第29話 大事件


 翌日―― 雪花シュエホアは行き先を執事のトゥルムに告げた。


「……承知致しました。しかし、条件がございます。侍女の一人をお連れ下さい。お嬢様がおひとりでお出掛けになった事が若君に知れましたら、今度は、あの程度ではお済みになりません」


 この執事は意味深な含み笑いをした。

 今度はお尻を叩くぐらいでは済まない?いったい何をするというのだろうか?

 お供は柳花ユファにお願いすることにした。


「お嬢様とご一緒出来るなんて、とても嬉しいです!」


「私もユファと一緒に行けて嬉しいわ!ハイランも連れて行きたかったんだけど、久しぶりに実家に帰るらしいから、また今度三人で行きましょうね」


 口ではそう言っているが、本当はひとりで行きたかった。

 しかし、そうすればトクトアのお仕置きが待っている。

 どの時代でも、淑女レディの独り歩きは駄目らしい。

 いつの時代だったか、ある国の風俗史に書いてあったのだが、お嬢様は必ず付き添いの女性を連れて歩くのだそうな。

 理由はお嬢様がしてしまった屁を誤魔化す役だという。お嬢様が屁をしてしまった場合「あ、今のはあたしだったんですよ!」って代わりに言うんだとか。

 お嬢様なら屁なんか人前でするなよ、と言いたい。


(私ならユファにおならの濡れ衣を着せるくらいなら、自分でなんとか誤魔化すわよ。でも、何処の国だったっけ?まっいいか!)


 アホな事ばかり考えながら歩いていると、いつの間にか積水潭沿いの斜街市しゃがいしに着いていた。

 大都の中央に広がる積水潭は、巨大なへちまの様な形で、大きく斜めに広がっている。

 理由は景観もそうだが、対岸が近くなるから船での移動も楽という事だろう。多分。

 斜街市は湖に沿って市場や町があるのでそう呼ばれており、北端の斜港近くには繁華街がある。

 西の対岸には住宅街、そこから大通りを行きそのまま南に行けば羊角市ようかくいち(家畜等)や寺院がある。

 今日も朝から市場は活気に溢れていた。船着き場には沢山の船が停留しており、いろんな国の言語が飛び交う中、沢山の積み荷が人足達によって運ばれていた。


「 流石は ″ 貨宝ことごとく来たる ″っていうだけあって、凄い市場の数だわ!」


 市場は世界各地から来た物で溢れていた。なんと、インド、地中海沿岸地域、遠くアフリカからも物資が運ばれて来るというから、本当にその言葉通りである。


「お嬢様、やっぱり大都の港は凄いと思います。来る度にいろんな国の人と物資がありますもの!私は高麗から貢女ゴンニュとしてこの国に連れて来られましたが、自分の目で見るまでは全く想像もしませんでした」


 ユファは故郷高麗での暮らし、国の為貢女に選ばれた事、辛い旅の末やっと大都宮城に着いたが、皮疹を患ったせいで宮女の選別から外れてしまい、奴婢ぬひ民妓みんぎに落とされると決まった事、そして宮城から追い出され引き立てられる途中に高熱からか倒れて動けなくなった所を偶然通り掛かったトクトアに助けられた事を話してくれた。


「トクトア様は私の命の恩人です!」


 ユファは目に涙を浮かべていた。

 シュエホアはユファを抱きしめ背中を擦りながら言った。


「とても偉いわユファ!あなたはきっと強運の持ち主で、前世は徳が高い人かもよ!さあ、泣かなかないで。大丈夫よ」


 シュエホアは悲しくなった。

 彼女は永久に故郷に帰る事が出来ない運命だった。貢女になった女性は、例え帰れたとしても帰還女グゥイハァイニュ(無節操な女)と蔑まれて生きていくしかないのだ。

 国の為に家族と離れ、泣く泣く旅立ったというのに世間は余りにも無慈悲だ。

 しかも、ユファは文句も言わないどころか、シュエホアやトクトア、バヤン、屋敷の人々に出会えて嬉しいと言った。

 なんと健気で、心が綺麗な娘なのだろう。

 自分を恥ずかしく思った。


「ユファ、何か甘いものでも食べましょう。ほら、お菓子を売っているお店があるわ!行きましょう!」


 ユファの手を引いて歩き出した。

 慌てて行ったてしょうがない。

 露店で南国果物の砂糖漬、揚げ菓子、果汁の入った茶を買い、二人は近くの長椅子に座って湖を眺めながら食べた。

 どれもとっても甘かったが、この時代では砂糖は貴重品だ。味わって食べよう。


 文具・書籍市へと歩く。


「もうすぐよ!この通りを歩けば、本屋さんの前を通るの」


 二人が文具・書籍市にたどり着くと、女店主の店前に大勢の人だかりが出来ていた。


「あれ?今日は、もの凄く繁盛してるわね!」


 しかし内心はこう思っている。

 何のジャンル分けもされておらず、店の奥から表の方まで積んだか積んだかの状態の本屋なのに、いったい何の魅力が?と。


(ま、まさか隠れた名店かも!?)


