紅線、それは絆を求めて彷徨う

第48話 紅線


「ここは!?……」


雪花シュエホアは目を擦すりながら辺りを見渡した。


「あれ?何で!?大都に戻ってる……」


そこは紛れもなく大都のバヤンの屋敷の中華風に造られた庭だった。 太鼓橋が掛かった池の端には青柳が植えられ、それがときおり動く水面に、たおやかな乙女の恥じらいに似た姿を映し出していた。

池には大きな鯉が悠々と泳ぎ、橋を渡れば、白い蔓薔薇つるばら瀟洒しょうしゃな東屋に行くことが出来る。

シュエホアは、東屋あずまやに置かれた、黒檀こくたんの長椅子に腰掛けた。

 目の前にはハート型の銀細工の飾りが軒先で風を受けて左右に可愛く揺れている。

 ハートの中で狼と牝鹿が向かい合っている透かし彫り模様が、微笑ましくもあり、同時にこの伝説の夫婦神の深い絆を物語っているかに思われた。


自分は何故ここに居るのか?と首を傾げていると、何処からか乳香にゅうこうに似た薫りが漂ってきた。


上邪じょうやわれきみ相知あいしり……」


〈私は天に誓う。我が貴く愛する人よ〉


シュエホアは声がする方向を見た。

東屋を囲む雪白色のしゃカーテンを透し、漆黒の戦袍せんぽうに身を包んだ長身の男がこちらに向かって歩いて来るのが見えた。

 朱塗りの柄の槍を手にしているので、一瞬ドキッとしたが、きっと戦場から戻ったばかりなのだろう。


(……あなたは誰なの!? )


いつの間にか、ソファーから立って帳の方へ歩き出していたが不思議なことに、帳の手前で足が動かせなくなってしまう。


(……あ、あれ?身体が動かせない。どうして!?)


とこしえに絶えおとろうること無からめんと欲す」

 

〈この気持が、絶え衰えることなど永遠とわにないことを〉


自分でも分からない。

自然と詩が口をついて出た。


「山に陸無おかなく、江水 くるをし」

 

〈たとえ山が平らになり、大河の水が枯れて尽き

 

 (この漢詩、知ってる。 愛の詩だ……)


「冬に雷、震震しんしんとして 夏に雪降り」

 

〈冬に雷が鳴り、夏に雪が降り〉


相手も後に続いた。


「天地、ごうすとも、すなわえて君と絶えん」


 〈天と地が重なり合おうとも、決してあなたと離れはしない〉


声の主は穏やかに優しく言った。

そして……


「ただいま…… 愛している!」


シュエホアの頬を一筋の涙が伝い、流れ落ちてた。


(私はこの人を待っていた。やっと、やっと想いが叶う……)


