二つの首都

第37話 皇帝の悩みとは?



「だ、誰か!誰かおらぬか!?」


 後の九代目大ハーン、図帖睦爾トク・テムル(文宗)は夜半を過ぎる頃になると、決まって悪夢にうなされる。


「はい陛下。ただいま御前に……」


 隣の部屋で寝起きしていた宦官達が駆け寄るが、 そのただならぬ相好に、思わず後ずさりしてしまった。

 真夜中だというのに、皇帝の目はギラギラ光り、いったい何に怯えているのか、震えが止まらない様子だ。


「じ、丞相を!丞相を呼ぶのだ!!」


(ハァーまただ。いったいどうされたのか?この前は、亡き父帝が枕元に立たれたとおっしゃっていたが……毎夜、毎夜、これではこちらの身がもたない)


「陛下、ご安心下さい。既に丞相邸に文を届けております。さあもう何も心配はございません。お身体に障るといけませんので、どうかもうお休み下されませ」


 宦官達が必死でなだめてやっと落ち着いてきたらしく、不気味な目の光は消えていた。

 無論、文など届けていないが、こうでも言わない限り余計に酷くなるばかりだった。


「……済まぬな、これで安心して眠れそうだ。丞相が起こしてくれるまでもうしばらく寝て待つとしよう……」


 とまあ、最近いつもこんな調子であった。

 いったい皇帝は、何に怯えているのであろうか……


 次の日の朝、宦官の一人が南省の政務室に行き、丞相に昨夜の出来事を報告した。

 丞相は黙って宦官の話に耳を傾けていた。


「……ということなのです。陛下は丞相が来られるのを心待ちにしておられます。どうかお助け下さい!」


「ほぉ、其の方らをか?それとも陛下か?」


「……どちらもです!いえ、陛下を!!」


「フフフ。そうか…… 陛下の御身の方が大切じゃからの。では、ワシがお話の相手をして差し上げねばのう。陛下に取り次ぎを頼む」


 この国のトップ、燕鉄木児エル・テムル丞相。 代々ハーン家に使えるキプチャク族のクルスマン家当主で、トク・テムルを皇帝の座に推した立役者だ。


「うん?」


 宦官が返事をしない。


「あ、あのう…… まことに申し上げにくいのですが、陛下は広寒宮にいらっしゃいます……」

 

「はあ?なんじゃと!?あんな遠い離宮まで来いと?ワシは年寄りだぞ……」


 今年齢六十になる丞相は頭を抱えた。

 六十歳なんてまだまだ若いと思っていたのだが、この前の狩りで大物の猪が獲れて大はしゃぎした。

 調子に乗った彼は、宴席に集まった大勢の臣下の前で剣舞まで披露したらしい。そのせいかここ数日、腰が痛くて膏薬が手放せなくなっていた。


(はあ、やっぱり歳には勝てんわい……)


 やがて諦めたように深いため息をつくと、観念したように言った。


「陛下はこの年寄りを頼みにされておるのだ…… 行って差し上げるのも臣下の務め。輿の用意を頼む」


 玄関に出ると、すでに、薄紫色の紗のカーテンで囲った立派な輿が用意されていた。


「父上、宮殿へ行かれるのですか?」


 長子の唐基勢タンギスと次子の塔剌海タラハイが現れた。

 二人共濃い水色の土耳古トルコ石の首飾りを身に付け、兄の方は色鮮やかな橙色の戦袍せんぽうを、弟は濃灰の戦袍を身に纏っていた。


「ああ、陛下にお会いして来る。留守を頼んだぞ」


「は!行ってらっしゃいませ!」


 輿は屈強な男達に支えられて進んで行った。

 タンギスとタラハイの兄弟は跪いて、敬愛する父が乗った輿を見送った。

 宮殿を囲む城壁の門の他に、幾つもの回廊を繋いだ箇所に造られた門を、徒歩で通過するのはけっこう時間がかかる。

 丞相は輿の紗のカーテンの隙間から、宮殿の主殿の大明殿と国の金蔵、延春閣を見た。

 どちらも堂々としたまばゆいばかりの姿だ。

 

