第19話 箏の音



 ある雨の日の出来事。

 その日は朝から降りだし、宮中に参内する者達を憂鬱な気分にさせていた。


「雨が降る日に出仕とは、面倒臭いなぁ。休みたくなるわい」


「しかし、本日は朝議があります。

 出仕しませんと!」


 トクトアは、雨避けの上着をバヤンに手渡した。

 伯父の泣き言に一切取り合わない非情な甥だった。

 

「宮仕えとは、ほんに辛いものよのう。朝議ってあれか?最近、妓楼帰りの酔っ払いを狙った賊の一味の事だろ?」


「はい。賊はモンゴル貴族、色目人しきもくじん商人ばかりを狙っているとか」


 バヤンは上着を羽織りながら、大した事ないな、と笑った後こう言った。


「やられる奴が悪い!」


 そりゃバヤンなら反対に返り討ちをするだろう。


「ところで、あの娘はどうしておる?見送りに現れんのか?」


 廊下を小走りしながら現れた。

 その後ろから執事、家人達がやって来るのが見えた。


「こらこら、廊下を走ってはならんぞ!」


 まるで、初めて走り始めた幼子を心配する父親のようだ。


「ごめんなさい、気をつけます!」


 雪花シュエホアは二人の間に入ると、両者の腕を取って一緒に歩いた。

 その姿を見て微笑む執事と家人達。


「其方、何やら大切な物を無くしたらしいな」


「え?大切な物ですか!?」


 そんな事を突然言われても、全く検討がつかなかった。


「家人達が言っておった。ほとんど毎日のように呟いておるとか。いったい何を無くしたのだ!?帰りに買って来てやるから、言ってみなさい」


「伯父上、近頃シュエホアを甘やかし過ぎです!」


 トクトアがシュエホアの髪をぐしゃぐしゃと撫でくり回した。


「ちょっと、トクトア様!髪が乱れます!」


「ふん、癖毛が酷いから分からぬ!」


(ちょっと、私が気にしてるのに!)


 バヤンはそんな二人を見て目を細める。


「ハハハ。トクトア、妬いておるのか!?」


「……いえ。実は、私もその失せ物とやらが気になっていたのです」


「シュエホア聞いたか?トクトアも気になって入るそうだ。いったい何を無くしたんだ?なんか、二つの大きいモノを失ったとか何とか聞いておるぞ。言ってごらん!」


 はて?二つの大きいモノとは!?


(え?鞄の中身なんて誰にも言ってないけど、何だろう?)


「わかりましたぞ!」


 得意げに執事が言った。


甜瓜メロンでは?」


「食い物ではなかろう」と、トクトア。


鉄炮てつはうではないのか?」と、バヤン。

 

 元寇で登場する武器というのか?危ないぞ。


「ひょっとして、絹糸のマリですか!?」と、ユファ。


「馬鹿ねぇ違うわよ!お嬢様!玉石ですよね!?」と、ハイラン。


「二つの大きいモノ…… そんな玉石なんて安いもの!真珠の入った袋が二つでは?」と、侍女監督ナルス。


(え?まさか、無くしたモノって……

 私の胸の事かしら!?私ってそんなに呟きまくっていたのかしら?)


「も、申し訳ないんですけど…… お店には無いです。絶対に買えません……」


 それだけ言うのがやっとだった。


「何だと!そのようなモノを持っておったのか?という事は…… 世界にたった一つ。か!?」

 

 バヤンを始め、皆、気の毒そうにシュエホアを見た。


(ちょっと何よ。皆の憐れみの視線が痛いわ……)


「いったいどんなものか見てみたいもんだ!」と、バヤン。


(見せれたもんじゃござんせん!)


「私は触ってみたいものです!」と、執事。


(触ってもらったら困ります!セクハラです!)


「頬擦りとかは出来るのか?」と、最後にトクトア。

 彼らしくもない驚きの質問だった。


(キャーそこ、真面目な顔して言わないで下さい!!って、何で頬擦りなんですか?ひょっとして分かって言ってます!?)





 午後になると、雨は更に激しさを増した。


「うわー、きつい雨!二人は大丈夫かしら?帰りには止むと良いけど……」

 

 雨音を聞いていると何だか眠くなってくる。寝台で横になりながら本を読んでいるといつの間にか寝入ってしまった。

 またあの美しい女性の夢を見た。

 長い黒髪、艶やかな絹の衣装がとても素敵だ。女性は箏を奏でていた。

 その美しくも、悲しい旋律に涙が出てきた。涙を拭い、顔を上げると驚いたことに、今度は自分が箏の前にいた。

 女性は何処へ行ってしまったのだろうか?夢はそこで覚めた。


 寝台で横になったまま目線を箪笥の上に合わせた。そこには誰にも触れられる事なく仕舞われたままの箏が置いてあった。

 ユファから聞いた話によると、以前あの包みを開けた侍女がいてバヤンから大目玉を食わされたらしい。

 しかしシュエホアは、躊躇う事なく箏が入った包みを箪笥から降ろし包みの布を取り払った。


 箏は紫檀したんの木で作られ、龍額りゅうがくの部分は花の彫刻が入っていた。恐る恐る箏の弦に触れてみる。指先で弦を弾くと美しい音色が流れ出した。そこからはもう止めるつもりはなかった。

 指先は、繊細に動き、まるで滝から落ちる流水のように優雅な調べを奏でていく。

 揺指トレモノで河のさざなみを起こし、指を横に滑らせ弦を押さえて巧みに音の強弱を自在に操り大河とし、遂には海に交わる風景を表現した。

 


 夢か幻か。

 本当に生きているのか?実は死んでいるのではないか?