涙は幾度も頬を伝う。胸が張り裂けそうになり、たまらず声を洩らしてしまった。


「……嗚呼ああ……お帰りなさい!」


不意に槍が転がる音が聞こえ、男がこちらに向かって駆け出したのが分かった。

 二人はお互いを求めて腕を伸ばした。

 ところが、どんなに精一杯腕を伸ばしても、風が吹く度に帳がふわりふわりと動くからなかなか掴めない。風は意思があるのか、いたずらっ子の様に二人の邪魔をしていた。

 そして、やっと互いの手が触れ合えたと思った時、そこで目が覚めた。

 いつの間にか朝が訪れていた。


「夢? ……でも」


シュエホアは夢の中の出来事と分かっていたが泣いていた。






「あの人の顔が見えなかったのが残念だったな。ハア……」


シュエホアは柄が長い木の棒の先に丁字になるよう横木を付け、その横木に布きれを巻き付けた、棒雑巾?なる物で床を水拭きしていた。

身体を動かせば昨夜の夢のことを考えずに済むと思っていたのだが。


「あ~もう、いいとこだったのに……」


また夢のことを考えていた。

ぼーっとしながらもの思いに沈んでいると、バヤンがやって来た。



「おーい。ちー坊!街に行くぞ!うん?なんで床の拭き掃除なんかやってるんだ!?」


「だって、ユファとハイランだけじゃ可哀想ですもの!」


「それは良い心掛けだ。で、あの二人はお前ひとりに任せて何処行ったんだ?」


「二人には買い出しに行ってもらってます」


「なんだと!?女主人に掃除をさせといてか?」


「いえ、私が頼んだんです。伯父様、家事って結構大変なんですよ!しかもこんなに広いし…… やってられませんよ!本当になんとかならないですか!?」


「フッ。大丈夫だ、その悩みは直に解決するぞ。ほら見ろ!」


バヤンが指差す方向を見ると、お年寄り達がぞろぞろとやって来た。


「長官様~ありがとうごぜぇますだ。年寄りは邪魔扱いされてますからな」


「んだんだ。オラ達みたいな年寄りだってまだまだ役に立ちますだ」


「家にいたら口うるさい息子の嫁がいるし」


「気がせいせいしますわい」


お年寄り達は揃って呵呵大笑かかたいしょうしていた。


「伯父様、この方達がそうなのですね」


「ああ、年寄りは大切にせねばな。知ってるか?年寄りはこき使え、って言葉があるのを。年寄りは動かした方がいつまでも元気でいられっるて意味だ」


「なるほど、一見矛盾してるって思いましたが、本当、そうだと思います。健康は常日頃の努力の賜物と言います。伯父様って偉い!」


本当に偉いのはお年寄りだろう。


「では皆の者、頼んだ!」


「とても助かります。どうかよろしくお願い致します!」


「へー、任して下され!ピカピカじゃで!」


皆、役割を与えられたのが嬉しいのか、満面の笑顔で清掃作業を始めた。

 これならユファとハイランの負担も減るだろう。


「ただいま戻りました!」


「あら!?嬉しい!皆さん、お手伝いに来て下さったんですか?」


ハイランとユファが帰って来た。



*∽*∽*∽*∽*∽*∽*∽*


「お仕事抜きで、伯父様と二人だけでお出掛けなんて初めてですね!」


「そうだっけ?まあ、たまにはいいんじゃないか」


潘楼街ばんろうがいと呼ばれる香料や絹織物や装飾品などを商っている場所で商品を見ていると、商人達がニヤニヤしながらこちらを見ていた。

 銀細工の店でも。見事な細工の杯を見ている時。


「いや~旦那様、羨ましい!そこの角を曲がって右手に薬師問屋があるんですが、高麗人参やスッポンとかありますよ!今夜も…… ウシシシ」


と、こちらを見て含み笑いをしていた。どうやらバヤンが〈パパ〉に見えるらしい。


「ったくよ、どう見たって親子に見えるだろうが!なあ?そう思わんか!?」


「はい。……いったいどうしてそんな風に見えるんですかね?」


「あいつら、頭の中でそんなことばっかり考えてるんだろな」


「ハイランとユファも連れて来たら良かったですね」


「……いやかえって逆効果だな。多分あいつらのことだ。私のことを、昼間っから若い娘を侍らして遊ぶ、ド変態ドスケベ中年オヤジと思うことだろう」


「なるほど…… じゃあ逆に、私と伯父様に金さんと銀さんの四人で歩けばいいんじゃないですか?」


「ハハハ。多分、今度はお前が淫蕩娘って言われるかもな」


「……何でそうなるんです?」


シュエホアが、むくれているのを見たバヤンは笑った。


「冗談だ冗談!ところで、ここの酒楼に行かんか?眺めが良い所だ。ただし、料理の味は薄いぞ!」





酒楼は、城門の上に造られているので、その下を沢山の通行人が往き来していた。


「な?眺めも良いし面白いだろ!?」


「ええ!こういう気負わず、庶民的な所が私は好きですね!」


「お待たせ致しました。東坡肉トンポウロウでございます」


給仕の若い女性は丁寧に一礼すると、湯気の立つ豚の角煮を卓子に置いた。東坡肉は、皮のついた豚肉を醤油、砂糖で味つけし、ナツメや八角などを入れて、とろ火でゆっくり煮つめて作る料理だ。四川出身の政治家であり、有名な詩人の蘇東坡そとうばが考えたという。


「この店の東坡肉は旨いと聞いたんだが……」


バヤンは箸を掴むと、濃い飴色のトロりとしたタレがからんだぷるんとした肉の塊をそっと小皿に取って口に運んだ。

 バヤンの目が普段の倍以上に大きく見開かれ、喉からごくっと音が聞こえた。


「おお!思ったより味付けがいいな!口の中でホロッと、とろけるぞ!ちー坊も食ってみろ!」


「私は角煮ってちょっと…… それに水餃子や他の料理を頼んでますし」


「お前って好き嫌いばっかりだな…… そんなに好き嫌いばっかりしてると将来元気な子供を産めんぞ!」


「う、やっぱりそうですか…… 伯父様は好き嫌いはないんですか!?」


「私はないな!」


バヤンはえっへんと胸を張った。

何でも食べる人は、好き嫌いのある人への共感が乏し過ぎる。


「……いいですね」


食事が終わってお茶を飲んでいると、何気なく廊下の方を見て驚いた。


「あ、あれ!?」


さっきの若い給仕の女性が案内している客が、あの偏屈な名匠の顔にそっくりだった。

 バヤンも気付いて驚いた顔をしていたが、直ぐに自分から声を掛けた。


「よう!オヤジ!まさかこんな所で出会うとはな!」


名匠は一瞬何故?という顔をしていたが、またいつもの無愛想な顔に戻った。


「ふん!どうやらお前さんとは腐れ縁で結ばれているらしいな!しかもなかなか腐り落ちん縁じゃ!全く嫌な縁じゃよ!」


シュエホアは、この二人は性格がよく似ていると思った。

 類は友を呼ぶって本当らしい。

 名匠は長い棒の様な物を手に持っていた。

 それは血の如く真っ赤に塗られ、先の方は黒い小さな皮袋が被せられていた。


(……あれは!穂先が見えないけど、槍!?夢にあれくらい真っ赤なのが……)


「おお!嬢ちゃんも来ていたのか!

