夏思いが咲く
増田朋美
夏思いが咲く
夏思いが咲く
「それでは、本日の練習を開始いたしましょう。じゃあ、第一楽章から行きますよ。せーの、」
いつも通りの富士市の文化センターで、広上さんたちは練習を開始した。今日の練習曲は、ベートーベンの交響曲第七番なのだが、、、。
とりあえず始めの和音を出すだけでも、広上さんは嫌な顔をする。やっぱり皆さん音量が足りないし、ちゃんとラドミラの和音が出ていないじゃないかとすぐわかるのだ。でも、一生懸命、音をだそうとしている団員さんたちの顔を見ると、注意をするのかしないのかしきりに迷う。
「だめですねえ、一人ひとりがもうちょっと周りの音を聞きとってから、自分の音を出さなくちゃ。ただやみくもに音を出すだけでは、ダメなんですよ。オーケストラってのはね。」
「そうですけどね。広上さん。」
すかさずバイオリニストの一人が、すぐに文句を言い出した。
「其れはそうですけど、うちの楽団には、バイオリンを弾くだけで精一杯の人だっているんですから、もうちょっと加減してください。」
やれやれ、一寸注意するとスグこれだよと、思いながら、広上さんは額を手拭いで拭いて、
「じゃあわかりました。もう一回!」
と、えへんと咳払いをして、またタクト棒を振り上げる。
再び演奏が開始されるのだが、どうしても、今まで聞いてきた演奏と比べると、まだ、力不足というか音量が痩せているというか、そういう気がしてしまうのであった。
「あーあ、これではベートーベンらしく、堂々とした感じが出せないんだよなあ、、、。」
何て頭の中で考えながら、広上さんはとりあえず第一楽章のタクトを振った。
「よし、うまくいきました。じゃあ、次に気を取り直して、第二楽章に行きますよ。はい。いいですか。せーの、」
「広上さん、本当に今の第一楽章、本当にこれで良かったのでしょうか?」
ふいに、歳をとったオーボエ奏者がそんなことを言い出した。
しかし、細かいことを言うと、また、例のバイオリニストが、私たちは初心者だからと言い出すだろう。そういわれたら、広上さんも返す言葉かない。でもたしかに歳をとったオーボエ奏者の顔は真剣そのものだ。もうちょっと、アドバイスがほしいよという顔をしている。管楽器の奏者は、学生時代から長くやっていた人が多く、ある程度の難曲も吹いてしまえる人が多いのだが、弦楽器奏者はそうではなく、バイオリンを初めて数年という者も少なくない。そんな人に、ベートーベンの交響曲は過酷なものであるから、少し加減をしてやってくれという、バイオリニストの気持もわからない訳ではない。そういうところがプロではなく、アマチュアのオーケストラの一番難しい所だと思った。
「もうちょっと、わしらの事も考えていただけないでしょうか。わしらは之でも一生懸命やっております。いくらアマチュアであるからといって、わしらは、音楽を愛する気持ちは十分に持ってますよ。ですから、第一楽章、うまくいったで片付けないでください。」
「でもですね。あたしたちは、まだバイオリンを習い始めたばかりって事も、考えてくださいよ。」
オーボエ奏者が言うと、すぐにバイオリニストがいった。全く、彼女も、もう少し、考えてもらいたい者であるが、女というものは、なぜかいいたい放題になってしまうらしい。
あーあ、と広上さんはため息をついた。
「じゃあ、もう一回行きますよ。じゃあ、しっかりやってくださいませ。行きますよ。第一楽章。はい。せえの、」
再び第一楽章が開始される。でもやっぱり痩せた演奏だなあと思いながら、広上さんは、タクトを振るのだった。
「あーあ。今日も疲れたなあ。全く、こんな演奏を指揮するなんて、俺もどうかしてるよ。」
と、思いながら今日も広上さんは、市民センターをでた。頭をふりふり、広上さんは、駅まで向かって歩いていく。駅は、さほど遠くないので、何時もは歩いて行くのだが、今日はなんだか、駅が遠すぎるような気がする。
駅がいつまで経っても、到着しないので、広上さんは、それではしかたないかと、近くにあった屋台のおでん屋に入った。
「へい、いらっしゃい、何にいたしましょう?」
おでん屋のおやじさんにいわれて、とりあえず席に座る。
「あ、ああすまん。じゃあとりあえずビール一杯。」
「あいよ。」
親父さんにまずいビールを渡されて、しかたなく、まずいビールを堪能していると、車いすの音がした。
「あれれ、広上さんではないですか?」
と、いいながら、現れたのは蘭だった。
「おう、まさしくそうよ。蘭じゃないか。こんな所で何をやっているんだ。」
「まあ、のけ者にされちゃった感じかな。おじさん、ビール下さい。」
