第42話 河南へ
丞相は後ろ手に組んで歩きながら何事か思案していたが、突然、ピタリとその足を止めた。
「トクトアが上都に行ったことは、陛下には申し上げておらん。ワシにはよう言えん…… 息子達には、" トクトアが上都へ行ったのを誰かにしゃべったら屠殺場の豚と同じ運命だ。何処かの店で豚骨スープと一緒にグツグツと煮込まれるからな!"ときつく口止めしといた。あの、見た目からして軽そうな
「あのボンボン達がそのように…… 丞相、ご配慮に感謝申し上げます」
「礼などよい。お主はよう働いてくれておるからの。ところでなバヤンよ。しばらく休暇で河南行省に行っては?仕事のことは心配いらぬぞ」
「え?いや……それは…私は河南は……」
バヤンは何か言い掛けたが、丞相は構わず話を続けた。
「ああ大丈夫大丈夫。それに、ここにおってはお主も落ち着かんじゃろうが?トクトアはお主に付いて河南へ行ったことにすればいいしの。たまには任地に睨みを利かせて来んとな。あ~それから、土産を頼んだぞよ!」
「はい。では行って参ります……」
あんまり乗り気気がしないが、丞相に言われれば仕方がない。バヤンは
*∽*∽*∽*∽*∽*∽*∽*
「はあ~やだな~私は河南になど行きたくなかったのに…… 黄河を見るのも苦痛だった」
バヤンは任地の
それもよくとおる声で言ったから、わざわざ開封府から船着き場まで出迎えに来てくれた、役人達の耳には嫌でも聞こえていた。
「お、伯父様……」
シュエホアも馬に乗っていたので、バヤンに近付き小声で言った。
「わざわざ迎えに来て下さったのに、それは失礼かと…… 伯父様は河南行省の長官なのでしょう。たまには戻らないと駄目なんじゃないですか?」
「そういうお前こそ。我が儘を言って、用意された馬車から降りたじゃないか」
「それは……」
乗り物酔いをしてしまったのだ。
囲いのない荷馬車の方が良いのだが、まさか元の行省長官の一家が、荷馬車に乗って街に入る訳にはいかないだろう……
後方から馬車が従っており、護衛でアルタンとムングの二人が付き従っている。
豪華な馬車には侍女のハイランとユファが乗っている。
二人は、まるで観光に来ているかのように、飲み物と菓子を食べて旅を満喫している。
「私はどうもこの地が肌には合わん!食べ物は味が薄いし」
バヤンは不平不満文句タラタラだ。
河南の地は黄河中下流に位置している。
夏から金の時代にかけて二十の王朝が河南域内に都を置いていた。
なかでも安陽、洛陽、開封は主要な歴史文化都市で、古代に栄えた経済と燦然たる文化遺跡が豊富に残っている。
中国人の姓のうち千五百以上がここに起源をもつといわれている。
中国古代文明発祥の地である。
「私、開封はいい都市だと思いますよ。楽しみです!」
「お前は何にも分かっちゃいないんだ。過去に黄河が氾濫して大変だったらしいぞ。しかも、砂も一緒に流れてくるから最悪な場所だ!私の時にそんなことがあったりしたら、もう、ふて寝してやるんだ!」
「……職務放棄ですか?酷い長官ですね。民は泣きますよ」
「フン、なんとでも言え。こんな場所に平章政事(長官のこと)として私を送った政府が悪いのだ!」
「最初は中書省。本部ってことですね?これは抜いて。えーと嶺北行省、遼陽行省、河南行省、江浙行省、湖広行省、四川行省、陝西行省、雲南行省、甘粛行省ですけど。この中からどれが良かったですか?」
「嶺北…… いや、やっぱり何処もやだ!早く大都に帰りたい!」
「え~何処も嫌なんてびっくりです!」
「私もびっくりだ!なんでここなのかな!これなら戦に出てる方がまだマシだ!ほれ、言ってるうちに開封の城壁が見えて来たぞ」
開封は最も古い都の一つだ。
北宋の時代は別名、
シュエホアは、美しい街並みに目を奪われた。
通りを示す指標の前には石で造られた可愛い象がお出迎えだ。
