第36話 太陽と月の出会う時


  雪花シュエホアは、書斎で死神陛下から貰ったポストイットを眺めながら呟いた。


「夢じゃなかった…… しかも最後の方に、私の名前……うーん、ニクいわ。きっと生前、女の人にはマメな人だったんでしょうね」


 死神陛下の言葉を思い出す。


 ――トクトアもお前を意識するやろう!お前どうする?


 ――抗えるんか!?多分お前は雰囲気に負けるやろう?


 ――お前はきっと迷う……そして帰るチャンスを不意にする筈や!


 恋に理屈なんて通用しない。

 一度動き始めたら坂道を転がるように止まらなくなるだろう。


(いいえ!私は未来から来たのよ!帰らなければ!!)


 決意を新たに、今はもといた世界のことだけを考えた。

 現代は今よりもずっと快適で住みやすい。

 仕事、家族との時間も大切にしたい。

 家族――ここでの家族は自分の本当の家族ではない。

 赤の他人―― なんだか響きがとても冷たく、実際に言われたら傷付く言葉だ。

 恩人に対し、これはないだろう。


(私は確かにここに存在したんだもん。伯父様、トクトア様、屋敷の人達と過ごした時間はかけがえのないものよ。私が消えたとしてもみんなの記憶の中には残ってるんだから。だからそんなふうに思っちゃいけないわ……)


 シュエホアはポストイットを帯の内側に挟むと、筆を手に取って別の紙に、死神陛下からのヒントを書き記した。

 いずれ本当に別れの時が来るだろう。

 悔いが残らないように精一杯頑張ろう決めたら、何だか急に感傷的な気分になってきた。


(ヤバい泣けてきた…… )


 時路宮姫ときじくひめのことも気になったが、先にあの漢詩の謎を解く方が先だ。

 

〈天抗暉於東曲 、日倒麗於西阿〉


 この詩の意味を本当に理解し、それから日付を導き出すのだ。


「気になる字を抜いていくか…… 天、東、日、西、だけにして。天は空のことでしょ。日とは太陽。日は東から登って西に沈む。当たり前だ……日倒麗於西阿。あとは油菜花ヨウツァイホアが咲くのを見てればいいのよね?待てよ……天抗暉於東曲。あのって字は輝くの意味。太陽の他に、もう一つ天体があるじゃないのよ!月だ!!で…… だから?」


 深くため息をついた。


「どうしたのだ?そんなため息などついて?」


 麗しい微笑を浮かべたトクトアが書斎に入って来た。

 シュエホアは咄嗟にヒントを書いた紙を懐に隠した。


(な、何で隠してしまったのかしら?)


 トクトアは本棚に行く前に 、わざわざシュエホアの側に来て髪をくしゃくしゃっと撫でた。


「もう!また私の髪を乱す!それって困ります!」


「いつもと変わらんだろ?しかし、見事な巻き毛だな。其方、髪をもっと伸ばせば良いのに…… 初めて出会った時、男みたいに短いからびっくりしたぞ。あの服と真珠の装飾品がなければ、女とわからなかった」


 自分はそんな風に見えていたのか。

 シュエホアはショックに思った。


(そんなに髪は短くなかったはずだけど。この時代はショートカットって、変わり者がするくらいにしか思ってないんだろうな。でも伸ばすの大変なのよ!巻き毛金糸雀カナリアみたいでやだし!)


「とにかく髪は伸ばせよ」


 言われなくとも伸ばしている。

 周りの女性達は皆ロングヘアだから目立つのだ。

 しかし、トクトアと並ぶと、長さは到底及ばない。

 こちらはようやく肩に掛かるといった具合だった。

 トクトアは本棚の方を見ながら歩いていた。

 肩から背中にかけて流れる美しい栗色の髪に嫌でも目がいった。


(たっぷりとしたストレートの艶々の髪。本当羨ましい!しかも武官ポニーテールが凄く似合ってる!)