広上さんがそう聞くと蘭はそうこたえた。おじさんがビールを出してやると、広上さんは蘭にビールをついでやった。
「のけ者か。俺もそんな感じだよ。どうせ、アマオケの指揮者をしていたって、なにも得はしないもの。俺は一体何をしているんだろうっていつも悩んでいるよ。」
「でも広上さんは、やれることがあるでしょう。オーケストラの人たちから、尊敬されているでしょう?其れなら、悩むこと何か何もないでしょうに。」
蘭は、いかにも一般人らしい事をいった。大体の人は、音楽家の人と言うと、悩んでいる事なんて何もないだろうなと思ってしまうらしい。其れは、蘭も同じだった。
「そうか。蘭もそう思ってしまうか。」
広上さんは、少しため息をついた。
「そうですよ。僕なんて悩みの塊です。悩まない奴なんて、水穂くらいな者でしょう。僕は之だけ水穂の事を心配しているのにどうしても届かない。」
蘭はがっかりと落ち込む。
「そうか、水穂はどうしているんだ。」
これは広上さんも非常に気にかけている事であったので、蘭に尋ねた。
「そうですね。少しも良くなる気配がありません。それどころかますます弱っていくようです。」
蘭は正直にこたえた。
「そんなに!」
「そう何ですよ。何とかしてやりたいって、思うんですけど、無理なものは無理なのかなって、考え直すようにといわれてしまって。これまでに何回も何とかしてやりたいと思ったのですが、其れでも、ダメなんですよね。」
蘭も蘭で、どうしても誰かにいいたかったのだろう。いい終わった後で、出されたビールをガブッと飲み干した。
「そうなんだね。だけど俺はまだ諦めていないぞ。来年の夏の音楽祭りには、是非あいつにでてもらうんだからな。リストのピアノ協奏曲第三番、やってもらわなければいかん。あの幻の協奏曲を、さらりと弾きこなせるやつはあいつしか居ないんだ。絶対にやってもらわなくちゃ。難しすぎて、あの曲をやれる奴は誰もいないぞ!」
蘭は、その協奏曲はどういうものであるか、あまりよく知らなかったが、とにかく難しい曲なんだという事はわかった。少なくともリストという作曲家は、作品にちょっとくせがあって、簡単に演奏できないという事は知っていたので。
「リストですか。すごい難しい作曲家であることは知っていますけど、そんなものがこの富士市で、流行るんでしょうかね。」
「お前までそういう事をいわないでくれよ。オーケストラの人たち、みんなありふれた曲では満足してくれないんだから。どっちにしろよ、アマチュアレベルのオーケストラ何て、モーツァルトの交響曲でさえ精一杯なのに、そんなありふれた曲では満足してくれないんだから。」
蘭がそういうと、広上さんは苦笑いした。そうなると、日本の音楽業界の現状がみえてくる。演奏者は、数多くの曲を知っていて、難曲も弾きこなす事も出来て、それをステージでどんどん演奏したがるのだが、普通に暮らしていれば、そのような音楽に触れることはまずないから、単なる退屈な演奏としかみられない。
「まあねエ。うまく解説を入れるなりして、音楽祭り、成功するといいですね。」
蘭がそういうと、広上さんは、まだやってないぞ、という顔をした。
「だから、そのためには必ずあいつが必要なんじゃないか。ソリストが居なかったら、協奏曲はおしまいだ。そのためにも早く良くなってさ、動けるようになって貰わなくちゃ。」
動けるようにか。そんなこと、当の昔に出来なくなっていると、杉ちゃんから聞いていた。蘭は、それを
いうべきなのか、いわないほうがいいのか、まよってしまう。というのは、広上さんの話にはまだ続きが
あった。
「俺はな、いまの時代であれば、なんでも商品になると思うんだ。水穂が出身階級がまずかった事はすでに知っている。でも、それがなんだっていうんだよ。それを看板にして、ピアニストとして活動してもいいんじゃないかと思うんだ。ほら、今はさ、あの辻井何とかというピアニストみたいにさ、目がみえないのを売り物にして、演奏活動している奴だっているんだからな。コンプレックスだって、其れも売りに出来る時代だよ。いってみれば、負の要素だって、角度を変えればプラスすることだって出来るんだ。暴力団に入っていた奴が、弁護士になった事もある。そういうことだってあるんだからよ。だから、水穂だって、活動する可能性は十分にあるよ。俺はそれをしっかりあいつに認識してもらいたいと思うんだが、だめなのかなあ。」