「城壁を見た時は閉塞感を感じましたが、あの瑠璃瓦と朱の柱の楼閣がとても素敵!あら?大きな塔が二つ見えますよ!ほら!実に素晴らしいとは思いませんか?」
北宋の時代からの建築物。
煉瓦で造られた反面六角の繁塔と、鉄塔と呼ばれる瑠璃煉瓦で造られた八角形十三層の仏塔だ。
仏塔に関しては、きっと見た目が黒っぽいからそんな名前が付けられたのだろう。
クレーンのない時代に、よくあんな高さまで煉瓦を積み上げられたものだ。
その立派な建造物を前にしてもバヤンは目もくれず、逆に文句を言う始末。
「あんなの鉄で出来てないじゃないか!知ってるか?あの塔は最上階に行くと狭いんだぞ!まあ、二つ共立派っちゃあ立派だが、大都の新・広寒宮の方がもっと美しいぞ!」
旅行に行くと、かなりの高確率で、こういうケチをつけるおじさんかおばさんに出会ったのを思い出す。
「もう!失礼じゃないですか!こちらは歴史ある古都ですよ。ほら!なんというか、趣っていうのがあるじゃないですか?」
「はあ?古臭い都の趣がなんだって!?ちー坊、私はここの行省長だぞ!何回も見てる!早くばったり倒れちまえ!ってな!」
(バランスゲームのグラグラタワーじゃあるまいし。大都にいる時はご機嫌なのに。これじゃ仕事なんて、まともに出来ないでしょうね。みんな迷惑してるだろうな……)
開封の城に着くと、門の前で官吏や役人達が兵士のように直立不動で出迎えてくれた。
列の真ん中から、ここでは偉い人?とおぼしき細身の中年の男性が進み出て挨拶をした。
男性が着ている官服は体型に合ってないのかブカブカ。
男性は見た目とは逆に、はっきりとした声で言った。
「バヤン将軍閣下様、お帰りなさいませ!我ら一同、バヤン将軍閣下様のご到着を心待ちに致しておりました!」
バヤンは尊大な征服者のような態度で。
「ほう、心待ちとな?てっきり、その反対かと思ったから意外だな。其の方らが私をその様に思うてくれていたとは…… 嬉しゅうて涙が出るわ!では私も、其の方らの熱き忠義心忠誠心に応えねばのう。後で酒と肴を手配しよう。今夜は私を抜きでやってくれ。それに私のことはただの長官でいいぞ。前もそう言ったがな。その…… 堅苦しいのはかなわん。私は休暇で来ておる故、お互い気を遣わんようにしよう」
「は!ありがとうございます!」
「疲れたな…… さぁて城の中に入ろう」
バヤンは先に馬から降りると、シュエホアの側へ行った。
長官自らが、年若い婦人の身体を支えているのを見た彼らは、長官が遂に後添えを貰ったのだと勘違いした。
「なんと!お若く美しい奥方様なのでしょう!全く羨ましい限りです!!」
シュエホアは呆気にとられ、バヤンはぶっきらぼうに答えた。
「……これは私の養い子だが」
その場は気まずい空気に支配された。
シュエホアはこれはマズいと思い、場を和ます為に冗談を交えた挨拶をした。
「
しかし、大して効果はなかったようだ。
シュエホアは激しく悔いた。
笑ってくれたのはバヤンだけで、あとは皆、わざとらしい作り笑いをして各々仕事に戻って行った。
バヤンが休暇で来ているなんて開封府の者は誰も思っていなかった。
この地に長官がいる限り、自分達に平和なんて訪れない。
彼らにとってバヤンは暴君以外の何者でもなかった。
シュエホアの想像した通りである。
バヤン長官は、パワハラ、モラハラ、レイハラ、ジェンハラ、など、ハラスメントの仕放題。
役人達は、バヤンが明日開封にやって来るとの報告を受けた瞬間から「この世の終末が来たぞ」と、いつも嘆いているらしい。
この話は、アルタンとムングから聞いている。
当のバヤンは、このことを知っているのだろうか。
開封の城内は外から見るより、ずっと大きい。
(ここに歴代の王朝の宮廷があったなんて。この世にはいつまでも続く栄華や権力ってないのね……)
自分がいる時代が不安定な時期に差し掛かっていることに強い不安を感じた。
(三年は…… 長い?それとも短く感じるかしら?)
