第49話 夢の女人
「ここは大都ではないか……」
トクトアは庭の池に映る自分の身なりを見て驚いた。
真っ黒い戦袍を着て、赤に塗られた柄の槍を手に持って立っていた。
(な、私はこんな
東屋を囲む、雪白色の
顔ははっきりと見えないが、その容姿は天使の如く清らか。
赤みがかった深い栗色の髪が、波打つ様に肩から胸の辺りまで伸びていた。
(あの人こそ、私の恋人だ!)
トクトアの胸に愛しいと思う気持ちが込み上げてきた。
「ただいま…… 愛している!」
「
女人は両腕を差し伸べていた。
トクトアは持っていた槍を手から落とすとすぐさま駆け寄り、
しかし、おりから吹く風が邪魔をするせいでなかなか帳に触れることが出来なかった。
(腕を伸ばしたのに掴めん。なんともどかしいことか!)
そして、一瞬だけだが女人の紅く濡れた唇が見えた。
少しだけめくれ上がった唇が、まだあどけない少女の様で愛らしい。
女人の白い頬を一筋の涙が伝う。
耐えきれなくなったのか、僅かに開けられた紅く艶やかな唇から、忍び泣く声が聞こえてきた。
(愛しい人よ、もう二度と離しはしない。私達は比翼の鳥、連理の枝となろう……)
そして、やっと互いの手が触れ合えたと思ったら惜しくもそこで目が覚めてしまった。
(いつ頃からあの夢を見るようになったのだろう…… しかし少しずつだが、あの女人が近付いていることは確かだ。今夜は手に触れることが出来た……)
夢の中の女人を思い出すと、いつも胸が締め付けられそうな程に苦しくなる。
きっと前世で結ばれなかった人に違いない、そう思った。
「う……ん……」
傍らに眠る女性がゆっくりとこちら側に寝返りを打った。
色目人の女官で、いつもこちらに意味ありげな視線を送ってきているから、もしやと思いこちらから誘ったらあっさり落ちた。
(この女人でもなかった……)
時々、愛が伴わないこの行為を平気で出来る自分に嫌気がさす時があったが、この虚しい狩りがやめられなかった。
だから、ひとときの快楽が終われば後悔からか、これは本能で〈永遠の半身〉を探しているのだ、と自分に言い聞かせている。
不意に、スレンの厳しい言葉を思い出した。
(フッ、お子様とは。正直あれは堪えたな……)
宮廷女官長スレン。
この女官長を口説き落とすのは至難と思われた。
「まあ、あたくしのような大年増などにお心を乱されるとは。女冥利に尽きるって、このことを言うのかしら!?まさに光栄の至りですわ…… でも、あいにくですけど、お子様は趣味ではありませんの!」
「お子様とは……」
トクトアはこの思いがけない言葉に目を丸くした。
「ここにあなた様が来て僅か数日のことです。既に、数名の女官が被害に遭って泣いております。これは女官長として見過ごせません。あなた様のその残忍な…… いいえ、邪恋に、無惨にも破れた娘達の恨みを、あたくしが代わりに晴らしますわ」
こちらを見下す気位の高さと、若い女性にはない
(なんと美しい人なのだろう…… 着飾れば若い女官にも負けぬ艶やかさを持っているのに。もったいないではないか)
地味でいることで、目立たなくするという作戦かも知れない、とトクトアは勝手に判断をしていた。
「ほう。因みにどの様に?まさか、私に触れないまま、成敗なさるのではないでしょうね?果たしてそのようなことが出来ましょうか!?」
「なんという自惚れ屋さんかしら?