また会えて嬉しいな!」


名匠はバヤンに向けたのと正反対の、優しい顔をシュエホアに向けた。


「こんにちは!私もおじさんに会えて嬉しいです!」


バヤンは名匠の変わり身の早さに舌を巻いた。


「ところでオヤジ!どうしてここに来てるんだ!?まあこっちに来て座れよ!」


バヤンは手招きして自分の隣に座らせた。


「親戚のじいさんが亡くなったから葬儀に行ったんだ。で、形見にこれを貰ったって訳だ!」


名匠は中身を袋から出さなかったが、代わりに真っ赤な柄を目の前に突き出す様に見せた。

途端にバヤンは眉をひそめた。


「オヤジ…… なんてゆうか、それから嫌ーな気が漂って来るんだが。いったいその槍は何なんだ!?」


寒気がする、とバヤンは両腕全体を擦っている。


「……ほう、中身を見なくとも感じるのか?お前さんの剣も大概だが、さらに上があるもんじゃわい」


「ああ、そいつからは私の剣とは違う何というか、胸を締め付けるような…… 上手く言えんが人の思いが宿ってる気がする」


「あの私は何も感じませんけど……」


シュエホアは全く平気そうな顔をしていた。


「それは良かった!何も感じない方が幸せじゃよ!」


「それは私も同感だ!呪われた物は何でもヤバいぞ」


名匠は茶をすすって遠くを見る様な目をし、バヤンは袋から目を反らした。


「の、呪われているって、まさかそんな……」


「いや、本当じゃよ!この槍、紅線こうせんはな、いにしえの呪いが取り憑いていると言われておるんじゃよ」


「……古ですか!?」


そんな風に言われると、段々とそう思えてきた。

 シュエホアはあの赤い色が、実は人の血で塗っているのではないだろうか?と思ったが、人によくありがちな暗示の一種だと、自分に言い聞かせた。

 名前も紅線。すなわち


( 別の意味で怖い。なんでそんな名を?逃れられない運命ということかしら!?)


「見せてやろうか?ほれ!」


「オ、オヤジ!いいって!」


「あの、私もいいです……」


名匠は頼んでもいないのに、黒い袋から穂先を取り出して見せた。

 それは一瞬。穂先は白いまばゆい光を放ったような気がした。

 槍は今まで見たことがないくらい立派な物で、穂先が白く輝き、木目の様な模様が、ゆらゆらと揺れる炎を思わせた。

 改めてよく見ると、柄は鮮やかな深紅に塗られており、銀の象篏ぞうがん細工が施されていた。

 美しい臙脂色えんじいろの絹紐が巻かれているので、紅線という名の由来はきっと、ここからきているのだろう。

 実戦でというよりは目で見て楽しむ美術品のようだ。


「これは見事な槍だ。これ程の一品に出逢えるのは、そうざらにはない。しかし…… 今にも嘆きと悲しみが聞こえてきそうだ。女の情念に似た何か。オヤジ、この槍は主を何度も代えているだろう?」


「ああ、その通り。槍が認める者以外が主になると、決まって災いを呼ぶらしい」


「……災いですって!?」


(こ、怖わ。でも言い当てる伯父様も怖い……)


「今までいろんな者が、この紅線を所有していたが、誰も使い手にはなれなんだ。まあ美術品みたいなもんだから持ちたくなるのさ。一番の悲劇が、槍自身が主を決めるってことを知らないからだろう…… 名刀は自らが主を選ぶ。それと同じだからな」


「ただの人を殺すだけの器だと思っていましたが、武器にも心が宿っているんですね。初めて知りました…… 今度こそ大事に使ってくれる良い主人が見つかるといいですね」


槍の安息の地はいずこか。


(出来れば香木で彫った見事な台座に納まって、時々優しい主人の手で撫でて貰えたらいいのに……)


「お嬢ちゃん!この紅線に触れてみるかね?」


 名匠の気紛れかも知れない。

 シュエホアは瞠目した。

 

「え!?」


(……こんな本格的な槍に触ったことがないけど…… 呪われないよね?)


呪いって本当にあるのだろうか?


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