蘭は、そうなると、またたいへんなことになるんだろうなと思いながら、それを聞いていた。たしかに蘭自身も水穂によくなってもらいたいという気持は十分にあったのだが、其れは広上さんのいう事とは違っていた。たしかに、演奏を再開してほしいという気持は蘭にもあったが、出身階級を大っぴらに公表して、という事は、してもらいたくないというのが本音であったからである。
「だから、水穂にも早く立ち直ってさ、来年の音楽祭りには是非でてもらいたいと思うんだが、それではダメかなあ。」
広上さんは、またビールをあおった。
「まあ、それでも頑張ってくれよ。そういう事は僕はちょっといえないな。」
とりあえず蘭は、そこまで言っておく事にとどめておく。
「なんだ、お前も手伝ってくれるんじゃなかったの?」
広上さんは当たり前のように言うが、
「いいや、僕も、そうなってほしい気持は持っているが、もういろんな事を試したけれど、全部失敗に終わってしまった。そんなんじゃ、もう手出しは出来ないだろうから。」
と、蘭は断ってしまった。
「そんなこと言うなよ。諦めずに、説得を続けることも大切だと思うぞ。だって、死にたいと言っているひとに対して、放置しておくことが出来るのは日本だけだ。ほかの国へ行ったら、何も治療をしなかったという事が発覚すると、放置していた人まで逮捕されちゃうんだぞ。」
「そうだねえ、、、。」
そういわれて蘭は困ってしまった。たしかに欧米ではそうなっているらしいが、日本ではまだそのような法律は何処にもない。
「だから、俺も手伝うからさ、水穂になんとしてでも、音楽祭りにでてもらえるように、説得しようぜ。一人では失敗したかもしれないが、二人なら何とかなるかもしれないじゃないか。」
広上さんは、蘭の肩をポンとたたいた。
「そうだねえ、、、。」
またまた困ってしまう蘭。
蘭のそういう優柔不断なところは、杉ちゃんたちもしっている。でも、広上さんは其れはよく知らないため、ちょっといら立つところもある。
「蘭、本当に、俺たちは水穂がいないと困るんだよ!」
「そうだあな。」
と、蘭はそういう返答をするしかなかった。
その日は、適当に卵とか昆布とかちくわぶと言ったおでんを食べて、二人は別れた。広上さんの
提案で、二人は週に一度集まって、作戦を立てようということになったが、そのまえにどういう状態なのか把握するために、広上さんは、製鉄所に行ってみることにした。水穂はどうしているだろう。
その製鉄所では、いつも通り、由紀子と杉ちゃんが一生懸命水穂の世話をしていた。
「どうしてもだめか。」
杉三はためいきをついて、お匙をお盆の上に置いた。
「こうなったら、帝大さんに相談するしかないのかな。もう、ご飯なんて、何日食べていないんだろう。今は、帝大さんにもらった、何とか糖という物を飲んでやっと生きている状態だよ。」
「そうね。」
由紀子は、水の入った吸い飲みに、白い粉をとかしながら言った。溶けると水と対して変わらない色に戻るのだが、味はとても甘い味がした。沖田先生が、どうしても食事をしない時に限って飲ませる様にと指示をだした、ブドウ糖を粉にしたものだった。
「ほら、飲んで。」
由紀子が吸い飲みをそっと口元へ持っていくと、やっと口を付けてくれて、中身を飲んでくれた。
「飲んでる、、、。」
こういう事で大喜びするなんて、水穂さんも、だいぶ衰弱していると由紀子は感づいた。
「今度来たときは、其れもままならなくなってしまうかもしれないな。そうなったらいよいよ、何とか切開をして、機械でがんじがらめにすることになってしまうぞ。」
杉ちゃんがそんな発言をしたため、由紀子はぞっとした。そんなことが実現したら、文字通り、生きるしかばねという言葉が当てはまってしまう。
「そうなる前に、衰弱が進んだら、そっちで逝ってしまう事もあるといわれていたな。或いは、出すもんを詰まらせて、窒息してしまう事もある。餓死だけではなくて、逝ってしまう要因は色いろあると、帝大さんは言ってたよ。」
「杉ちゃんお願い、脅かすような事、いわないでよ!」
こういう時、思った事をなんでも口にする杉ちゃんがちょっと、妬ましいというか、憎たらしかった。そういう事は、思ったとしても口にしないでもらいたいのだが、杉ちゃんという人はそうはいかない。思わず、持っていた吸い飲みを落としそうになるが、水穂が咳き込んだため、すぐに気が付き、急いで横向きに体の向きを変えてやり、背中をたたいて中身を吐き出させてやる。それが終わると、すぐに止血剤を飲ませる。之の成分には強力な眠気をもたらすものがあるらしく、飲むとすぐにすやすやと眠ってしまうのである。由紀子が、口元にくっ付いている血液を拭き取って、よく眠ってねと布団をかけてやると、
「おーい、俺だ。水穂、いるか。」
と、太い男の声がした。
