第47話 長官の個人秘書
バヤンの手は大きくごつごつとしていた。
十代の頃に初陣を飾り、数々の武勲を立ててきた勇将である彼の手は、シュエホアの八十をとうに過ぎたフランス人の祖父の手を思い起こされ懐かしくなった。
祖父は戦争に参加していたと聞いたことがあるが、軍人は皆こんな手になるのだろうと思った。
一方バヤンは四十半ば。
鷹の様に鋭い目付きであったが、やはりトクトアとの血の繋がりを想起させる顔立ちをしている。
彫像の如く美しい筋肉質の身体は、服を透してわかるほどだ。
二人は、大きな手を持っているという共通点があるだけなのだが……
(私のお祖父ちゃんと同じ手ですね。って言ったら嫌な気分になるだろうな……)
そりゃあ、誰に限らずいい気はしないだろう。
まさかお祖父さんと、自分の手が似ているなんてことを思われているとは知らないバヤンは、部下のことでまた愚痴り始めた。
「ここの奴らときたら、媚びへつらうばかりで私を諌めることも出来ん腰抜け共だ。それが私を余計に苛立たせるのだろう。私は漢人の風習も文化も嫌いだが、ちー坊、お前は違う。まあ漢人の血を引いておるが…… 今は、我々と交わっておる。 モンゴル族の女達の地位は高い。チンギス・ハーンの后妃達は戦利品や財産の管理をしていたのを知っているか?」
「はい、聞いたことがあります。正直凄いなって思ってました。絵を観て驚いたんですが、皇后は皇帝と仲良く同じ
「その通り。あのチンギス・ハーンですら皇后や妃達の意見を良く聞いていたのだぞ。家のことは彼女らに聞かなければ何も出来ん、お前もそれに倣うがいい。女は、家の奥に縮こまって生きるのが美徳だと?馬鹿めがっ!」
「え?」
「あ、いや…… お前は私の側におれば良い。つまりだ、私とあの者達の間に入るのだ。何も恐れるでない。その方が、あいつらも助かるだろう?勿論、
「本当ですか!?はい、分かりました!!」
シュエホアは目を輝かせた。
(もしかして、トクトア様が言っていた稼ぎ口ってこれのこと?ってゆうことは彼もやってたんだろうなぁ。なるほどね……)
でも、この長官の個人秘書は、思った以上に大変なお役目だった……
「ちー坊!こいつらの書いた書類だが……何処の国の言葉で書いてるんだ!?」
「は!?漢語では?」
どれ、とバヤンが指差している字を見た。
「ほら!なんかこの字……私は今まで生きてきて、こんなの!一度も見たことがないっ!!一、十、廿、卅、卌、丗、回、凸、凹は字なのか?記号か?謎だ……」
これは絶対嘘。
バヤンが字を知らない筈がない。
その証拠に、『韓非子』や『孫子兵法』をこっそり隠れて読んでいるのを見たことがあった。
「……長官、おふざけになるのもたいがいになさいませ」
バヤンは大袈裟に肩をすくめ、やれやれ、と言った。
「ちー坊、上司のおふざけに笑える余裕がなくてどうする。そんなんで、私の部下は務まらんぞ。たとえ面白くなくとも、無理にでも笑わんといかんぞ。それと、冗談には冗談で返さねば」
(これは何のハラスメントになるのかしら?全く、こっちがやれやれだわ……)
「……はい」
バヤンは鼻歌を歌いながら書類に目を通していた。
「さ!仕事だ仕事!!楽しっいな~」
「…………」
どうやらこの上司は " かまってちゃん " タイプ?らしい。
「ちー坊!お茶!」
「はい!」
「ちー坊!墨、磨ってくれ!」
「はい!」
「ちー坊!!この書類、ぶかぶか君に持って行ってくれ!」
「はい!」
「ちー坊!」
「はい!」
「今のは呼んだだけ!元気か?」
流石に腹が立ったので思わず机を叩いた。
「……いい加減にして下さい!全然っ、進みませんわ!」
バヤンは全く意に介さないといった顔をして天井を見つめながら言った。
「きっと明日もいい天気だな……」
「そんなの、天井見ていて分かるんですか?」
「もう、ちー坊はトクトアと同じことを言うんだから…… じゃあ、私の机の隣にお前の机を置こう。もう叫ばずに済む。うん、そうしよう!」
「え?意味が分からないんですけど。あの……」
バヤンは早速行動に移した。
長官自らが、部下の机と椅子を動かしているのは滑稽だったが、これから朝から晩まで " しっかりと私をかまってくれよ " に付き合わされるのかと思うと、とてつもなくストレスを感じた。
