疾風の往く道(最終話)

 いつもの川原に、四三はいた。思えば、最初はお礼をするだのしないだのともめていたなあ、と悉乃は記憶を呼び起こした。

 悉乃に気づくと、四三はがばっと立ち上がった。

「悉乃さん……」

「四三さん……」

 お互いに、何からどう話したらよいやらといった感じで、沈黙が流れた。だが、先に口を開いたのは、悉乃だった。

「今日は、申し訳ありませんでした。何も言わずに約束を破ってしまって。……急用が、月曜日に急に決まったんですの……その……実は私……」

 四三は、穏やかな笑みを浮かべて頷いた。

「悉乃さん、ありがとう。キヨさんから、全部聞きました。五百円のこと。悉乃さんにそこまで無理をさせてしまって申し訳なかとです。それなのに俺はなんも知らずに寄付が貯まったなんて浮かれて……」

「いいの。私が、四三さんのためにできること、これしか思い浮かばなかったんですの。私は、四三さんに夢を叶えてほしかったから……!」

「悉乃さん……」

 四三は、数歩悉乃に近づいた。くっついてしまいそうな程近くまで来ると、四三は両腕を広げて悉乃を抱きしめた。

「ありがとう……でも、悉乃さんは、結婚してしまうんですね……!」

 悉乃は、無言で頷いた。その動きを察した四三は、腕に力を込めた。

「お金ば返して、縁談もなんもなくなって、また前みたいに一緒に走れたらいいのに……あの頃に、戻れたらいいのに……」

「そんなこと言わないで。お金は、受け取ってください。あなたは、私とその辺を走ってるだけで済むような人じゃないんですのよ。世界で戦える足がある。ストックホルムで、思い切り走ってきて欲しいんですの」

 悉乃は体を離して四三を見た。今にも泣きそうな顔の四三に、つられて涙が出そうになる。

「せっかく一緒に洋食の練習をしたじゃありませんか。オリンピックにいけなかったら全部意味がなくなってしまうんですのよ……?」

「意味がなくなることなんてなか……!悉乃さんとああやって過ごした時間は、俺にとってはかけがえのない……」

 四三の言葉はそこで止まった。ぐすっと鼻をすすって手で涙を拭っていた。悉乃もとうとう溜まってきた涙であまりよく四三の顔が見えなかった。

「俺は……悉乃さんに、何もしてあげられんかったですね……」

「そんなことありませんわ。たくさんの、楽しい時間をもらいました。……結婚しても、四三さんとの時間は絶対に忘れませんわ」

「本当に……行ってしまうんね……」

「もう、それはこちらの台詞ですわ。来週には出発されるんですものね」

 四三は、腕で乱暴に自分の目を拭った。

「金栗四三、悉乃さんのためにも、必ず金メダルを取って帰ってきます!」

 悉乃も涙を拭って、とびきりの笑顔を見せた。

「がんばって!金栗選手!」


***


 翌週、新橋駅。

 ストックホルムオリンピックに出場する金栗・三島両選手を乗せた汽車はあと十分ほどで発車する。

 二人の学友や、新聞などで情報を聞きつけた人々が駅につめかけ、日の丸や二人の名前が書かれた旗を振って檄を飛ばしていた。

「がんばってこいよ、金栗!」

「三島くん、君なら大丈夫だ!」

「二人とも、とりあえず無事に着けよー!」

 四三は、その中に悉乃の姿を探していた。見つかるはずがないのはわかっていた。あの時、これで会うのは最後だと、悉乃はそう告げたのだから。

 発車のアナウンスが流れた。もうすぐ、自分はこの東京を離れ、日本を離れ、欧州ストックホルムへと旅立つのだ。


 悉乃は、キヨと共に人だかりからは距離をおいて新橋駅の駅舎を見つめていた。

「悉乃さん、ここでいいんですの?もっと近くに行かれては」

「いいの。もう、会わないと決めたから。それに、あの人は私だけのものじゃない。日本の、国中の期待を背負って旅立たれるのよ」

「でも……」

 ――どうして、来てしまったんだろう。

 直接のきっかけは、キヨに誘われたことだった。三島弥彦の見送りがしたいから一緒に来てほしいということだったが、悉乃にはわかっていた。半分は本心かもしれないが、三島の姿を見たいというのは単なる口実でもあるのだと。断ることもできたが、結局こうして来てしまったのだから、自分はなかなか意思が弱いのかもしれない。

 ――杉村さまは、芯のある女性を、なんて言っていたけれど、こんなことじゃふられてしまうかもしれないわね。

 クスリと悉乃は微笑んだ。まだ少しだけ、「ふられてしまえばいい」という思いが首をもたげた。

 その時、汽笛の音がした。もう間もなく、汽車は出発する。

 ――行ってしまう。本当に。

 そう思ったら、悉乃は泣いていた。人々の歓声が聞こえる。汽車が、動き出した。

 体が勝手に動いた。悉乃は、思わず走り出していた。

 線路沿いに駆け寄る。全速力で、汽車の進行方向へ。そしてまもなく汽車が追いついた。

「悉乃さん!」

 悉乃が振り返ると、そこには窓から身を乗り出した四三が悉乃の名を呼んでいた。

「四三さん!」

 ガタンゴトンという汽車の音にかき消されないように、二人は声を張り上げる。

「本当にありがとう!」

「お元気で!無事を祈ってますわ!ありがとう!」

「はい!金メダル取ったら――!」

 汽車は、悉乃の脚力でも追いつけない速さになり、そのまま悉乃の視界から遠ざかっていってしまった。

「……金メダル、見せてくれますわよね」


 四三は、いつまでも遠ざかる悉乃の姿を見ていた。とうとうその姿が見えなくなった時、先週の川原での光景を思い出す。

 ――がんばって!金栗選手!

 ――はい!金メダルを取ったら、必ず一番に見せにいきますから。

 楽しみにしてますわ、と悉乃は笑った。その笑顔を脳裏に思い浮かべながら、四三はポツリとつぶやいた。

「幸せに、なってください」


<了>



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