独り物思いに沈んでいると、バヤンの大きな手が肩に置かれた。
バヤンは優しく微笑んでいた。
不安が一気に何処へ飛んで行くような気がした。
「どうだ?いいだろ?おもいっきり走り回れるぞ!」
物をごちゃごちゃ置くのは嫌いな彼の性質上、城はバヤン好みに?簡素に住みやすく改装されていた。
「お城だぞ~!ちー坊はここではお姫様だ!」
バヤンはふざけてシュエホアの前に跪いた。
「お姫様!?嬉しい!でも私達だけじゃないですか……」
辺りはがらんと静まりかえっていた。ハイランが不満げに言った。
「本当に…… お掃除するのが大変そうですわ!」
ユファは広い城内が気に入ったらしいのか、目をキラキラさせていた。
「そうですか?広々としてるので、逆に楽しいと思いますよ。素敵!」
女の子はお城が大好きだ。
居間に入ると、バヤンは窓側に置いてある藤の椅子に腰掛け、大きく延びをした。
「あ~疲れた。ちー坊、晩はよく眠れるか?トクトアが居ないと寂しいだろ?」
「……別に、そんなことは」
シュエホアは顔を赤くしてうつむいた。
「ハハハ、嘘をつくな。いつもため息ついてるじゃないか」
「……バレましたか。だって心配なんですもの」
「大丈夫だ。あいつはマヌケじゃないからな」
バヤンは庭を眺めながら事も無げに言っているが、その横顔に緊張の色が浮かんでいた。
(トクトア様。……何で行っちゃうんだろう?男の人って分からないわ。ロマン!?スリルを求めて!?)
早く無事に帰って来て欲しい、と願った。
「ところでな!お前はトクトアのこと、どう思ってるんだ?」
突然、そんなことを聞かれるとは思いもしなかったので動揺するシュエホア。
「ど、どうって。優しいお兄さんって思ってますけど」
「はあ?本当にそう思ってるのか?お前達はあんなに仲良く過ごしてるじゃないか。毎晩書斎で。しかも二人っきりでひとつの部屋にいてみろ。普通はお互いを意識するだろうが」
バヤンは何か不思議なモノを見るような目でシュエホアを見つめていた。
「そ、そんな、お互いを意識だなんて…… 私達は本当に兄妹のような関係を築いていますわ!」
本当はどうなのか自分でも分からなかった。
十代の頃は " 結婚するなら断然年上!年下なんて考えられない "と思っていた。
将来は三十迄に結婚。
相手は十以上離れている人と決めていた。
しかし三十を過ぎると段々と気持ちも変化して、年下も良いかもと思うようになっていた。
自分の身の周りの女性で年下と付き合っている人が多いせいだ。
感化された?
彼女達は恋をして自信と美しさを維持していた。
実際、二十も年下の彼と結婚した女性も少なくない。
「女性が社会にどんどん進出しているんだなぁ」
なんて、近所に住んでいる奥さんの尻に敷かれているおじさんと同じことを言っていた。
でも十歳以上も年下の彼氏という選択肢は、自分の中にはなかった。
(今は十代…… もっと大胆にならなきゃ。ってあれ?やっぱり恋!?ある日突然恋愛の神様が降りてくるって本当ね……)
シュエホアは心の中にトクトアの姿を思い描いていた。
書斎で本を読んでいる時や日差しの眩しさに、顔を顰めた時の表情が好きだった。
胸が切なさで痛くなった。
今まで、こんな思いはしたこともなかった……
これが本当の恋心なのだと。
「ほお~兄妹か。遠慮せんで良いぞ!手を握りたいと思ったことはないのか?」
バヤンがニヤニヤしながら聞いてきた。
「いえ!そんな!本当にそんなことを思ってませんわ!髪をよく撫でられますけど……」
シュエホアは自分でも頬が赤くなったのが分かった。
「分かった分かった。もう、恥ずかしがり屋だなちー坊は!まあ女の子はうぶな方が良いからな!へい!好き嫌いなし!ドンと来やがれっ!!って女は引かれるかも知れん」
「そ、そうですか?」
「ああ。そりゃそうだ。男はなんていうか…… 夢を見たいのさ。いつまでもな!」
最後の辺りがわかったような、よくわからなかった。
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