「はあ、これは腰に来るのう……」


 柔らかなクッションにもたれているが輿は揺れる。

 その振動が腰に、どうしようもなく響くのだ。

 


 そして、西の西華門を通り過ぎると、やっと離宮がある太液池たいえきちに到着した。

太液池の水は、都の西郊の玉泉山の水源から引いており、絶えず満々と水がたたえられ、沢山の蓮や睡蓮が花を咲かし、その風景は極楽浄土を思わせた。

 この太液池には二つの小島があり、橋で行き来出来る。

 南の島が瀛州えいしゅうと呼ばれ、北の島はやや大きく、奇石を積み上げて造られ、松と檜が生い茂る風流な地だった。

 これが有名な瓊夏島で、目的地はここだ。

 瀛州を挟んで東と西に、約60mの石橋がが掛かっており、西側の隆福殿(東宮御殿)へと繋がっている。


「はあ…… やっと着いたわい」


 丞相は輿から降りると、ゆっくりと伸びをした。

 瓊華島広寒宮けいかとうこうかんきゅうだ。

 この殿中には十二本の金塗りの柱があり、祥雲瑞龍の模様が彫刻され、宮殿の左右と後ろ面には香木を使って彩雲を彫り出し、いずれも金色に塗られていた。

緑濃き山頂に建てられた、金色に彩色された塔は、日の光を反射してキラキラと輝き、黄金の絶景と呼ばれるに相応しい眺めだ。

 丞相は、その美しさを誇らしげに見ていたが、宦官からこの後告げられる言葉に絶句した。


「陛下は、塔の最上階でお待ちでいらっしゃいます」


 丞相は階段を登りながら本気で思った。

 誰か、最上階まで行ける装置か何かを発明してくれと。


「……ハア、ハア…… 陛下は…… この年寄りをどこまで…ハア……こき使うの…じゃ……」


 やっとたどり着いたかと思えば、今度は塔へ登れというのだから、堪らなかった。

 ゼイゼイと息を切らせながらも、なんとか階段を登りきった。

 この国の丞相というプライドではなく、若い者にはまだまだ負けたくないという意地なのかも知れない。

 こういう人は結構身近にいるもので、普段は自分から年寄りアピールをするくせに、いざ人から年寄り扱いされると怒りを顕にし、そのくせ自分の都合が悪くなると、いや年寄りたがら、と直ぐに口に出すので始末が悪い。


「おお!丞相!待ちかねたぞ!ようここまで来てくれた!!」


 皇帝は、父にすがり付く子の様に側へ駆け寄った。

 その様子に丞相は苦笑しながら、挨拶もそこそこにして、まずは苦情を言った。


「……陛下。この年寄りには塔の階段はこたえましたぞ!」


「済まぬ。これからは政務室でな!そうしよう!」


 丞相はゆっくりと椅子に腰掛けると、若い宦官が差し出す水を飲んだ。


「丞相、私の話を聞いてくれ!夢を、夢を見たのだ!私が廃位となる夢だった!あの色目人、倒剌沙ダウラト・シャーが私を龍座から引きずり下ろそうとしておるのだ!」


 皇帝は悲痛な形相をして訴えるが、当の丞相の方は宦官が入れた茶を、さも旨そうにゆっくりと飲んでいた。


(はあ、やっぱり茶の方が旨いわい……)


 この海千山千の老宰相には、親子程年の離れた皇帝の心配事など、どこ吹く風といった心境のようだ。

 その様子が皇帝には一層頼もしく思えたのか、今は黙って彼の言葉を待つことにした。

よらば大樹の陰という諺があるのだから、ドーンと気楽に構えればいいのだ。

 丞相は茶で一息付くと、おもむろに口を開いた。


「……陛下。帝位につかれた方にはよくあることです。夢とはそういうものなのです。心の不安、それが原因です。しっかりお心を強く持たねばなりませんぞ。あなた様は、偉大なる大ハーン(皇帝)なのです!そして陛下には、このエル・テムルがついております。何の心配もございません」


