第46話 猛虎襲来!?


「長官が呼んでおられます」


「さあ、お嬢様」


金さんと銀さんは、華流ドラマに登場する爽やかなイケメン貴公子のように優しく促す。

彼らの周りがキラキラ輝いて見えた。


(……カッコいい。どちらが操る馬に乗せてもらえばいいかしら!?)


アホなことを考えていたら情けない声が聞こえてきた。


「ヒ~待って下さ~い!!」


後ろを振り返ると、海藍ハイランが声を振り絞るように叫んでいる。


「お、お嬢様!ゼェ…ハァ…お、お待ち下さい!!」


叫んでいる者は、ハイランだけではなかった。


「お待ち下さい!!ゴホ……ホ……」


「どうか…ゼェェ……お行きになら……ないで下さ……い!……ハァァ……お願い致しますぅ!フゥ……ヒィ……」


雪花シュエホアの前に、息を切らした役人兵士達が殺到した。


「 やっぱり。……逃げなくても良かったってことですね。紛らわしいことをしないで下さいよ…… まあ、逃げた私も悪いですけど」


一番後ろから見覚えのある人物が現れた。

 寸法が合ってないブカブカの官服を着たちょうさんという人で、バヤンは彼のことを〈ぶかぶか君〉というあだ名を付けて呼んでいた。


「も、申し訳ありません!焦っておりましてつい、兵士達に上手く伝達出来ていなかったのが原因です!何卒、お許し下さいませ!」


シュエホアは彼の官服をまじまじと見つめた。

 そのぶかぶかの官服の裾に、先程脱走を成功させたワタリガニの一匹が、ハサミひとつでぶら下がっているのが、どうにも気になって仕方がなかった。

 見つめていると、段々じわじわと笑いがこみ上げてきたが、それを必死に耐えた。

張さんが今にも泣き出しそうな顔をしていたから笑うに笑えなかったのだ。


「お嬢様!どうかお助け下さい!長官様のお怒りが爆発して大変なのです!それはそれは世にも恐ろしいお顔をされて…… あの猛虎で有名な泰山たいざんの虎もびっくりして逃げ出すことでしょう!」


ブカブカの服の中で踊る、張さんのオーバーリアクションが、思いのほかおもしろかったのと、自分がしでかした騒動を思いだしたシュエホアは、とうとう吹き出してしまった。

皆、呆気に取られているがどう思われようと構まない。

この張さんという人は、知参政事ちさんせいじ(長官を補佐する人)という役職に着いているから一番大変な目に合わされていた。

張さんの話では、〈黄河洪水災害対策検討報告書〉なる物を見たバヤンは、突然烈火の如く怒り出したとか。

 

「こんな出来の悪い報告書をだしおって。無能の役立たず共が!」

 

 えいや、と叫んで目の前の執務机を豪快にひっくり返えしたと思ったら、今度は庭に出て行って重そうな石を持ち上げようとしたが、それは流石に持ち上がらなかったらしい。

 再び部屋に移動後は今度は物に八つ当たりか、そこら辺にある物を手当たり次第に部下達に向かって投げ付け、もう誰も長官に近付けないくらいの見事な暴れっぷりを披露したという。

 言うまでもなく、それぞれが這々ほうほうていで政庁から飛び出したという訳だ。

しかしこのまま帰ると、また命の危険に晒されると考え、それなら娘御を見つけてなだめていただこう、とみんなで手分けして街中を方々探し回っていたらしい。


(なんか、どっちもどっちって感じ。でも困った方だわ…… 自分は休暇で来た、って言ってたのに。結局、仕事をしてるのね。これじゃ、みんな安心して仕事出来ないわ)


なんか却って迷惑を掛けている気がした。

しかもして街中を引っ掻き回している。

 そう考えるとにわかに恥ずかしい気持ちになってきた。

シュエホアは深々と頭を下げた。

 

「ご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ありませんでした。皆さん、ご無事で本当に良かったです」


*∽*∽*∽*∽*∽*∽*∽*


みんな一緒に、ぞろぞろと政庁に戻って来ると、バヤンはひじ掛け椅子に座り庭を眺めながら優雅に茶をすすっていた。

こちらに気付いて振り向き、爽やかな笑顔を見せるが、何故か額に玉のような汗が光っている。


「ちー坊、帰って来たのか。どうだった?開封かいほうの街は?」


「え、ええまあ……」


(え!?何?聞いていた話と違うわ。めちゃくちゃ穏やかなんですけど……)


驚きの余り、いったいどう答えたら良いか分からなかった。

部屋が最悪に荒らされていると聞いていたが、定物定位綺麗に整頓されている。

シュエホアは疑いの目で張さんの顔を見た。

すると張さんは、そっとシュエホアに近付き「片付けられてます……」と、素早く耳打ちした。

バヤン自ら片付けたらしい。


(やれば出来るんだ…… しかも凄く速いし綺麗だし。片付け名人だわ!)


