第12話 貴婦人の部屋

 雪花シュエホアは深い眠りの中にいた。


 誰も体験した事がない、説明するのも面倒な異常事態のせいで、身体と心は酷い疲労と倦怠感でくたくたになっていた。

 泥のように眠っている。


 夢を見た……

 美しい女性が箏を奏でているその傍らで、五、六歳くらいの赤味がかった栗色の髪の可愛い男の子が本を読んでいた。


「箏の音が、お勉強の妨げになっていないかしら?」


「いいえ、その様な事はございません。私は、伯母上の箏の音がとても好きですから!」


「あら」


「本当です、伯母上の箏の音色は、天女が奏でる天上の調べだと私は思っております」


「まあ、なんと嬉しい事を!お世辞がとてもお上手ね」


「お世辞ではございません。伯母上こそが、真の貴婦人です!」


「其方は、大人顔負けの事を申すのですね。末恐ろしいがほんに、さかしい子です」


 美しい女性は、優しい微笑を浮かべて男の子の頭を撫でた。

 男の子はとても嬉しそうだ。



 誰なのだろうか?見たことのない人達だ。

 そして目が覚めた……


「あ~良く寝た!」


 熱も下がったようで、すっきり爽快な気分。

 

『健康な肉体には健全な精神が宿る』

 

 だったか?何かの本で読んだことがある。確かにその通りだ。

 肉体と精神の両方の均衡を保つことは大切と聞いたことがある。

 しかし起きて辺りを見渡すと、段々と気持ちが暗く沈んでいった。

 目覚めた部屋は、自分の部屋ではなかった。


「やっぱり、現代に戻っていない……」


 これから先、自分はどうすべきか?


「とりあえず、お日様の光を浴びよう!その内、何か良い方法が思い浮かぶかも」


 寝台から足を降ろし、床に両足を着けた途端、右足首が酷く痛む。


「そうだった!捻挫してたんだっけ。安静にしなきゃね……」


 それでもカーテンくらいは自分で開けようと、用意されていた履き物を使わせてもらい、痛む方の足を庇いながら、ゆっくりと窓側へと移動した。

 はなだ色の紗のカーテンを開けると、 朝日が障子を透して差し込んできた。

 軽く伸びをして深呼吸をしてみる。

 そのお陰か、気力が湧いてきた。


「気持ちいい。今日もお天気ね」


 光が満ちた室内を見渡す。

 昨日は、余りジロジロ見るのは失礼と遠慮していたが、今はゆっくり眺めることが出来きた。


 壁の色は象牙色。


 床には濃緑色の絹製の敷物。


 机と椅子は花梨の木で作られている。

 猫足が優美だ。


 屏風は孔雀がモチーフだが、背景を薄く優しい色彩でまとめており、ともすれば、派手になりがちな画を上品に仕上げていた。


 部屋と寝台の間の飾りの仕切りは、天井まで届く透かし彫りの大きな円月形。

 一見優雅だが、蹴躓けつまづくなどして、キズを付けないよう注意が必要だ。


 背の高い黒曜石の花台の上には、コバルトブルーの染料で描かれた青花がモチーフの白磁の壷が置かれ、生けられた芍薬、薔薇が室内を馥郁ふくいくとした薫りで満たしていた。


 鏡台や箪笥は紫檀したん製で、引き出し部分に螺鈿らでん細工がほどこされ、虹色の光を放っていた。

 どれも皆、質が良く、大切に扱われてきたのがわかる。


「なんて、素敵なお部屋!あれ?箪笥の上に長い包みがあるけど、何かしら!?」


 すぐに中身を見たい衝動に駆られたが、余所様の物に勝手に触れる訳にはいかない。


「何となくだけど、箏かな? 長さからして絶対そうだわ」


 昨夜の夢を思い出した。まさかあの女性の?


「もうお目覚めでいらっしゃいますか!?お嬢様」


 いきなり背後より、声を掛けられた。


「わっ、びっくりした!」


「も、申し訳ございません!お起こししては、と思い、お声掛けしないまま入ってしまいました!どうかお許し下さりませ!」


 見れば、年の頃は十三、十四歳くらいの少女がひざまづいていた。両手にはシュエホアの服を捧げ持っている。

 えらくかしこまっている様子だ。

 なんだか気の毒に思ってきた。


「そんなに気を遣わせてしまって、ごめんなさいね。さあ、立って下さい!」


 少女の手を取って立たせた。


「あ、あの、お嬢様、衣服が乾きましたので、お持ち致しました」


 少女は、益々縮こまった様子になり、おずおずと服をシュエホアに向けて差し出した。

 服を受け取り、緊張を解きほぐすよう話し掛けた。


「ありがとう。わざわざ乾かして持って来てくださったのね!まあ……そんなに畏まらずに気楽にして。私はそんなに大した人じゃないし」


「しかし、若君をお助けになった立派なお方です」


「ク、フフフ……」


 シュエホアは吹き出した。

 事実は小説よりも奇なり、とは本当だ。


 少女はうつ向いていた顔を上げ、きょとんとしている。その顔は、まだあどけなさが残っていた。


「そんな…… あれは怪我の功名みたいなものよ。上手い具合に虎の背に落ちたの!これって奇跡よ!お陰で私は助かった。 ところで、あなたお名前は?私は雪花シュエホアよ」


「私は、柳花ユファと申します!」


 少女は笑顔で答えた。えくぼが可愛らしい。


(可愛い子…… あ、そうだ!)


 丁度目の前に家人がいる。

 わざわざ厩舎まで馬を見に行かなくても、今聞けばいいではないか。

 遠慮がちに馬のことを聞いてみた。


「あの…… ここのお屋敷に白い馬っています?」


「いえ、申し訳ございません。おりませんが…… それが何か?」


 ユファは不思議そうに聞いた。


「あ、いえ、ほら!馬って白いの素敵よねって!私好きなの。ホホホ……」


(嘘!?いないの?ショックだわ……)


 がっかりした反面、少しホッとしていた。

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