当にお世辞がお上手でいらっしゃる!あなた様が皇太子殿下をお支え下されば、殿下と上都の未来は安泰となりましょう。どうか、宜しくお願い致します。今宵はゆるりと楽しんで下されませ。皆様がお泊まりなるお部屋もご用意致しておりますゆえ、お気を遣われませんように!」


「おお!では遠慮なくそうさせてもらいましょうかな。いやー、今宵は安心して沢山の美酒が飲めまするな。ご案じ召さるな、皇太子殿下は、良き大ハーンとなられましょう!」


テムル・ブカは人の良い笑顔を母后に向けた後、今度はトクトアの方に向き直って親しげに声を掛けた。


「トクトア、再会を祝して一緒に飲もうではないか!久しぶりに会うたのじゃ。三年ぶりかの!その前は…… まだやや児じゃったな?お湿しめを替えた記憶はあるが…… いろいろと積もる話もあろう。のう?」


テムル・ブカは、西域から取り寄せた琥珀色の酒をトクトアの杯に並々と注いだ。


「……テムル・ブカ様には敵いませぬな。そのせつは大変お世話になりました」


有力諸侯であり、記憶にないが自分のお湿しめを替えてくれていたらしいテムル・ブカの酒を断る訳にもいかず、トクトアはぐいっと杯をあおった。

 思ったよりも強い酒だったので、内心驚いたが、今まで飲んできたどの酒よりも美味かった。


「ほう!かなりの飲んべえと見た。

お主は蟒蛇うわばみかの?フフフフ」


テムル・ブカは楽しくて堪らないと言った顔をしていた。

 テムル・ブカはバヤンと年齢も近いはずなのだが、やや年寄り臭い言葉遣いをするので、「自分はじじいと勘違いされて困る」と言って、いつも場を和ませていた。

 性格はおおらかでいて、家臣達の人望も篤く、人格者で知られていた。

 背も高く、がっしりとした体躯。髪は白髪が少し混じっているものの艶やか。

多くのモンゴルの男性の様に辮髪べんぱつ婆焦ばしょうという髪を編み、輪を作ってお下げ髪にする髪型にはせず、青と白の色糸で緩くまとめているだけだった。

トクトアはテムル・ブカの衣装に目を見張った。

諸侯達は印金という金箔を用いて金泥にした塗料で、布表面を装飾した絹織物で作った豪華な肩掛けをしていたが、彼は納石矢なししという金糸を織り込んで模様を出す織金しょくきんの長衣を着ていた。

  元代の統治者が皆、このような贅沢な織物を好んで着ているのは、ひとつは紡績技術が格段に進歩していたのもあるが、略奪で蓄えた金と貿易で得た多くの富のお陰かも知れない。

 よくある、急に成金になった人と同じような「派手だけど私達はこれに見合う財力があるからあるだけの高級品を身に付けなくちゃ!」みたいな感じの、良いか悪いかの区別も分かってない様な美的感覚と同じなのかも知れない。

しかし、テムル・ブカの長衣は品の良い露草色の織金に、輪の中に狼と牝鹿が向かい合わせの柄が刺繍されていた。


「……素晴らしいですね」


「ワシではなく、衣装のことを言っとるのじゃろう?フフフフ」


「いえ、決してそのようなことは……」


「冗談じゃよ!ところでのう、お主は何故、上都に来たのじゃ?バヤンと喧嘩して家出したのか?女漁りならワシも混ぜて貰いたいが……ひょっとして、玉璽ぎょくじを盗みに来たのではあるまいな?」


 テムル・ブカは最後の辺りは小声で話した。

 目の前はいつの間にか舞姫と筋肉ムキムキ男達が共演していた。

 トクトアとテムル・ブカは顔を正面に向けたまま、声を潜めて話した。

 