「あら。今頃誰かしら?」
由紀子が玄関の方を見た。
「多分このしゃべり方は、広上さんだよ。」
まさしく、その通り。広上さんは、はいる許可もなく、すぐにどんどん建物の中に入ってきてしまっていた。鴬張りの廊下がきゅきゅとなって、それを示している。
「おい、水穂。お前、最近はどうしている?」
挨拶もしないで、広上さんは部屋のドアを開けた。
「なんだ、広上さんか。いきなり入ってきてどうしたんだよ。」
こういう時、杉ちゃんがいてくれるのは、いいことだった。こんな身分の高い人でも、身分を気にしないで、対等に話せる人は杉ちゃんだけであった。
「いや、水穂のやつ、どうしているか、気になって見に来たんだよ。」
「ははあ、またなにか魂胆があるな。ま、其れも無駄なことになると思うよ。この通り、もう衰弱しきってしまっていて、睡眠薬と、止血薬の成分で眠ってばかりいるよ。」
杉ちゃんはそういうと、布団で眠っている水穂を、顎で示した。
「なんでおまえさんは、わざわざこんな所まで来た?水穂さんの事をまた何かに利用するつもりか?」
「平たく言ってしまえばそういう事だ。水穂には来年の夏に行われる、音楽祭りに、俺たちのオーケストラと一緒に出演してもらう。曲はリストのピアノ協奏曲三番、変ホ長調。幻の協奏曲といわれて公にはほとんど演奏されていない難曲だ。多分、ゴドフスキーを平気で弾きこなしていたこいつにとっては、リストなんか屁の河童だと思うから!」
杉三がそういうと、広上さんはあっさりと理由をいった。
「大方そんな事だと思ったぜ。だけど、広上さん。もうこいつはすっかり弱っちまってな、もうピアノ何か弾くことは出来ないだろうよ。ご飯だって、ぜんぜん出来ないんだから。食べられないというよりも、出来ないという方が、理解しやすいんじゃ無いのかな?」
たしかにそういう言い方をしたほうが、わかりやすいかもしれなかった。でも、広上さんは諦めずにこういうのである。
「それは、そこに入ればだろ?もっと大きな病院に入院させてやれば、まだ助かる可能性もあるよ。例えばさ、東京の専門的な病院にいってさ、そこで詳しく検査して、しっかり現状を把握して貰って、そこで入院させてもらえば、若しかしたら良くなる可能性もあるじゃないか。どうも、俺が見る限りではまだ治る可能性があるのに、それをしないでただ現状に満足しているしか思えない!」
「そうなんだけどねえ。医療機関というのは、大敵だよ。本当に大敵だよ。ずっとそういう所を使わなかったのは、そういう所に入れちゃったら、水穂さんが可哀そうでならないというところから来るのであって、単に怠けている訳ではないってことを、わかってくれないかな?」
杉三も杉三で、広上さんに対抗した。でも広上さんはそれでもわかってくれない顔をして、
「おい、水穂!おまえ、俺たちを残してどうするつもりなんだよ。おまえが勝手に逝っちゃったら、困るやつらもこんなに沢山いるって事を忘れないでくれよな!おまえが逝ったら、来年の音楽祭りは、ソリスト不在で、空っぽの音楽祭りになってしまって、一体どうしたらいいんだ。俺の来年の夏への思いはどうしたらいい!」
と、水穂の枕元に行って、そう怒鳴りつけた。すると、それまで黙っていた由紀子は、広上さんにこういうのである。
「広上先生。先生は苦労をしていない身分の高い人だから、そういうことが言えるんでしょうけど、水穂さんが、長年人種差別で苦しんできたことを忘れないでください!」
其れは、やっぱり、水穂を心から愛している人の口ぶりであって、決して無責任にそういっている訳ではなかった。
「夏への思い何か咲かないさ。そのほうがいいんだよ。そのほうが水穂さんもやっと楽になれるのさ。」
杉三が、ぼそっと言った。
「だから、それを成し遂げるためにさ、もうしずかにしてやってくれないか。僕らはそのつもりで看病を
続けてきたんだからよ。」
「わかったよ。」
広上さんは、がっかりというか、悔しい顔をしながら頷いた。でも、その顔は納得した顔ではないなという事は、杉三も由紀子も見て取れた。
「来年の音楽祭りは、誰か別の者にやってもらうことにするよ。」
「うん、それがいい。そうしてやってくれや。水穂さんが安らかに眠れるようにな。」
こういう時に、杉ちゃんがいてくれてよかった。でも、蘭も同じことを思っていたかもしれないが、やっぱり、水穂さんに生きていてほしいと思わずには居られなかった由紀子だった。
夏思いが咲く 増田朋美 @masubuchi4996
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