悉乃の嘘➀

 一週間後、悉乃は再び四三と洋食屋にいた。

「悉乃さん!募金が!集まったとです!」

 四三は満面の笑みで開口一番そう告げた。悉乃はつとめて今知ったような体を装い、「まあ、本当なんですの⁉」と驚いてみせた。

 悉乃は、五百円のことも、結婚のことも言うつもりはなかった。言えば気を使わせてしまうと思ったし、なんとなく自分が結婚するということを四三には言いたくなかった。

「なんね、大口で寄付ばしてくれとった人がおったらしいばい。いやあ、ありがたかあ。選考で勝ち抜いたはええけんど、そこだけが問題だったばいね」

「本当に、よかったですわね」

 四三は急に嬉しそうな顔を消してまじまじと悉乃を見た。

「悉乃さん、なんだか元気がなかとよ。何かあったばい?」

 しまった、と思って悉乃は「そんなことありませんわよ」と取り繕った。ちょうどいい頃合いにスープが運ばれてきたので二人は器をきれいに傾けながら音を立てずに飲み始めた。

 出発まで一ヶ月を切り、四三は今トレーニングもそこそこに渡航の準備に追われていた。持っていくべき荷物のこと、現地までの行程確認、また着いてからはどこでどう過ごすか、などなど。

「嘉納先生や大森先生……あ、大森先生っていうんは今回監督をやってくれる人ね、その二人が一緒だばってん、ストックホルムには無事にたどり着けるとは思うけんど、やっぱり不安たい……」

 四三は洋行への不安と期待を吐露し、その表情は暗くなったり明るくなったりとせわしなかった。悉乃はそんな四三を見て終始微笑ましげに頷きながら話を聞いていた。


 別れ際、二人は来週の同じ時間に会う約束をした。

「それで、お会いできるのは最後ですわね」悉乃は寂しそうに言った。

「そぎゃんね……けど、出発の日は、ぜひ新橋の駅に来てください。俺の友達も、みんな見送りに来てくれますけん」

「ええ、必ず行きますわ」


 だが、寄宿舎に戻った悉乃を待っていたのは、悉乃を落胆させるには十分すぎる内容の手紙だった。

 差出人は文信で、「縁談の相手が一度会いたいと言っているから帰ってこい」という内容だった。しかも日時は来週の日曜日。つい先ほど四三と最後の洋食屋での食事を約束した日だった。


 次の日の月曜日は、芸術の授業があった。授業の最後には昨年分の成績がつけ終わったからということで、この一年で描いた絵や彫刻作品が返却された。

「今年は皆さん最終学年ですから、得意なことを伸ばして嫁ぎ先でも一目置かれるように頑張ってください」

 教員のそんな話をぼんやりと聞きながら、悉乃は自分の作品たちを引き取った。その中の一枚の絵に、ふと目を留めた。

 あの日、上野公園を抜け出して初めて四三を見つけた時に描いた絵だ。

 今思えば、一瞬だけ見て描いたものだから本人にはなんだか似ていないし、少々美化しすぎて描いているようなところはあったが、楽しそうにキラキラと輝いた目に、今にも息遣いが聞こえてきそうな表情は、我ながらなかなかよく描けていると思った。


 作品をどっさりと抱えて寄宿舎の部屋に戻った悉乃とキヨは、「懐かしいわね」などと言いながら、飾れそうなものは壁や棚に飾り始めた。

 件の絵は、飾るのは恥ずかしいと思って悉乃は新聞紙に包んで奥にしまい込もうとした。すると、それを見たキヨが声をかけてきた。

「悉乃さん、その絵って、やっぱり金栗さんですわよね?」

「へ?」

 なんだか恥ずかしくて、変な声が出てしまった。反して、キヨは楽しそうに笑みを見せた。

「夏休みの前、小石川高女うちに金栗さんが来たでしょう。私、スリ騒ぎの時は気づきませんでしたけれど、あの時『そうだ』と思い出して。もう一度見せてくださる?」

 悉乃はおずおずと丸めようとしていた紙を広げて見せた。

「まあやっぱり!特徴がよく捉えられていますわね。あの一瞬でこれだけ描けるなんて、悉乃さん、本当に人物画の才能があるんですのね」

 悉乃は絵をまじまじと見た。キヨにそういう風に言われると、なんだか恥ずかしくなってきた。キヨはというと楽しそうな表情を消し、心配そうに悉乃を見た。

「……本当に、杉村さまと結婚なさってよろしいんですの?」

 杉村さまというのは、悉乃の縁談相手のことだ。キヨにだけは、縁談を受けたことを話していた。それでも、交換条件の五百円のことは話していなかった。悉乃は、なんとか笑顔を張り付けるとキヨに向き直った。

「もちろんですわ。今度の日曜日、初めてお会いするんですの。楽しみですわ」

 そう言った悉乃の目からは、涙がこぼれていた。


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