「……私は皇太子殿下にお会いしたかったのです。殿下は私の主君です」


「主君か…… 青いのう。ワシから見ればお主はただの…… いや、ここでは話しづらいのう。 その話はまた、折りを見てゆっくりと話そうではないか。ここだけの話じゃ、ワシはただの無職のオッサンになってしもうてな……」


「何ですって!?いったいどうされたのですか?」


「所領を甥に譲ったのじゃよ。今は就職活動真っ最中って訳なんじゃ。こんな、ええおベベを着とるがな、他の諸侯の手前じゃ。見栄を張っとるんじゃよ。周りには、羨ましい!ご隠居様じゃーなんて言われとるがの、財布の中身はスッカラカンじゃ。いつまでも甥の脛を噛っとったんではいかんしのう。あーなんぞ楽をして金儲けが出来る方法はないかのう」


テムル・ブカは、いったいどの辺までが本当か嘘か分からないような話をすると、立派な身体を震わせて笑った。トクトアも釣られて笑った。


「テムル・ブカおじさん。一緒に踊ろうよ!」


皇太子は無邪気な声で呼び掛けた。


「はいはい!行きますぞ!!」


テムル・ブカはわざとらしく大きな声を張り上げ、手を大きく振ったので、周りはどっと笑った。トクトアはそんなテムル・ブカが好きだ。


「よし、出陣じゃ。では、また後での!」


「はい、ご武運を」


テムル・ブカはうむ、と頷き、 裾をからげたひょうきんな姿で舞台まで走って行った。


「皇太子殿下!今宵は、世祖フビライ・ハーン様、直伝の踊りを披露しましょうぞ!」



 *∽*∽*∽*∽*∽*∽*∽*


「最近のスレンって以前より若返った感じがするわ!服装やお化粧も少しずつ変わってきたし!」


母后は、スレンが以前よりも明るくなっことを我が事のように喜び、ウキウキした気分で女官達に身支度を手伝わせていた。 彼女は未亡人だが、まだ二十代と若く、おまけにしっとりとした大人の美しさを漂わせていた。 親子だから当たり前なのだが、皇太子はこの母后の美貌を受け継いでいた。


「ありがとう。後は女官長に任せますゆえ、其方達はもうお下がりなさい」


「はい、では失礼致します。母后様」


女官達はそれぞれ担当している物、化粧道具やら、水差し、洗面器などを持って部屋を出て行った。


「ねえ、スレン。恋に年齢なんて関係ないわ。今のうちに若い養分をいっぱい吸収しておきなさい。ね!」


「母后様、お戯れを…… 私とトクトア様は、その様な間柄ではございません。あの方はお若いながら、書画や器楽にも造詣が深いので、互いを高め合う為に親交を深めているだけにございます。男女の愛などを語るには歳も離れ過ぎております。あたくしの歳ではもう……」


「まあ、スレン!そんなことはないわ!恋に年齢なんて関係ないと思うわ!ねぇ、実際はトクトアのことをどう思ってるの?」


「息子……あたくしは子を生んだ経験はございませんが、そう、息子ですわ!そのように…ええ!!」

 

「スレンって、ごまかすのも嘘も下手ね……いいこと?これは運命よ、運命!あのこは女を見る目はあるわ。そこは声を大にして言わせてもらうわね!!これはあたしの勘というか、女の勘よ!あのこはトクトアは、間違いなくあなたのことが好きよ!あのこの初恋の相手は、なんと、亡き伯母上だったそうよ。つまり、あのこは年上が好みなのよ!」


「まあ、そんな……」


「頑張れ!!スレン!花の命は短いのよ!」



 


スレンはぼんやりと宮殿の回廊を歩きながら、母后の言葉を思い出していた。年上が好みというが、それは自分の中に、亡き伯母上の面影を見出だしているだけだと、彼女は冷静に分析していた。


(相手は親子くらい年が離れている。多分明日になれば、また、違う女官に言い寄るに違いない。これは若者特有の気まぐれというもの。もし、この歳で若い男に夢中になって、飽きられて捨てられるようなことになったら…… そんなことになったら…… もう、恥ずかしくて生きていけなくなるわ!)


