五百円②

 文信は新聞の切り抜きを見てわなわなと拳を震わせていた。

「金栗……四三だと……?まさか、あの、あの男だというのか」

 悉乃はこくりと頷いた。

「ふざけるな!なぜ私があの男のために金を出してやらねばならんのだ!ビタ一文たりとも出すものか!」

「では、金栗さんのためではなく、私のために出してはいただけませんこと」

「なんだと……」

「私、卒業したら結婚せず、職業夫人になってうんとお金を稼ぎます。五百円も、女学校の学費も、全部返済してみせますわ。私のような貰い手のない卒業顔など、浅岡家のお荷物でしょう。卒業したら、この家を出ます」

 厚かましいのも、都合がいいのも、わかっていた。

 それでも、悉乃にはこれしか思いつかなかった。

「馬鹿者が。五百円などお前みたいな小娘がいくら働いたところで返せるものか。……女郎にでもなれば話は別かもしれんがな。まあ、お前の母親のように惨めに死んでいく可能性も高いが」

 バンッと大きな音がした。悉乃がテーブルを叩いた音だ。ガタッと立ち上がった悉乃を見て、せせら笑っていた文信から表情が消えた。

「おっかさんを、そんな風に言うな」

「悉乃……?」

「おっかさんは、おっかさんは……」ぶわっと、涙が出てきた。ぼんやりと、母親の顔が悉乃の脳裏に浮かんでくる。

 ――悉乃、あんたのお父ちゃんはねえ、それはそれは立派なお方でありんしたよ。きっといつか、あちきらを迎えに来てくれんす。

 廓言葉の抜けきらない言葉使いで、いつもそんなことを言っていた。 

「おっかさん……お母様は、言ってましたわ。お父様は必ず私たちを迎えに来てくれるって。ずっと……信じてたのに!それなのに、あなたが私のところへ来たのは、お母様が死んでから何年も経ってからでしたわ。惨めですって?誰のせいで……!」

「迎えに行くなどと約束した覚えはない。いくら馴染みだったとはいえ、女郎をいちいち身請けしていたのではキリがない」

「お父様にとっては、その程度ですのね。馴染みの女郎たちの一人に過ぎない。こんな立派なお屋敷に住んでらっしゃるのに、心はなんてケチくさいんですこと!」

「なんだと……!お前、今の自分の立場がわかっていないようだな」

 しまった、と悉乃は我に返った。今自分は金を無心しに来ているのだ。怒らせてしまっては逆効果だ。もうこれしかない、とばかりに悉乃は椅子の後ろに下がると、床に膝をついて深々と頭を下げた。

「出過ぎたことを申しました。なにとぞご容赦いただき、話を聞き入れてはくださいませんでしょうか」

 屈辱ではあったが、背に腹は代えられなかった。文信も立ち上がり、テーブル越しに悉乃を見下ろしていた。

「よかろう。そこまで申すなら、五百円、お前にやろう」

 えっ、と悉乃は顔を上げた。やろう?貸すのではなく?

「ただし、条件がある」

「条件……?」

「お前に縁談が来ている。相手方はお前の過去を知ってなお、是非にと言ってくださっている」

 予想外の展開に開いた口が塞がらない悉乃の前に、文信は一枚の写真を差し出した。

 学生服を着た、精悍な顔つきをした青年がそこに写っていた。醜男ではないことに一瞬ほっとしたのもつかの間、ほっとしている場合かと自分を戒める。

「そんな急な話、今決められるはずがありませんわ」

「急な話はお互い様だろう。こちらの条件を飲めばお前の条件を飲むと言ってるんだ。五百円は、その金栗とかいう男へのいわば手切れ金といったところだな」

 ニヤリと不敵な笑みを浮かべる父親を見て、悉乃はぐっと唇を噛んだ。

「二つに一つだ。選びなさい」

 悉乃は目のあたりに力を入れて、こぼれそうになる涙を抑えた。こんな事態になるとは――

「…………わかりました」


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