悉乃の嘘④
その頃、悉乃と文信は縁談相手である杉村家へ来訪しており、結婚を前提としたお見合いが始まっていた。
杉村家の方も父・息子の二人で応接間へ出てきており、父親の方は立派な口ひげを蓄えていかにも上品な雰囲気が漂っていた。そして息子の方は写真で見たとおり、精悍で爽やかな印象の青年だった。
「悉乃、こちらが話していた杉村五郎さんだ」
文信の紹介で、悉乃の真正面に座っていた青年・杉村は折り目正しく頭を下げた。
「杉村五郎です。この度は突然のお話だったにもかかわらず、お引き受けくださってありがとうございます」
いえいえこちらこそ、と文信が笑顔を見せた。悉乃もおずおずと頭を下げる。この縁談はもう進んでいくのがほぼ決定していたが、それでも悉乃は「よろしくお願いします」とはっきり口にできずにいた。
互いの紹介もそこそこに、各種儀式をどうするとか、最近は洋装での結婚式もあるらしいとか、親同士でそんな話が弾んでいった。悉乃は話半分に聞きながら、杉村のことをぼんやりと見ていた。この人の、奥方になる。今ひとつ、実感も湧かないし想像もできなかった。
悉乃の視線に気づいたのか、杉村はわずかに笑みを見せた。そして「お父さん」と父親同士の会話に割って入った。
「悉乃さんと、少し二人で話をさせてもらってもよろしいですか。悉乃さん、庭を案内しますよ」
突然の申し出にその場にいた全員が面食らったが、杉村の父親は「構わんぞ。浅岡さん、よろしいですか」と文信に伺いを立てた。文信はやや引きつった顔で、「ええ、もちろんです」と答えた。そして、杉村親子に気づかれない角度で悉乃に見せた顔には「余計なことを言うなよ」と書いてあった。
庭に出た二人は池のほとりで足を止めた。杉村はしゃがみ込んで池に泳ぐ数匹の鯉をぼんやり眺めた。
「少しは気分転換になりましたか?」
笑顔を見せる杉村に悉乃はやや驚いて「気分転換?」とオウム返しに尋ねた。
「なんだかとても辛そうな顔をされていましたから」
「そ、そんなことは……」
「突然の話でまだお覚悟も決まらないとは思いますが、僕はこの縁談に感謝しています。悉乃さんにも、できれば前向きに考えて欲しいと思っています」
「あ、あの……」
悉乃は、迷った。これを聞くのは「余計なこと」なのだろうか。
「どうかされました?」
「……どうして」
悉乃は、意を決した。そうだ、「余計なこと」を言って破談になったところで、悉乃自身はひとつも困ることはない。むしろ、破談になってしまえばいい。
「私の過去を、ご存知なんでしょう。それなのに、どうして縁談なんか……」
「ああ、そのことですか。実は……僕は一度、あなたに会っているんです」
「え……?」
「一年前。市電に乗っていた時です。あなたは掏り犯に立ち向かって、捕まえましたよね。僕、あの時乗り合わせていたんです。すごい女性だと思った。どうせ結婚するならああいう人と、とその時決めたんです。母は病弱で今も家を出られない。僕や兄を産んだことで杉村の嫁としての務めは果たしたと父は言っていますが、僕は一緒に歩んでくれるような、自分の芯をしっかり持っているような女性と結婚したいんです」
「そんな……まさかあの時……?でも……それは結局、私も元々やっていたからで……」
「それも含めて悉乃さんでしょう。大事なのは、今悉乃さんがまっすぐ、勇気ある女性になられているということです。悉乃さんのような女性との縁談があればと思っていましたが、まさかご本人とこうして縁談の機会が得られるなんて。僕にとっては願ってもないことです」
悉乃は返す言葉がなかった。だが、卒業後の進路としては、二番目に幸せな選択肢かもしれない、と思った。
杉村は立ち上がると、まっすぐに悉乃の目を見つめた。
「後悔はさせません。僕の伴侶として、共に歩んでくれませんか」
悉乃は、頷いた。
これでいいのだ。ぼんやりと思い描いていた最良の未来ではないかもしれないけれど。だからといって不幸になることもなさそうだから。だから、これでいい。
夕方、寄宿舎に戻った悉乃は、キヨから一枚のメモを受け取った。
『川原で、待っています 金栗』
一行だけ、そう書いてあった。
「キヨさん……これ……」
「悉乃さん、ごめんなさい……実は」
悉乃は、キヨから一部始終を聞いた。五百円の件も、結婚の件も、四三に知られてしまった。
だが、悉乃はキヨを怒る気になれなかった。自分の口から四三にすべてを話せばよかったと悉乃は思った。恩着せがましくても、たとえ嫌われても。どちらにせよ、今日無断で四三との約束を破ったのも、嫌われるためだった。もう、この先お互いがお互いの人生に登場することはないのだから。
「ありがとうキヨさん、少し出かけてきますわ。門限までには帰るから」
そう言って、悉乃は寄宿舎を飛び出していった。
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