 本来ならここにいるはずのない自分の存在に不安を覚えた。

 少女だと思われている自分。

 そう見える様に演じている節もある。本当は違うのに。

 アンバランスな心と身体。

 今まで培った経験、生き方、価値観で、この異常事態を自分なりにいろいろ考えているが、例え真実を話したとしてもいったい誰が自分を理解してくれるというのだろう?

 

(いったい何を拠り所にすればいい?)


 その思いは、独りになるといつもやって来くるのだ。孤独感と虚無感はいつも仲良く連れだって現れた。

 箏を弾く事が、今の自分にとって唯一の救いだった。箏は幼い頃、蘇州の祖母より習っていた。占いが趣味で霊感の強い人だった。


「さあ、この方の魂を慰めてさしあげましょう。今、目の前にいらっしゃるから……」


 誰も居ないのにそう言っている事があった。


(私の魂も慰められるだろうか……)


 夕方になると、雨は次第に小降りになってきた。

 バヤンとトクトアが帰る頃には雨もすっかり上がっていた。

 愛馬に乗り、水溜まりを踏みながら帰る。


「伯父上!あれをご覧下さい!」


 トクトアが屋敷の方向を指差した。

 屋敷の前に人だかりが出来ている。


「な、なんだ?ま、まさか…… 屋敷で怪我人でも出たんじゃあるまいな!?」


 しかし、屋敷の門まで来ると、そのは不安は取り越し苦労だと分かった。二人はホッと胸を撫で下ろした。


「じゃあ、いったいこいつらは…… なんなのだ?」


 集まっているのは何故か男ばかりだ。

 

 「おい!ほ、本当に絶世の美女なんだろうな!?」


 誰からそんないい加減な話を聞いたのだろうか?SNSもびっくりの速さである。


「ああ、間違いないよ。だって白い顔が見えたんだ!」


 いや、それは君の勝手な想像力が見せた幻影だ。

 奥の部屋まで見える筈がないではないか。


「あの音色は天女も顔負けさ!迦陵頻伽かりょうびんがも恐れをなして逃げ出すぜ!!」


 凄いのを知っているな。

 なかなか学識のある若者のようだがこんな事をしてる暇があったら、早く家に帰って勉強をすれば良いのに。次の科挙の受験対策は万全なのだろうか?


「はあ、素晴らしい音色だ…… もう俺は妓楼なんか行かない!」


 今言った事は絶対取り消すなよ、である。


 男達は、夢中で塀の中を覗き見していた。

 中には塀の壁に顔を近付け穴が開いてないか確かめる者もいた。

 穴があったら覗いてやれ、との寸法だ。傍に屋敷の主であるバヤンがいてもお構い無しだ。

 バヤンはわざとらしく大きく咳をした。


「エヘン!オッホン!!人の屋敷の前で何をしておるのだ!?」


 男達は一斉にバヤンの顔を見ると、まるで蜘蛛の子を散らすように、慌てて逃げ去った。

 よっぽど怖い顔付きだったのだろうか?


「いったい何なのでしょう?」

 

 トクトアは、訳が分からないと言った顔をしていた。


「さあな!ったく!塀に穴なんか開けてないだろうな!?」


 バヤンは不機嫌な顔をし、めつすがめつしながら塀の壁の隅々を確かめた。

 その時、二人の耳に箏の音が届いた。


「伯父上、この音は?まさか

 伯母上の……」


「妻か!?」


 二人は箏の音がする方へ直行した。

 廊下には家人達が集まり、箏の音に聞き惚れていた。

 執事は感動の涙を流している。

 トクトアは言い知れぬ不安を感じた。


「かあさん!?」


 バヤンが叫んだ。

 トクトアは伯父の腕を掴んで言った。


「伯父上、落ち着いて下さい。伯母上がいらっしゃる筈がございません」


 いきなり、プツりと弦が切れる音が聞こえた。箏の音はそれっきり聞こえなかった。


 二人はお互い顔を見合せ、それからゆっくり部屋に入ると、青白い顔をしたシュエホアが箏の前にいた。


「……ごめんなさい」


 シュエホアは泣いていた。

 幾筋も涙が流れてるほどに。


「弦が切れてしまいました……」


 バヤンは黙ってシュエホアを引き寄せた。まるで幼子をあやすように、その小さな肩を擦っている。

 トクトアは懐かしそうに箏に触れながら言った。


「弦は私が買っておく……」


 心は癒された。

 自分は、昔からここに存在しているような気がした。

 

 

 ここにいれば安心よ――

 

 

 誰かが耳元で優しく、そう囁いた気がした。

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