一緒に暮らしていて気付かなかったが、上司にすると面倒臭い上司バヤン。
「ハハハハ。ちー坊はそんなに私の隣が良かったんだな。独りは寂しいよな。やっぱりまだお子様だ!」
(う……独りが嫌なのは自分なのでは?全くっ、羨ましいわ。好きなように、自由気ままに出来るなんて……)
「あなたのいる職場にこんな上司がいたらどうしますか?」と、街の人に聞いて回りたいくらいだ。
(かまってちゃん対応手当てみたいなのも出して欲しいな)
これらはまだ序の口。
「ちー坊!今から視察に行くぞ!」
実はこれが大変だった。
てっきり街中を見て回るのかと思っていたらそうじゃない。
これから市街から出て、馬で爆走するのだ。
「モンゴル族の女は馬も巧みに乗りこなせんとな。それ行くぞ!」
バヤンはいきなり走り始めた。
「ま、待って下さ~い!!」
慌てて追いかけたが、なかなか追い付けなかった。
流石、生まれた時から馬と共に生きる騎馬民族。
「あれは
太ももに力を入れ、舌鼓で馬に指示を出した。
「あーん、いいこだからもっと速く!そうよ!!」
馬は徐々に速度を上げ、パカラっから、ダダダダッと力強い走りに変わった。
大地を蹴る
「これぞ、人馬一体。ヒュー!やったーい!」
大きな揺れから安定した乗り心地になって気分も高揚し、顔が上気してくるのが自分でもわかった。
「遅いぞ!ちー坊!」
やっとのことでバヤンの横に並んだが、それは彼が速度を落としてくれているから。
「す、すみません!」
「私の部下になる者は、馬術も上手でないといかん!よし、明日っから毎朝武芸の鍛練もするぞ!」
「ええ!?」
シュエホアは素っ頓狂な声を上げた。
「ハハハハ。嬉しいか?よしよし、いっぱい鍛えてやるからな。モンゴル族の女は弓や剣を扱えるぞ!狩りなんかもお手の物だ!」
(え?そうだったけ?)
バヤンは上機嫌だ。
きっと自分の相手にしてくれる人間が欲しかったのだろう。
次の朝、早速バヤンはシュエホアに剣を教えた。勿論、木刀を使用しているが、バヤンが本物と同じ重さに作っているので、木刀というより木剣と言った方が合っているかも知れない。
「剣なんて初めて持ったから。おっとっと、ってなんで武芸まで……」
「どうだ?なかなかいい重さだろ?
さあ、始めよう!」
「はい!お願い致します!」
ガシッと二つの刀身と刀身がぶつかり、バヤンはわざと、
ゆっくりなので怪我の心配はない。
「こうなったら最悪な状況だと覚えておけよ!お芝居じゃないんだぞ!実戦では体格差があれば蹴り飛ばされて武器を奪われるのがオチだ!なんてったってお互い命懸けだからな!まあ、一応脱出方法は教えておくが、普通は死ぬかもって覚えとけよ!そうならないようにするのが本当の達人だ!危なかったら無理せず逃げろ!」
「はい!」
「相手が強く押せば、身体を斜めに、中心から外す!私に近付いたら駄目だぞ!私が敵なら切っちゃうからな!側面に回わるようにかわせ!素早く離れろ!!」
バヤンに言われた通りに動き、剣から逃れた。
「きゃーやっぱり怖いです!伯父様の剣圧が強くて、私には無理かも!」
「大丈夫だ。女は力では負けるが、素早い剣さばきが出来るようになれば、小回りの良さで、男を凌ぐことが出来る!私が教えるから直に上達するぞ!」
「本当に?」
「ああ任せておけ!次は馬に乗ったまま
「あ、それってモンゴル兵が得意な技ですよね」
「その通り!よく知ってるな。あれくらいは出来て当然だ。子供でも出来るからな!」
今日でも捨て台詞の意味に使われる、パルティアン・ショット。
パルミラ遊牧民が編み出した技と聞いているが、パルミラに限らず、ユーラシア全土に住んでいる遊牧民のほとんどが、これを知っている。
シュエホアは疑問に思っていた。
本当に実戦で役立つのだろうか?と。
退却すると見せかけ、後ろから追って来る敵に向かって矢を放つ。
だいいちこっちは馬に乗るだけでも大変なのに、それも後ろ向きに矢を射かけるなんて。
にわかに不安になった。
「あの、労災みたいなのはありますか?」
「え!?ロウサイ?何だそれ?食べる物か何かか?」
「……いや、何でもないです」
(私…… 死なないかしら!?)
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