 触れてみたい。気付けばトクトアの後ろを付いて歩いていた。

 突然トクトアがその場でUターン。

 正面衝突し、顔が彼の胸にピタッと当たってしまったので、思わず手で押し退けた。

 恥ずかしさで顔が火照る。


「おい、なんで後ろから付いて来るんだ?しかも自分が悪い癖に人を押し退けるとは…… 悪い奴だな!」


「すみませんでした」


「心がこもってないな……」


 またシュエホアの髪をくしゃくしゃっと撫でた。


 (こっちがかまうと面白がって余計やるから無視しとこ……)


 シュエホアが乗って来ないのを見て、トクトアは何を思ったのか、今度はふざけて顎を猫みたいにくすぐり始めた。

 これにはシュエホアも流石に反応し、嫌がる素振りを見せた。


「もう!あなたの知恵を貸して貰いたかったのに!」


 それを聞いた途端、またいつもの近寄りがたい彼に戻った。

 -40度のシベリア寒気団から吹き荒れる風のように、そこら辺が凍て付くのではないかと思った。


「何だ?言ってみろ」


 冷悧な眼差しがシュエホアに向けられた。

 シュエホアは反射的に後退したが、彼の方から近付いて来た。


(あらら、怖いよ……)


「だ、大都の街は、ある神の姿を模して設計されているそうですね。それが何なのかが知りたいのです」


 トクトアはゆっくりとした優雅な歩みで卓子の方へ歩き出した。


(嗚呼、あの人に似ている……)


 目の前を、K宮博物院で見た男性が歩いている。

 そんな錯覚を見た気がした。

 男性はゆっくりとこちらに振り返えるが顔は見えなかった。

 軽い目眩いがした。


(……デジャヴ?)


「大都の街の城門はいくつあるか知っているか?」


 トクトアの質問で、はっと我に返った。


「……確か全部で十一です」


(なんとか答えられた…… 今のはいったい何?)


 トクトアの言葉は続く。


「この大都に限っておかしくないか?城門は町を守る要だ。東西南北で三つずつ設置されていなければならないだろ?じゃあ、なんで北だけ二つしかないんだ?十二でなければならない筈だ。これって何故か知ってるか?」


「さあ?何故でしょう…… でも、十一しか門を作ってないんだから仕方がないと思いますが」


 トクトアは質問を変えた。


「大都の城壁は六十里。これは何を意味するか分かるか?六十は干支の?」


「……一巡りですか?」


「正解。では市街地は坊。つまり方形に区切られた町の区域、市街だ。大都の街は五十坊に仕切られている。五十は太衍たいえんの数、すなわち易の筮竹ぜいちく(竹ひご)の数。これはなんの意味だ?」


「……確か、どちらも古くから聖なる数とされてますね」


「正解。では那吒太子なたたいしは知っているな?」


「ええ!軍神です。毘沙門天の子供で、国民なら誰でも知ってますよ」


 現代でも人気のある神で、『西遊記』や『封神演義』にも登場する。那吒なたくとも。

 駅の壁画とかに可愛いく?描かれてあるのを見かけるが、その理由まではわかっていなかった。

 トクトアは棚から巻物を取って来て卓子の上に広げる。

 それは大都の城門の見取り図だった。

 確かに絵図を見る方が分かりやすい。


(ついでに那吒太子の絵があれば、最高なんだけどな)


 トクトアは説明を始めた。


「さあ、ここに十一の門が描いてある。つまり、この全ての門は那吒太子の身体をかたどっている。那吒太子は三頭六臂両足さんとうろっぴりょうそく。頭が三つ、腕が六つ、足は左右両方一つ。まず三頭の頭は南側、六本の腕は三本ずつ東西それぞれの門、最後の左右の足が北の門になる。まあ、上から見たら逆さまだが、南には宮城が配置されているからな」


那吒太子の足下にあたるから、宮殿を配置したくなかったということだ。

 

「ではフビライ皇帝は軍神の守りを意識して街を造ったんですね!」


(そうか、今まで考えたことなかったな。なんで那吒太子が?って思ってたけど)


「まあそうかもな。大都は〈那吒の城〉とも言われてる。じゃあ、元の国名は易経えききょうの?」


「聞いた事があります。いなるかな乾、万物、りてむ。乃ち天をぶ。から取ってるんですよね?」


「そうだ。天の働きの始まりの偉大さを讃え、このようなものであればこそ、元は宇宙を統率することが出来る、という意味だ」


 フビライ・ハーンは国号を、中国風にと称し、年号が至、首都は都。なんか連動している。明らかに験担げんかつぎだ。


「多分、民のほとんどが那吒太子と都の歴史くらいは知っている。易経は説明が難しいかも知れんが……」


 二月には那吒太子の誕生日で、大都では盛大な祭りが行われていたと記録がある。

 だがしかし、軍神の姿が大都の中に秘められていたとすれば、果たしてそれは何を意味するのであろうか……

 

