悉乃の嘘②


 四三は勉強机に向かっていたが、勉強には手がつかず、ぼんやりと手紙に目を通していた。

 手紙は、故郷の兄からのものだ。「気をつけて行ってこい」「金が足りなくなったら家にあるものを何か売ってでも用意するから遠慮せず言え」という内容だった。

「そんなの、遠慮するばい……」

 だが、金の心配はもう無用だった。誰かが五百円一気に寄付してくれたから、贅沢しなければ渡航費、滞在費は賄える。

 その人に四三は出立前にぜひ礼を述べたかったが、それが誰なのかようとして知れなかった。主に募金活動をしてくれた徒歩部の仲間に聞いても、「名前も名乗らなかった」「私のことは内密にして欲しいと言って立ち去った」と言うではないか。

 男か女か、若いのか年寄りなのか。

「なあ三田くん、本当に何にも聞いてなかとね?五百円ば募金してくれよった人のこと」

 隣の勉強机にいた三田はうーん、と気のない返事をした。だが、走らせていた鉛筆が一瞬ピタリと止まったのを四三は見逃さなかった。

「なあ三田くん、教えてくれんね?でないと俺、気になって気になってメダル取れんばい」

 三田は再びうーん、と言って何も答えない。何も答えないということは、知らないのではなく、知っていて答えないのだと四三にはわかった。

「頼む!この通りばい!」四三は手を合わせて三田に懇願した。三田は三度目の「うーん」のあと、ゆっくりと四三に向き直った。

「口止めされてるんだけど」

「うん」

「あの子だよ。小石川高女の」

「まさか……悉乃さんが?」

「そうそう。浅岡悉乃さん。『私が入れたってことは、四三さんには絶対内緒にしてください』って言い残していったんだよ」

 四三は驚きで開いた口がふさがらなかった。なぜ悉乃がそんな大金を?いくらお嬢様だからって、お小遣いでそんな額を出せるはずがない。親に頼まなければまず無理だろう。だが、あの父親が娘のためというか、四三のために五百円も出してくれるなんて、どう考えてもあり得なかった。もしや、盗んだ金なのだろうか……?否、そんなはずはない。四三はぶんぶんと首を振った。一瞬でもそんな風に考えてしまった自分を恥じた。

 ――次に会う時に、聞こう。必ず。

 四三はそう決心して、約束の日を今か今かと待った。


***


 迎えた日曜日。

 四三は少し早めに待ち合わせ場所に到着し、そわそわと悉乃を待った。

 だが、時間を過ぎても、悉乃は現れなかった。

 悉乃が待ち合わせに遅刻したことは一度だけ。あの夏休み前の、父親につかまっていた時だ。

 もしや、また何か来られない事情ができてしまったのだろうか。

 まさか、盗んではいないにせよ、何か嘘をついて親から金を譲り受けたとか。それが結局自分のために使われたことが知れて……なんにせよ、またあの父親に説教をされているのではないか。

 そんなことが脳裏をよぎると、もうそれしかないのではないか、とにかく何か困ったことに巻き込まれているのは間違いないのだ、と四三は思った。

 四三の足は、自然、小石川高女に向かっていた。


 日曜日なので、学校は休みだ。寄宿舎の方に行けば、悉乃はいるだろうか。いないにしても、誰かが悉乃の身に起こったことを知っているかもしれない。

 あたりをうろついていると、四三は声をかけられた。

「もしかして、金栗さん?」

 声のした方を振り返ると、一人の女生徒が立っていた。買い物帰りのようで、小さな包みを抱えている。

「あなたは、キヨさん……!」

「今日はどうなさったんですの?」

 四三は地獄に仏、渡りに船、とばかりに「その、悉乃さん、今日はどうされてるんかと思いまして」と尋ねた。

「悉乃さん?……えっと」

「何か知りませんか?」

「さあ、朝から出かけると言ってましたけれど……」

「そんな……」

 四三は、今日悉乃と洋食の食べ方を一緒に練習する約束をしていたのだと説明した。

「悉乃さんが、約束破るはずなかとです。何かよほどの急用ができたんだと思うんです。本当に何も知りませんか」

 キヨは、一瞬迷う素振りを見せた。四三はそんなキヨの様子を見逃さなかった。

「俺は、五百円のお礼ばしたかです」

「五百円……?どうして金栗さんがそれを」

「友人を問い詰めてしまいました。キヨさん、何か知っとるんですよね。俺は、悉乃さんがなしてそぎゃん大金を用意できたのかがわからんばってん……何か、その、やましいお金だったらと……」

「そういうわけではありませんわ」

 そう言いつつも、キヨは明らかに「しまった」という顔をしていた。

「知っとるんですね?」

 キヨは、意を決したように頷いた。

「悉乃さんは……今日はご縁談のお相手と会われるそうで、家に帰っておりますわ」

「ええええ縁談!?」

 四三は思わず大きな声を出してしまった。キヨに「シーッ」とたしなめられ、「すいまっせん」と小さく謝った。なんだかこんなやりとりを前にもしたような、と四三は思ったが、気を取り直し、声を低くして尋ねた。

「悉乃さんは……結婚してしまうとですか?」

 縁談が来ているだけだ。まだ結婚すると決まったわけじゃない。そんな答えを期待した。しかし、キヨは首を縦に振った。

「それなら、なして話してくれんかったんだろう……よほどいいお相手なんでしょうか。それで、悉乃さん、今日のことなんかすっかり忘れて……」

「そんなはずありませんわ。むしろ」

 キヨは一瞬口ごもると、「ついていらして」と寄宿舎の中を指した。

「えっ、ばってん……」

 女学校の寄宿舎に足を踏み入れるなんてさすがに気がひけると思ったが、そんな四三の気持ちを察したか、キヨは「心配なさらないで」と言った。

「談話室があるんですの。父兄の出入りも許されてますから、私の兄ということになさって」

 それでもやっぱり入りづらい、とは思ったが、キヨがずんずんと敷地に入っていってしまうので、四三はおっかなびっくり後をついていった。


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