五百円➀
四月になった。悉乃が初めて四三に出会ってから、一年が経った。
ついに女学校の最終学年を迎え、だいぶ数の少なくなった悉乃のクラスメイトは皆一様に「卒業顔なんてまっぴらごめんですわ」とばかりに化粧の練習などして見合い写真を撮りにいったり、料理や縫い物の腕を上げようと放課後も練習したりと、花嫁修業に余念がなかった。
悉乃はもう自分に縁談が来ないであろうことはなんとなく予感がしていたので、卒業後の進路についてぼんやりと考えることが多かった。
「手に職を付けるなら、電話交換手かしらねえ……」
ある日の夕食後、悉乃は食堂の片隅で新聞に小さく載っている求人情報に目を凝らしていた。そんなことをしている学生は校内でも悉乃ともう一人二人いるかいないか、といったところだろう。職業婦人、というのはまだまだ少数派で、女性が一人で食べていける職業は学校の先生や飲食店の給仕などに限られていた。どれもこれもピンと来ないわ、と悉乃はため息をつき、新聞の頁をめくった。ふと、目に飛び込んできた記事があった。それは求人広告よりも小さい記事。だが、見慣れた文字列を悉乃は見逃さなかった。
『瑞典オリムピック出場予定金栗四三氏、洋行断念か。寄付金八百円足らず』
悉乃の胸が、突然ざわめいた。
確か、四三がストックホルムへ出発するまでは、あとひと月ほどしかなかったはずだ。目標額の半分は集まったようだが、それでもまだ八百円も足りないとは。
――もし、行けなかったらどうなるの。
想像してみた。真っ先に、四三が悲しみに暮れる顔が浮かんだ。
――でも、もし、お金が集まらなかったら、四三さんは日本にいてくれる……?
悉乃は、ぐしゃっと新聞の端を握りしめた。
――私、なんてこと……
自分の本心が、顔を出してしまった。
行ってほしくない。
洋行なんて、危ない。
何ヶ月も会えない。連絡だって、すぐに取れない。
寂しくて、不安で、おかしくなりそうだった。
それでも、そんなことを四三に悟られてはいけない。
笑顔で、送り出さねばいけない。
お金も集めて、洋食のマナーも、外国の言葉も、困らないように身につけないといけない。その手助けをするのが、悉乃ができることだった。引き留めることではない。
じんわりと、涙が出てくるのがわかった。悉乃はそれを着物の袖で乱暴に拭うと、新聞を握りしめて立ち上がった。
***
その週末、悉乃は大きな屋敷の前に仁王立ちし、ふーと深呼吸をした。
大きな屋敷とは、浅岡家の邸宅すなわち実家である。悉乃自身はここを「実家」などという
大事な話がある、と父に電報を送ったら、ちょうど今は日本にいる。こちらも大事な話がある、と返事が来た。
「何の用だか知らないけど、私は私の話を通さなくちゃ」
悉乃は家の敷地内に一歩を踏み出した。心臓が、気味の悪い動き方をしているような気がした。
広いダイニングに通された悉乃は、父・文信がやってくるのをじっと待っていた。女中が出してくれた紅茶の香りが、いくぶん悉乃の心を落ち着かせたが、焼け石に水のようでもあった。
やがて、バタンと音がして文信が部屋に入ってきた。
悉乃は父の笑顔というものをほとんど見たことがなかったが、今日もそんなものは見られそうになかった。険しい顔で、どかりと悉乃の目の前に腰を下ろした。
「珍しいな。お前の方から便りをよこすとは」文信は開口一番そう言うと、探るような視線を悉乃に向けた。
「お父様」
悉乃は、さっさと要件を言ってしまおうとばかりに早口で言葉を続けた。
「お金を、貸してください。八百円。ダメならせめて、五百円」
悉乃は頭を下げた。
「な、何を言い出すかと思えば……!」
悉乃は顔を上げて文信を見た。その表情は、夏休み前に職員室で見た時と同じかそれ以上に怒りに満ちていた。
「そんな大金、何に使うんだ!!」
当然、これを聞かれるのは想定の範囲内だった。悉乃は懐に忍ばせていた新聞の切り抜きをテーブルの上に広げた。
「八百円、足りませんの。このままでは、ストックホルムに行くことができませんわ」
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