「……シュエホア」


 トクトアはそう言うなり、いきなりシュエホアの懐に手を差し込もうとした。


「キャ~!な、な、何を!?」


 シュエホアは彼の手を掴もうとするが、彼の指が挟んでいる白い紙が目の前を通り過ぎて行くのを見て納得した。

 紙の端が衿からはみ出ているのが見えていたらしい。


「あ……そうだったんですね。やだ。私ったら……」


 いや、今のは淑女レディに対して無作法だろう。

 トクトアはかざすように紙を見ている。


「これは…… 何だ?」


 仕方なく渋々答えた。


「これが…… ある日付けを指してるんですが。当たり前過ぎて分からないんです。何でも油菜花を見てれば分かるとか」


 トクトアは声に出して読む。

 とても心地の良い声。

 美しい完璧な発音。

 死神陛下に負けないくらいの。


「これは、南斉書に書いていたものだ。似た漢詩は他にもあるが……では今度は其方が分かりやすく読め。意味もしっかり答えろ」


「天は輝きを東曲にげ、日は麗を西阿にさかしまにす。日は西に傾き……」


 そこで何故か止めてしまった。

 理由は、トクトアと目が合ったのと、自分の解釈が間違っているのではないか?と不安になったからだ。


「どうした?先を続けぬか。ありきたりの答えなら要らぬ」


「……太陽だけではないのです。月です。月は東から昇り輝く」


 トクトアは春の日差しのような優しい笑顔になった。


「さっき、其方はもう一つ言わなかったか?油菜花だ。咲くのはいつの季節だ?」


「はい、春ですね」


「伯父上がよく言っている想像力だ。西に太陽、東に月だ。そして菜の花畑。さあ、もう分かったか?一年に一度ということもないがそれらは同時に見えるという……」


 シュエホアはトクトアが言い終わる前に気付いた。

 なんだそうなのかと。


「答えは春分……」


 正解、とトクトアは笑顔で答えた。


「春分って…… 今の暦では……」

 

 シュエホアは考えた。

 

 (太陰暦じゃないしね。蘇州のお祖母ちゃんは占いで、よく旧暦を使ってるけど、太陰暦は月の満ち欠けを観測して作った暦。一年が365日と比べると、11日も日数が足らなくなるから、数年もするとズレてくるって聞いたけど)

 

 そこで、四年に一回、閏月を入れることで遅れた太陰暦を太陽暦に近づける太陰太陽暦(旧暦)が発明されたらしい。(その年は十三ヶ月になる)

 そして中華では、暦は日食と月食が起こる日を割り出す為や皇帝の権力を誇示することに使われてきた。

 

 きっと、「皆の者~本日は日食じゃー!!」「ああー!本当だ、太陽が消えたぁ!はは~おみそれしました!」ってな感じに使うに違いない。

 〈天子は、天体さえも支配している〉ということだろう。

 シュエホアは、この時代に優れた天文学者がいたことを思い出した。

 その名も郭守敬かくしゅけい。授時暦を作った人だ。

 授時暦は1280年に完成した。

 イスラム天文学の観測技術を学び、現在のグレゴリウス暦(太陽暦)に等しい正確さの暦を作ったことで知られている。


 (ホッ、大丈夫だわ。暦で春分や秋分くらいすぐわかる)

 

 トクトアはシュエホアのコロコロ変わる表情を不思議そうに眺めていた。

 顰めっ面かと思えば、急に笑顔になったりするからだ。


「ところで、何故こんなことを調べてるんだ?」


  そう来ますかと思った。

 それで、なんとなく誤魔化す為に身体をくねらせながら答えた。

 

「だって素敵なんですもの。菜の花畑にお日様とお月様ですよ~!見に連れて行って下さる?」


 見ていると徐々に精神的疲労を感じた。


「…………」


 トクトアは自分の全身が固まったように感じた。

  彼は思った。昔、ある書で読んだ、〈目が合うと身体が石化する魔物〉 に遭遇したみたいだと。



 役に立つ?豆知識。

 易経について。中国の古い書の一つで、儒教の経典の一つ『四書五経』に入る。

 陽の記号 ―と、陰の記号 ーー のどちらか、あるいはその両方色々6本組み合わせて出来る64組、もしくは64の意味を解釈して占う。占い本です。

 卦と言えば、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」、相撲の行司の掛け声「八卦良い!のこった…」もそこからかも?「えん」は中国語では演算、算数の意味。フビライ皇帝は風水マニア?けっこう験担ぎしてますし、いろんな宗教を手厚く保護してました。

 

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