第20話 受難


春の夜風は心地良く、何処からか芳しい花の香りを運んで来た。


 月には春霞がかかって優しく光る環を作っている。そんな夜の出来事。

大都一の妓楼、紅閣楼は、政府の高官や大商人の会合にもよく使われている社交の場だ。

 バヤンとトクトアも会合の為、出席している。

 会合なんて言うが、大した談義をするでもなく、話は直ぐに切り上げられ、その後は決まって宴会の流れとなるのは毎度のことだった。

 要するに、みんなで酒を飲むのにいちいち理由を付けているのである。

宴が始まると、とびっきりの美女達がやって来てむさ苦しいおじさんの両脇に座る。


「ワハハハ。両手に花だ!!」という時代劇ドラマなんかによく出てくる風景だ。

 勿論、むさ苦しいおじさん達に混じって若い男性もいる。


「トクトア様!お久しぶりです!!」


艶やかに着飾った妓女達は、競うようにしてトクトアの前に集まった。


「ちょっと、抜け駆けはなしよ!

トクトア様、今宵も素敵!!」


「トクトア様!今度、私の簪を見立ててくださいな!」


「何よ!それくらい自分で選びなさいよ!あんたなんか、庭に生えてる木の枝で充分よ!!」


「そういうあんたの首飾りなんて何?犬の首輪でしょ!?」


とまあ、いつもこんな感じで、夜の名花達はトクトアが来ると、決まって激しく火花を散らすのである。

 宴もたけなわの頃、明日は全員が出仕ということで早めのお開きとなった。

 帰り際、トクトアは隙を見て、そっと文と一緒に、渡し賃を遣り手婆に手渡した。


「ありがとうございんす。確かにお渡し致しんす」


遣り手婆さんはほくほく顔で去って行った。

 そこへ女将が、逃がしてなるまいぞ、とササッとトクトアの側に寄って来た。


「トクトア様、お帰りになるには

まだ、お早いのでは?この前、お頼みした件ですが……」


実は、女将から妓女の水揚げをお願いされていたのだ。


「済まぬが他の誰かに頼んで欲しい」


女将はそう簡単には引き下がらなかった。


「トクトア様のような高貴な方がお相手なら、あのにとってこれ以上の名誉がありましょうか!?

飛燕とはしっかり話をつけてきましたのでどうか、お願い致します」


飛燕とはトクトアの馴染みの名妓で、大都一の美女と呼び名も高く、

その名の通り、舞う姿は空を飛ぶ燕の如し、と称さている評判の売れっ妓。

 古琴も得意で教養も高く、名うての風流人はみんな彼女の上客だと言われている。

 バヤンとトクトアの口論の原因となった妓女とは、彼女のことであった。

 残念なことに、今夜は先約の座敷に出ているという。


「女将、何度言われても私の気持ちは変わらぬ」


そこへ甥の窮地を救わんと、バヤンが現れた。


「おお女将、すまぬな!トクトアにはな、寵姫が出来てなぁ。これが箏の名手で、毎晩側で聞いておるのだ」


それを聞いたトクトアは珍しく、慌てて否定する。


「何をおっしゃいます、伯父上!」


「ハハハ、照れることはないではないか!」


「まあ!それは大変失礼致しました。そのようなお方がいらっしゃるとは!どうか今のことはお聞きにならなかったことに!」


女将は表向きは恐縮している様子だが、やはり大都一の看板を掲げているだけあって矜持も高く、また直ぐに艶やかな微笑を浮かべているのは流石だ。


「箏の名手でいらっしゃるとは!

お噂に聞いておりますが、本当なのですね。しかも絶世の美女とか。

こちらも負けぬ様、芸には一層精進致してゆく所存でございます。どうか今後も、よろしくお願い申し上げます!」


女将は闘志を燃やしている。

そりゃそうだろう。美貌、伎芸、教養、会話術、どれも一流を自負している彼女達だ。

しかも現在、出世街道を爆走中のトクトアを夢中にさせているのだ。

謎の美姫は、自分達を脅かす存在と認識しなければ。

 将来有望の人材は、常に自分達の側に惹き付けておかねばならず、それが成功の証だと女将は思っている。



帰り道、バヤンはかなり酔っているようで、隣を一緒に歩いているトクトアを見て驚いた。


「おお、トクトア!其方は双子になっておるぞ!」


甥っ子が二人に見えるのだから、これは相当飲んだようだ。

 吐く息が酒臭く、おまけに歩行も千鳥足ときている。

 見兼ねたトクトアがバヤンの側に寄って、傾きかけた身体を支えた。


「伯父上、お酒はほどほどになされませ!夜道は危のうございます。

酒は飲んでも飲まれるな、と言います」


バヤンはトクトアの肩を軽く叩きながら、ワハハハ、と上機嫌で笑った。


「ほんに。今夜は、ちと飲み過ぎたな…… だが夜風が心地良いぞ!もう、この辺で寝るか?」


バヤンはトクトアから離れ、いきなり道端で大の字に寝転んだ。


「トクトア、武将というものは、いつでも何処でも眠れるのだぞ。私は若い頃から数々の戦場を経験した、時には敵の屍身を枕に寝ることもあったのだ」


急に真面目な顔をし、胸の上で腕を組み真剣に話しをしているが、どう見たって酔っ払いが戯言を言っている図だ。


誰かが見たらさぞかし滑稽に思うことだろう。

こんな所を知り合いにでも見られたらと思うと、トクトアは内心勘弁してくれと思った。


「そのお話は何度もお聞きしました。しかし伯父上、ここは戦場ではありません。今は大都の街の通りで寝ています!恥ずかしいとは思いませぬか?」


「なんだと!?何が恥ずかしいのだ!武将にとって戦場で死ぬるは本望なり、だ!」


(駄目だ…… かなり酔っておられる)