「ああ、其の方の申す通りだ!しかし、副都があるというのは、やはり不安な気持ちにさせる……」


「……では、私が陛下の不安とやらを取り除いて差し上げましょう」


 丞相は、笑みを浮かべてそう言った。


「して、どうするのだ?丞相」


 丞相は、そうですな、と呟き、懐から筒のような物を取り出し、前に伸ばして長くしてから中を覗いた。


「フォッフォ。陛下が大きく見えまするな!」


「え!?それは何だ?私にも見せて貰えるか!?」


 丞相は、懐からもうひとつ筒を取り出し、皇帝に手渡した。


「こ、これは何だ!?凄いぞ!丞相が小さくなっているではないか!」


「いえ…… 陛下、それは向きが逆になっているからそう見えますのじゃ……」


「なんと!?そうなのか?しかし、丞相!これは何なのだ!?まるで魔法のようではないか!」


「望遠鏡と申す物です。遠く西の方より来た、威内斯ヴェネツィア商人から手に入れました。陛下に献上致します」


 それを聞いた皇帝は大喜びし、教えられた通りに向きを変えて、再び筒の中を覗いた。


「おお!これはなんと、面白き物なのだ!其の方の鼻の穴が、よう見えるぞ!」


 皇帝は望遠鏡を覗いたまま、隣に立っている宦官の顔を見ていた。

 丞相は、いや別にそれは見なくていいからと思った。


「陛下、外の景色をご覧あれ!もっと面白うございますぞ!」


 二人は塔から見える景色を見た。

 望遠鏡を覗けば、美しい眺望を間近に見ることが出来る。

 二人共、まるで童心に返ったように、互いに笑い合っていた。

 皇帝の心も晴れているに違いない。


「おお!積水潭の港がよう見える!湖に流れる高梁河も見えるぞ!あっ!鼓楼と鐘楼に大通りもだ!まっこと残念なのが、向こうに行けぬことだ!」


「ホッホッホ。陛下、御幸の折りにでも、こちらをご覧になれば宜しいでしょう」


 丞相は都内の北を見た。

 そこは城門の内側であるにも関わらず、緑地が広がっている場所だった。

湖と草原。かつて自分達は、そこから来たのだ。

 しかし、丞相はそんな感慨に浸る為に見ているのではなかった。


(皇帝の権威の象徴である、玉璽ぎょくじを上都派から奪わなければ…… こちら側が逆賊と頭の固い高原の諸侯共は思うだろう…… 玉璽だ!それさえあれば、我が大都派の完全勝利ぞ!)


 そして、とある区域を見つけると、ニヤりと笑った。

 軍事演習場として使われているその場所に、バヤン将軍率いる、イラン系のアスト人親衛軍が整列していた。

 丞相は見事に統率されている、この親衛軍に目を向けていた。


(バヤン…… お主に期待しておるぞ。さあ、碁盤の石を動かさねば)


 丞相は望遠鏡を覗きながら、フフと笑うと、片方の手でまるで碁を打つかのような仕草をした。


「おっと!!これは!?」


 突然の皇帝の叫び声に、丞相の頭の中の碁盤と石がひっくり返った。


「丞相!見てみろ!あの男女は草の上に寝転んで…… おお!なんと淫らなことを!」


「え?陛下!いったい何処なのです!?」


「ハハハハ、私に見られてるとも知らずに。ハハハハ……」


「陛下!何処なのです!?」


「おお!なんと大きな!まるで大きな瓜のような胸が…… あ!丸出しになって!私の後宮の妃達や女官にも、あんなのはおらんぞ!」


「だから陛下!いったい何処なのですか!?」


 丞相はイライラしながら望遠鏡を覗いていた。


「ヒャッヒャッヒャ!ほれ!スッポンポンにしてやれ!わーい!」


 皇帝は、望遠鏡を覗きながら手を振っていた。


「もう!!何処!?」


 丞相は皇帝に肩を寄せて、同じ方向を見ることにした。


「おお!?確かに!大きな胸が……」


 丞相が見たモノとは?

 川で裸になっている力士のような男の、波打つように動く胸だった。 丞相は腰を抜かしそうになった。


 


 役に立つ?豆知識。

 望遠鏡について。残念ながら……

 しかし、13世紀頃にはレンズで物を拡大して見ることは既に知られていたようです。拡大鏡はあったんですね。

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