そう自分の心に芽生え始めた恋心を無理やり打ち消そうとしたが、厄介なことに、いったん心の奥底に灯ってしまった恋の火はそう簡単に消すことは出来なかった。


「おお!貴公は凄いな!!」


いつの間にか、広い御苑が見渡せる場所に来ていた。

 ここは天幕ゲルを設営したり、ナーダム(娯楽、遊びを意味する)をする為の場所で、今はトクトアをはじめ若い貴公子達が打毬だきゅう(ポロに似たスポーツ)に興じていた。

 スレンは、トクトアが若者らしい哄笑をあげながら、馬と毬杖きゅうじょうを自在に操り、見事な手並みでまりを相手の陣地に入れる姿を食い入るように見つめていた。

 美しい栗色の豊かな髪は、陽光に透けて軽やかに風になびいている。

小顔に似合う目は美しいアーモンド型。明るい榛色はしばみいろの瞳には優しい光が宿り、良く整った鼻筋と弓の形の唇から覗く歯は真珠の如く白く輝いていた。

当時のモンゴル族は突厥とっけつ(トルコ系遊牧民)の血も入っているので、彼の様な栗色の髪を持つ人は特に珍しくない。

チンギス・ハーンの父イェスゲイ・バートルは、紅毛碧眼であったと伝えられるが……



(比類のない美しさ……)


スレンはこの世に、こんなにも完璧な美というものが存在するのかと驚いていた。

 トクトアから目を反らそうとしたが、向こうが気付き、輝くような笑顔をスレンに向け、手を振っている。

 その姿がスレンの目には眩しく映り、愛しいと思う気持ちになり、知らず知らずの内に涙がこぼれ落ちた。

 トクトアが貴公子達から離れて、馬に乗ったままこちらにやって来ようとしていたので、スレンは慌ててその場を立ち去ろうとしたが、涙が目をふさいでしまって、前がよく見えていなかった為か、横にふらついた。

スレンは恥ずかしさに顔から火が出そうになった。


(おばあさんに見えていなかったかしら!?)


実は、そう思われることの方が心配だった。


「女官長。何も私の顔を見てから逃げなくても……そんなに嫌われてるとは思ってませんがね」


トクトアはいつの間にか側に来ていた。


「べ、別に逃げたりなんかしていません。ちょっと面白そうだったので見てただけです……」


「そうですか。じゃあ、今から馬で散歩しましょう!さあ、いらっしゃい」


トクトアはスレンの腕を強引に引っ張りながら馬まで歩いたが、スレンは尻込みした。


「ちょ、ちょっと手を離してください!私は馬なんて!!」


トクトアは先に馬に乗ると右腕をスレンへ伸ばした。


「さあ、大丈夫ですから!こちらへいらっしゃい。あなたはモンゴルの女性でしょう?まさか、馬に乗れないなんてことはないでしょうね!?」


これにはカチンときたらしい。


「まさか!あたくしはモンゴル族の女ですよ!狩に出る……キャ!!」


出し抜けに、トクトアの力強い腕にすくい上げられ、あっという間にスレンは前鞍に乗せられた。

 馬はそのまま城門へ向けて疾走した。


「あ、あの!降ろして下さい!」


トクトアはスレンの耳元で囁いた。


「このような所で降りてどうされる?もう、このまま最後まで乗っていなさい。その方が良い。ひょっとして、お子様の私が怖いのですか?」


「まあ、あなた様は…… まだ念に持っておられたとは!」


「フフフ。まさか!冗談ですよ。さあ、何処へ行きましょう?このまま大都まで行きますか!?」


「……行きません。もう帰して下さい!私はまだ仕事があるのですから!」


「やれやれ、私の熱い想いはあなたには届かないらしい。嗚呼、私を心から愛してくれる女性はこの世にはいないのでしょうか……」


「何を馬鹿なことをおっしゃるのでしょう!!本当にいい加減帰して下さいな!」


トクトアはフフっ、と笑うとスレンが身動きが取れないことを良いことに、頬に口付けをした。


「な、何をなさるのですか!!」


「あなたが綺麗だから」


スレンは全身がひどく疼く様な感覚を覚えた。身体の奥底から沸き上がる、何か得体の知れないものに、支配された気がした。


(悪魔だわ。この人は……)