呆れてモノも言えませんわ。今にごらんなさい。あなたのその美しい鼻をへし折って、ちぎって豚の餌にしてやりましょう!」
「おおこれは勇ましい……では楽しみにしておりますよ。期待して。今夜から部屋の戸をあなたの為に開けておきましょう。お待ち致しております」
トクトアは悪びれる様子もなく、ぬけぬけとそう言い放った。
それに対して女官長は柳眉をきりりとつり上げて答えた。
「あなた様は何か勘違いをなさっておいでのようですね。まあ、せっかく開けて下さっているのですから。行かない訳には参りませんね。翌朝、目覚めたら一面お花畑をご覧になれますわ」
「フフフフ。その花畑の番人をしている天女があなたなら、私は喜んでご奉仕致しますとも。共に花園で遊びましょう。私は私のやり方で、あなたがどれ程素晴らしい方か教えて差し上げましょう」
女官長は怒りの余り身体を震わせていた。
「……結構ですわ!自分のことは自分が一番よく知っておりますから!」
ああ言えばこう言う。
女官長は終わりのない問答に、もうこれ以上は付き合いきれないと考え、あたくしは忙しいのです、とわざと疲労感をあらわにし、憤然とその場を立ち去った。
流石は鉄壁の守りを誇るといわれるだけあって、なかなか心に付け入る隙を与えない。
そこがトクトアを一層燃え上がらせた
(さて、どうするかな。……楽しみだ)
トクトアは、静かに寝息を立てて眠る女官を後ろから抱き締め、そのまま横向きに寝入った。
(我が想う人ではなかった其の方とは、今宵限りだからな……)
ドン・ファン、トクトア。
そんな彼にバチが当たる日が来るのはそう遠くない?
*∽*∽*∽*∽*∽*∽*∽*
「ねえねえ、トクトア。スケコマシって、どういう意味?」
皇太子は卓子の向かい合わせに座わり、自分の勉強をみてくれているトクトアに向かって聞いた。
トクトアは一瞬、目を大きく見開いて戸惑いの表情を見せたが、またいつもの穏やかな優しい微笑を口元にたたえて静かに答えた。
少なくとも皇太子の前では徹底的に自分の本性を隠すことにしていた。
「……私も大変興味がございます。いったいどういう意味でしょうね? 殿下はいつどの様にして、それをお知りになりましたか?」
「丞相が武官達に話しているのを聞いたのだ。いったい何の意味であろう?」
皇太子は澄んだ目をこちらに向けて可愛く首を傾げている。
(……クソジジイ。殿下に下品な言葉を口にさせるなど、万死に値するが、元を正せばこれは私の悪行ゆえの謗りだ。そろそろ本当に、女遊びとはきっぱり縁を切らねば。殿下にご迷惑がかかってはそれこそ不忠というもの)
トクトアは心の内では舌打ちをしていたが、皇太子に悟られないよう終始笑顔に徹した。
「私から丞相に聞いてみましょう。さあ殿下、もうそろそろお茶の時間です。 ひと休みなさいませ」
「わーい、お菓子を食べよう!」
皇太子は本当に可愛らしいので、そのツルツルとした頬っぺをうっかり撫でそうになった。
しかし相手は主君。
そんな不敬が出来る訳がない。
(危ない。
夜の帳が下り、草原の都の上空は満天の星空に変わっていた。季節は初夏を迎える頃に。
時おり草原から吹いて来る夜風が、芽吹いたばかりの若草の匂いを運んで来るが、この高原に位置する上都では少し肌寒く感じるほどだった。
トクトアは独り宮殿の回廊から無数の星達の無言の瞬きを眺めていた。
「トクトア、何処にいるの――!?」
鈴のような澄んだ皇太子の声が聞こえて来た。
そろそろ大広間に戻らねばならないが、何となくここから離れ難い気持ちになっていた。
丞相ダウラト・シャーが宴を開いているが、今から余興が始まるという。
その前に少し夜風に当たって気分転換をしておきたかった。
それでうろうろと回廊を散歩していたら、満天の星空が、見上げてごらん夜の星を、という感じに目前に広がっていた。
ついつい誘われて眺めてしまったのがいけなかった。
(……夜空を眺めていると、感傷的になるからな。あの夢の女人のことを思い出してしまう……)
揺れる帳の向こうで自分を待ち続ける
前まではあんな側に近付けなかった。
ひょっとしたら、案外その女人は近くにいるのではないだろうか?