「お嬢様、お役人の方の姿が見えますが、いったい何でございましょう?」


「あら本当ね。まさか事件があったなんて事はないでしょうね……」


 なんとなく嫌な予感がした。


「とにかく。もう少し、近くへ行ってみましょう。店主の事が心配だわ」


 二人は互いにはぐれない様に手を繋いで野次馬達の間をすり抜ける様して前へと進んで行った。

 そしてやっと一番前へ出る。

 そこで見た恐ろしい光景――

 ユファに現場を見せまいと前を遮るのように立ったが遅かった。

 余りにも凄惨な光景を目にしてしまったユファは、シュエホアにしがみついたかと思うと、その場で気を失ってしまった。

 シュエホアは倒れ掛かったユファの身体を支えるが、力の抜けた人というのは非常に重く、その場で一緒に沈むようにしてしゃがみ込んだ。

 無理をして共倒れになるよりはマシだ。

 目線が低くなると、周りの野次馬が鬱陶うっとおしくて仕方ない。

 野次馬に怒る役人の偉そうな声もいらつかせる。


「大丈夫かい!?」


 近くにいた初老の男性と若い男性が二人を野次馬の中から救い出し、近くの休憩所に連れて行ってくれた。

 市場に買い物に来たお客の為に設置しているらしい。


「ありがとうございます!助かりました!」


「いや、礼なんていらないよ。なあ?」


 初老の男性はそう言って、若い男性の方を見た。


「ええ!当然の事をしたまでです」


 なかなか感心な若者だ。

 初老の男性はこの市場を取り仕切っている商人の一人で、若者は息子だという。


「お水持って来たよ!」


 近くの文具店のおかみさんらしい。

 面倒見の良さそうな女性だった。


「すまないね。助かるよ!」


 初老の男性はおかみさんから木製のコップを受け取った。


「……う……ん」


 ユファは気が付いたらしい。目を開けると自分の周りにシュエホアの他、見知らぬ人も混じっているのできょとんとしていた。


「ユファ!気が付いたのね!!」


「おお、良かった良かった!」


「君、大丈夫?」


 皆、心配そうにこちらを見ているのが分かると、びっくりして起き上がった。


「す、すみません!!私ったら気を失ってしまって…… 皆様!ご、ご迷惑おかけしてしまって本当に申し訳ございません!」


「いいえ、あなたが悪いんじゃないわ。私が頼んだばっかりに、こんな目に合わせてしまったんですもの。こちらこそごめんなさい!」


 シュエホアは初老の男性と若者にも謝った。


「いや、悪いのは私達だよ。もう少し、早く発見してたら良かったんだが……多感な年頃にはさぞかし堪えたと思うよ。かわいそうに。本当に済まなかったね。これは斜街市始まって以来の大事件だ。残念なのがあの女店主の事だよ。親切で優しい人だったから寂しくなるよ。本当に惜しい人を亡くした……」


 市場の商人の男性とその息子は肩を落としていた。

 さっきの状況をまた思い出してしまったのか、ユファは貰った水が飲めないくらいに身体を震るわせていた。


 女店主は、入り口の戸の前で、まるで身体中の血を流し出したかのような、絞り尽くしたかのように、真っ赤な血の海の中で横たわっていた。

 場所は白っぽい石畳だから血の色がより鮮明に赤く感じた。

 人の体内にはこんなにも大量の血があったなんて……


 死因は刃物による出血死というが……


 強盗の仕業らしいと、商人親子から聞いたが、どうも納得出来なかった。

 帰り道、両足がまるで鉛の様に重く感じた。女店主の言葉が胸に蘇った。


 ――あなたを助ける事は、私にとっても、救いになると思っています。どうかその美しい魂の輝きを大切に!


 自分が未来から来た事を知っている、唯一の人だった。


(未来へ帰る道が閉ざされた……)


 橋の上に差し掛かると、たまらず欄干に寄り掛かって泣いた。

 人通りもあったが気にしなかった。

 ユファも釣られて一緒に泣く。

 共に泣いてくれる人が側にいるというのはありがたい。

 しばらくすると引き潮の様に徐々に涙も引いていった。


(いつまでも泣いてばかりいたらいけないわ!女店主の無念を晴らさなければ!)


 絶対に死因は刃物によるものじゃない。

 そう確信した。

 しかも最も気になる疑問が解けていない。


 それは分からないの――


 どうやって彼女は、自分が未来から来たことを知ったのか?

 どうして自分を助けることが、彼女自身を救うことに繋がるのか?もう分からないことだらけだ。

女店主は理由を語らないまま亡くなってしまったから。



 役に立つ?豆知識

 貢女とは。

 高麗が中国の皇室に献上した女性。

 元朝は、その他にも宦官にする少年や、法外な貢ぎ物を要求した。

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