馬は何処までも走り続けたが、スレンは半ば放心したように草原を見つめていた。二人は小高い丘に来た。


「ここから眺める夕陽が美しいのです。私は勝手に、"夕陽が見える丘"って名前を付けて呼んでますがね」

 

「まあ、そのまんまの名前ですのね。でも素敵ですわ」

   

「フッ、無理なさらないで下さい……」

 

トクトアは先に馬から降りると、スレンが降りれるように助けた。


「……ありがとうございます」

 

「いえ、どう致しまして」

 

トクトアは矢筒から紙と筆と墨汁入りの竹筒を取り出した。

 

「まあ。筆箱代わりにしているのですね!ひょっとして絵でもお描きになりますの?」

 

トクトアは慣れた手付きでスラスラと筆を走らせた。

 

「ええ。ここの風景が素晴らしいので。残念ながら彩色は帰ってからですね。しっかりと目に焼き付けておかねばなりませんが……」

 

スレンは横からこっそりトクトアの描く絵を覗き込んで驚いた。大雑把に絵筆を走らせていると思いきや、まるで目の前の風景をそっくりそのまま模写するかの如く描いていた。別の意味で変人級だ。

 

「……正確にして速い描写!あなたは素晴らしい才をお持ちですね……」


「……そうですかね?私はいつもはこんな風に描かないんですが。さあ出来た……」

 

トクトアはスレンに出来た絵を手渡すと、新しい紙にまた何かを描いていた。

 

(……す、凄い。上手過ぎる)

 

トクトアは、スレンをちらちら見つつも、器用に筆を滑らせていた。

 

「あなたは美しいだけではなく、大変教養の高い方だ。私の書画を理解なさるし話も合う。女官達を指導する時の、厳しい中にも優しさが感じられます。残念なことに、その優しさをもう少しだけでいい。私にも下さると良いのですが…… さて、もうこの辺でやめようかな……」

 

 トクトアは片付けを始めた。

 

「あなたにだけ厳しいってことですか!? そ、そんなことはないと思うんですけど……」 

 

スレンは顔を赤くしてモジモジしていた。誉められたことが嬉しかったのか?なじられる様なことを言われて恥ずかしかったのか?は分からない。 何となく視線が動き、先程の画紙がちらりと見えて、そこに描かれている人物に驚いた。

 

「あの!この女性は……あたくしじゃありませんか!?でも、あたくしはこんなに美人では……」

 

「フフフ…… いや、その通りですよ!

出来上がるまで楽しみにしていて下さい。ほら、夕陽が見えますよ……」

 

 西の空は雲がかかっているが、とろけてしまいそうな大きな太陽が、ゆっくりと沈む姿が見えた。

 突然、トクトアから背後より両腕で包み込む様に抱きしめられるが、スレンは嫌とは言えなかった。


「あ、あの……」


「……私はあなたと、この丘から見える美しい夕陽が見たかったのですよ」


「本当に綺麗……」

 

(とろける様な。そう、あたしもきっと…あんな風に……)


そして、これから先はどんどん老いてゆくしかない自分に対して、神は残酷だ、と。同時に神に対して恨む気持ちが芽生えた。


(この方の青春はこれからなのに……

あたしは…… いえ、まだ終わりじゃないわ!)


スレンは沈み行く太陽を見ながら、トクトアの手に自分の手を重ねた。

 

 

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