想像するとかなり可笑しいが、相手はバヤンだ。

 笑う訳にはいかなかった。

 みんな必死で笑いをこらえているのを見たバヤンの顔付きが変わった。

この上ない凶暴さが顔から滲み出ている。


「……皆ご苦労であった。もう下がって良いぞ。何をしておる!下がれいっ!」


 歯を剥いて睨んだ。

 

「は、はい!では失礼致します!!」


張さんと大勢の部下達はそそくさ

と部屋を出て行った。

その後ろ姿を見ていたバヤンは吐き捨てるように言った。


「なんとつまらん奴らだ!」


「つまるとか、つまらないとかの問題じゃありません。伯父様、部下をもう少し大事になさって下さい!」


「……あの様に無能な奴らだ。叱るのは当然だ!」


まだ怒りが収まっていないらしく、言葉の端々に毒が感じられた。

シュエホアは、バヤンを怒らせない様に努めて慎重に、言葉を選びながら言った。


「でも叱るばかりでは萎縮してしまって、ますます仕事に集中出来ないのでは?彼らが気持ち良く仕事が出来なければ、ここに住む民も幸せにはなれません。今の伯父様は、泰山の虎も同じです!」


多分、今後もこれに似たようなことが何度かあるかも知れない、と考えた。

 実のところ、シュエホアとてバヤンは怖い。

 しかし、ここの役人みたいにびくびくおどおどするのは嫌だった。

何だか武者震いのようなものが、ブルッと身体を震わせたが、自分は言うべきことを言ったから後悔はなかった。


(……不思議。現代では、こんなことは絶対に言えなかったな)


シュエホアは自分の心の変化に驚いた。

 ファンファン。〈お嬢ちゃま〉そうシュエホアは、フランス人と中国人の両方の祖父母に言われて育った。 本当に苦労知らずの、甘ったれた情けない自分だ。

 

(私は変わった?)


シュエホアの目が、真っ直ぐバヤンをとらえていた。

バヤンは、自分達の先祖蒼き狼の伴侶である白き牝鹿の目も、こんな風に澄んでいるに違いないと思った。狼と鹿の夫婦。

 異種間交配なんて出来る訳がないが、神話の世界ならありかも知れない。


「何?泰山の虎とな?泰山…… 苛政は虎よりも猛し。と例えるか?その意味は、民を苦しめる為政者。随分ときついことを言うのだな。他の行省長ならいざ知らず、私は自分では有能な為政者と思っておるが……」


バヤンは、猛虎と恐れられる自分に向かって、堂々と意見を述べるシュエホアに目を細めた。

トクトアと同じことを言っておる、と。

モンゴル人のバヤンが、この儒教の言葉を正しく理解をしているには驚いた。

 彼はかなりの努力家なのだろう。シュエホアが街を見て思ったことは、バヤンがこの地で思った以上に優れた政治的手腕を発揮していたことだ。

出来るだけ宋の時代から続く政策を踏襲し、〈夜市〉も許可していた。

それは必ずしも彼の望んだことではないかも知れないが、元朝に対する民の信頼度を回復する為の端緒になった。

自分は嫌いな漢人が多い地域にいる。

 おそらく彼は、たった独りで敵陣で戦っているような心持ちでいたに違いない。

 上位がモンゴル人のこの時代は漢人の地位は低く、モンゴル人が漢人を殴っても罪に問われないが、漢人がモンゴル人を殴ればその逆だ。

 それを良いことに近ごろ各地で、モンゴル人の狼藉が問題になり、江南こうなん地方では南人なんじんと呼ばれる、最下層の漢人達の、モンゴル人に対する怨みは相当深いものがあった。

徹底した身分制度に縛られた生活に対する不満が蓄積される。

 それはいつか目に見える形で爆発するだろう。

バヤンは目を閉じ、ため息を付いた。


「伯父様……ごめんなさい。でも……」


「お前が言いたいことは分かっておる。だが私は、部下よりも遥かに任地の方が大事なのだ。ここの奴らときたら……もしも、災害が起こりでもしたら、何にも対処出来んだろう。見ていて気が付いただろう?私に怯えるくらいなのだからな。私が必要としているのは、私のやり方に付いて来れる者、実力を兼ね備えた者だ。つまり即戦力。これに限る。つまらん肩書きなどくそ食らえだ!」


そう言い切るバヤンは、間違いなくカッコ良かった。

シュエホアに尊敬の眼差しを向けられて、得意顔のバヤンだったが……


(トクトアの奴め。ちー坊に要らんことまで教えおって、儒学者気取りか。全く、師匠も師匠なら弟子も弟子だが、こんなに澄んだ目で見られていては居心地が悪うてかなわぬ。よし、にして奴に仕返ししてやらねば)


バヤンは意地の悪そうな笑みを浮かべた。

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