突然、突拍子もない考えが浮かんできた。
(雪花!?だがあの髪の色。いや……あいつはもっと赤かった筈だ……)
そんなことがある筈がないと、直ぐにもこの考えを打ち消した。
(私は馬鹿だな。そんな想像上の女人をいつまでも想うなんて。さて……そろそろ戻るか)
トクトアは大きく伸びをして大広間に戻った。
皇太子は満面の笑顔で自分の右隣に座るよう手招きした。
左隣には母后が優しい笑みを浮かべている。
「トクトア!丞相がね、面白い余興をしてくれるんだって!一緒に見ようよ!」
「しかし、私は……」
「トクトア、遠慮しなくていいのよ。丞相は今から貴賓の接待をしなけれならないから忙しいのですって。だからここでいいじゃない!女官達はね、あなたの弾く琵琶が聴きたいそうよ!実は私もとても楽しみにしているの!後で弾いてね!」
「……畏まりました」
トクトアはスレンの姿を探した。
こちらをお子様呼ばわりした女官長は休むことなく、女官達にあれこれと指示している。
相変わらず堅苦しい装いに、唇に紅を差しているのか差していないのか分からないくらい化粧気がなかったが、トクトアから見た彼女は、それでも生き生きとしてとても輝いて見えた。
自分の仕事に真摯に打ち込む女性は尊敬されていた。
若くて美しい女官達はトクトアの目に留まるように、わざとらしく幾度も彼の側を通り過ぎて行った。
中には彼の腿に触れて大胆アピールをする女官もいるが、彼の方はそっちのけでスレンの姿ばかり目で追っていた。
(働き者だな。恋人はいるのだろうか?いたとしてもかまうものか。彼女を攻略するには、何度も何度も当たって いくしかない!)
上都の宮廷は、丞相がそうであるように、ほとんどが色目人で占められていた。
モンゴル人は、先帝から付き従う古参の者を含め少数だけだが、気にするなかれ。
圧倒的な存在感を放つ者達――
興安嶺(現在の中国東北部)の諸侯で、
チンギス・ハーンの弟テムゲ・オッチギンの孫で、オッチギン家当主、
チンギス・ハーンの弟ジョチ・カサルの子孫のカサル家当主、
なんと、びっくり。あのフビライ・ハーンの孫達も来ていた。
皇太子の従兄で、フビライ・ハーンの玄孫、
フビライ・ハーンの十一番目の庶子の
紹介されても、とても一回で覚えれそうにないややこしい名前と肩書きのメンバーであった。
因みに、○○王と付いているのは、諸王侯、あるいは地方政権の君主の王号である。
(この中に不忠の者がいる、というのか…… まさかな)
大広間後方の扉が開き、楽人達が入場した。
それぞれが自分の受け持ちの楽器、拍板(カスタネットの一種)、
その後ろから付いて現れたのが、上都のトップ、ダウラト・シャー丞相と、彼に従う筋肉隆々の武官達だ。
場内はにわかに歓声と大拍手に包まれた。
(……はあ!?)
トクトアは驚きの余り、思わず二度見してしまった。
笑いを取るつもりなのか?丞相を始め全員がパンツ一丁。
しかも、全員がブーメランの様なパンツを履いただけの格好で舞台に上がって、不思議なキメポーズを取っている。
「フッフッフ!筋肉こそ、この世で一番美しい!」
(……な、何なんだ!?)
「キャハハ!丞相、最高!!」
皇太子はキャッキャッと笑って喜び、手を叩きながら舞台に上がり、あろうことか丞相と一緒に身体をくねらすポーズを真似ていた。
丞相は年齢を感じさせない見事なまでに盛り上がった上腕二頭筋に、皇太子をぶら下げていた。
(殿下の将来が不安だ……)
彼は人知れずため息を付いた。
不意に、真横から誰かに左肩をポン、と叩かれ振り向いた。
「久しぶりじゃのうトクトア。ワシのことは覚えておるかの?」
いつの間にか鎮南王テムル・ブカが隣に来て座っていた。
彼は、雪花とトクトアの人生に深く関わる人物になるが、この時はまだ互いに知る由もなかった。
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