トクトアは深くため息をついた。


(護衛の者を先に帰したのは、やはりまずかった。さりとて、伯父上を独りこの場に置いて、馬を連れて戻る間に、伯父上の身にもしもの事があれば……)


トクトアがこの状況を解決する方法を考えている間、バヤンの方は既に寝息を立てて寝入っている。


(こうなれば致し方ない……)


ここで少し休憩を取って、その後伯父を無理にでも起こしてから帰るしかない。

 トクトアはゆっくりとその場に腰を降ろし、道端でぐうぐうといびきをかいて眠っているバヤンを見て、また深いため息をついた。


(伯父上はなんと、豪胆な方なのだろう……)


今頃、雪花シュエホアが帰りを首を長くして待っているだろうと想像した。

 夜はシュエホアと一緒に書斎で本を読むことが日課になっていた。

 どちらかが言い出したことではなく、自然にそうなっている。


(これでは、まるであいつと一緒にいることが、楽しいみたいではないか。しかし…… 何であいつが絶世の美女なんだ?)


噂というものは実にいい加減なものだということが分かる顕著な例だ。

 しかし箏の腕は本物で、あの日以来、街の色好みの男達が引きも切らずにやって来ては塀の中を覗こうとしていた。

 バヤンと執事はいつもその対応に追われていた。

対応と言っても、ただ見えなくなるまで追いかけ回すだけだが。




………今は、いったい何時だろうか?


トクトアは、うっかり自分も寝入ってしまいそうになっていた。

だが、直きに全身の感覚を研ぎ澄まさねばならなくなった。


(……人の足音が近付いて来る?しかも複数だ。これは……)


トクトアは急いで、バヤンを揺り動かした。


「伯父上、起きて下さい!!賊が来ました!!」


これで、伯父は目が覚めるだろうと思ったが、その考えは甘かった。


「うーん、何の族だ?待てよ…… 賊?まあ、いいんじゃないか……」


駄目だ、全く起きるつもりはないらしい。それどころかまるで他人事のようだ。


トクトアはもっと深いため息をついた。

 こうなったら独りで応戦するしかない。

トクトアは覚悟を決め、抜刀するとバヤンから離れて前方へ移動した。自分は伯父の矢面に立つ。

これが今の自分の役割と考えた。


現れたのは黒い装束に覆面をつけた賊の一味。

賊の頭目と思われる男が、覆面のためにくぐもった声で言った。


「おい若造。命が惜しかったら金目の物を置いて行け!そうすれば命だけは助けてやる!」


やはり盗賊だ。

 相手は怖がらそうとして抜き身の剣をちらつかせている。

 トクトアは落ち着き払った様子で答えた。


「最近、大都で妓楼帰りの酔っ払いを狙った賊がいる、と話に聞いていたが、お前達のことか。残念だったな、お前達にくれてやる金などない」


このトクトアの、全くこちらを恐れていない態度と物言いに腹を立てた頭目は叫んだ。

 随分と気が短い頭らしい。


「なんだと!生意気な若造だ!殺ってしまえ!」


剣をトクトアに方に向けた。

子分達にかかれ、の合図だ。


「死ぬのはお前達の方だ……」


トクトアは冷静に状況を判断し、まず先に突進して来た賊の一人を袈裟懸けにした。

子分は低い呻き声をあげて足元に倒れた。

 この見事な太刀筋に、子分達は一瞬怯んだ。

 その隙を突き、今度はトクトアが攻める。俊敏な身のこなし。

 そこから次々に繰り出される剣には慈悲などない。

一人、二人、と確実に息の根を止めていく。

 それでも不安がない訳じゃない。

こうして応戦している間も、道端で泥酔しているバヤンの事が気がかりで、いまいち集中出来なかった。

そこでトクトアは一旦逃げるふりをしてわざと賊に追いかけられるようにした。

 親鳥が雛を守るために敵を自分に惹き付けるのと同じだ。


すっかり頭に血が登った頭目は叫んだ。


「はあ!?なんでぇあいつ!?追いかけて捕まえろ!!」


頭の悪い賊達は、まんまと策にはまってトクトアの後を追いかけ始めた。


「野郎!待ちやがれ!ぶっ殺してやる!!」


盗賊達はみんなで追いかけているせいか、気も大きくなって勢いもついてきたらしく、口々に何事か言いながら走って追いかけた。

トクトアは盗賊が自分を追いかけて来るのを確認すると、馬鹿にしたような笑顔を見せ、そこから急に速度を上げて走った。

みるみる盗賊達との差は広がって行く。

ますます怒り狂う盗賊の頭とその子分達。

 ぶっちぎりの速さで盗賊を引き離したトクトアは、石灯籠など死角になるような場所に隠れて賊をやり過ごすと、今度は自分が賊を追いかける側に回った。



「ハア、ハア、あの野…郎…何処行き……やがった!?」


 息を切らした盗賊達は地べたに座り込んだ。


「くそー、うん?何か聞こえないか?」


盗賊達は互いに顔を見合わせた。

後方から足音が聞こえた。子分の一人が後ろを見て驚き、指差しながら叫んだ。


「お、お頭!野郎が来やす!!」


「え?何で後ろから!?」


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