悉乃の嘘③

 談話室には低いテーブルとソファが数組置いてあった。一組か二組は女生徒で埋まっていたが、キヨは一番奥のソファを指し示すと、そちらで待っていらしてと言い残してどこかへ行ってしまった。

 まさか一人にされると思っていなかった四三は、落ち着かない気持ちでそこに鎮座するしかなかった。自分の学校の男くさく忙しない雰囲気とは正反対の、ゆったりした空気が流れる。それだけに、四三は自分がいかに場違いな存在かということを身に染みて感じていた。


 ***


 キヨは、自室に向かっていた。

 ――悉乃さん、ごめんなさい。けれど、金栗さんは真実を知る必要があると思うから。

 悉乃の涙が、キヨの脳裏に蘇った。

 相手の男性と会うのが楽しみだと口にした悉乃は、言葉とは裏腹に泣いていたのだ。

「どうして、杉村さまとの結婚をお決めになったの?」

 キヨは思わず悉乃に尋ねた。この質問は、普通の女学生に投げかけるには愚問だとわかっていた。通常、親の決めた結婚相手に異を唱えることなどできない。だが悉乃は普通の女学生とは違うのだ。そもそも今しまい込もうとしている似顔絵だって、皆が桜の風景画を描く中、一人だけ「一瞬目に留まっただけの人」の絵を描いたものではないか。

 悉乃は結婚はしないのだと、職業婦人になるのだと、熱心に求人広告を見ていたのだ。悉乃はそういう、自分の力でたくましく未来を切り開いていける女性だとキヨは思っていた。いざとなったら、親に反抗してでも、不本意な結婚を受け入れたりはしないのではないかと、そう思っていた。それなのに。いったいどんな心境の変化があったのか。聞かずにはいられなかった。

 悉乃はキヨの質問に答える代わりに、新聞の切り抜きを差し出した。そこには、小さく「金栗選手、寄付金目標に達す」と書いてあった。

「五百円。お父様からいただいたの。だから、結婚を断ることはできませんわ」

「悉乃さん……まさか、そこまで……」

「金栗さんには絶対内緒ですわよ?気を遣わせてしまうから」

 その時は、キヨは「わかりましたわ」と返事をした。しかし、今実際に金栗四三の姿を目の当たりにしたら、伝えなければ、と思ってしまった。

 親友との約束を破ることになる。それでも、何もかも自分の中に封じ込めて何事もなかったかのように結婚していく悉乃を、キヨは見過ごせなかった。


***


 四三は、あまりの居心地の悪さにもう一時間くらい経ったのではないかという感覚でいたが、実際には数分後、キヨは談話室に戻ってきた。その手には、薄い包みが抱えられていた。

 なんだろう、と思いながら四三はキヨが話し始めるのを待った。キヨはソファに腰を下ろすと、コホンと咳払いをして意を決したように言った。

「悉乃さんは、お父様から五百円をいただく代わりに、結婚するのですわ」

「そぎゃん……なして……」

 四三は意味がわからなかった。悉乃がそこまでして大金を工面する理由がわからなかった。

 すると、キヨは包みを開いた。

 生き生きとした表情の男の似顔絵が現れた。

「これ……もしかして……」

「そうですわ。市電で会うよりも前に、あなたが走っているところに、悉乃さんは出くわしているんですの」

「え……?」

「もちろん、これはきっかけにすぎないと思います。けれど、あなたの姿が悉乃さんの印象に強く残ったことは間違いありませんわ。そして……いつしか、きっと悉乃さんは、自分がどうなっても、あなたに夢を叶えてほしいと、そう思うようになったんだと思いますの」

 そんな、と小さく言ったきり、四三は黙り込んでしまった。

 悉乃が、そこまで自分のことを思ってくれているなんて。にわかには信じられない思いだった。

「悉乃さんは……何時に戻ってきますか」

 会いたい。会わねば。四三の頭にはそれしかなかった。




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