ビフテキとバゲット
次の水曜日の放課後、悉乃はテーブルマナーを学ぶのにはどこの洋食屋がいいかしら、と町をぶらり歩いていた。きちんとナイフとフォークが出てくるところがいい。どうせなら、おいしいお料理の出るお店がいい。でも、予算もある。
そんなことを考えながら歩いていると、数人の男たちが大きな声で何かを呼びかけているのが聞こえてきた。
「――をお願いしまーす!」
何かを頼んでいる。悉乃は気になって彼らに近づいていった。
「金栗四三をオリンピックに!募金をお願いしまーす!」
「お願いしまーす!」
四人の男たちが、確かに、口々にそう叫んでいた。悉乃は端に立っていた青年に駆け寄って尋ねた。
「募金って、どういうことなんですの?」
「お嬢さん、金栗四三をご存知ですか?昨年の予選大会でマラソン世界記録を出して今度スウェーデンで開かれるオリンピックに出場することになった男なんですがね」
「そんなことは知っていますわ」
青年はやや驚いたような顔をすると、「なら話が早いや」と言った。
「ストックホルムまでの渡航費が、全然足りないんですよ」
悉乃は「えっ?」と素っ頓狂な声を出してしまった。国を代表して渡航するというのに、その費用を国は出してくれないというのか。悉乃はその疑問をそのままぶつけてみた。
「それが、そうなんですよ。まだまだ『かけっこごときで洋行なんて』と思ってる頭の固い役人連中は大勢いるもんで」
「そんな……いくら必要なんですの?」
「しめて千八百円!今はまだ、五百円くらいしか集まってなくって……」
悉乃は、慌てて自分の財布を取り出した。中身を覗き込み、小銭の数を数えた。そのうち、今度の洋食屋での食事にかかるであろう金額を差し引く。
「このくらいしか、ご協力できませんけど……」
悉乃は、三十銭を箱に入れた。学生のお小遣いで、しかも募金に入れるにはなかなかの金額である。
驚いたような顔で「あ、ありがとうございます」という青年を残し、悉乃はその場を立ち去った。
***
「水くさいですわ」
日曜日。無事に見つけた洋食屋で、悉乃は開口一番そう言った。
「な、何がですか?」
四三の反応は当然だった。何のことを言われているのかわかるはずもない。
「渡航費のこと、どうして話してくださらなかったの?この前、町で見かけたのよ。千八百円も必要だって」
しかしなんとなく恩着せがましいような気がして、三十銭入れてきたとは言い出しにくい悉乃であった。四三はというと、顔を曇らせて「ああ、そのこつね……」と呟いた。悉乃はなんだか自分が悪いことをしているような気持ちになったが、否、と思い直した。
「渡航費のことは……」
言い掛けた途端、「いらっしゃいませ、何にしましょう?」と店員が声をかけてきたので話が逸れた。どうしたらいいかわからない、といった表情の四三を見て、悉乃はビフテキとバゲットを二人分注文した。
店員がかしこまりました、と去っていくと、四三はまだ気まずそうな顔をして悉乃を見ていたが、やがて先ほどの続きとばかりに「渡航費は……」と切り出した。
「なんとかなりますけん、悉乃さんに心配されることじゃなか」
「でも……」
「悉乃さんには、こうして洋行の準備を手伝ってもろうてる恩義があるったい、お金の無心までなんて到底できんばい。これは、俺の気持ちの問題です」
そう言われてしまうと、悉乃は言い返せなかった。事実、悉乃にはこれ以上寄付できるほどの手持ちの金はない。
「渡航費、集まるといいですわね」そんな他人事のような台詞しか言えないのが、悉乃は歯がゆかった。
その場に流れる少し気まずい空気は、到着したビフテキのおかげで一掃された。
「わああ、これがビフテキ!初めて見るばい」四三は出された料理に目をきらきらと輝かせ、両手にフォークとナイフを持った。
「四三さん、左右逆ですわ。右手にナイフ、左手にフォーク」悉乃が指摘した。
「た、確かに、右手でないと肉は切れんばい」
「こうやって、フォークで押さえながら、ナイフで一口ずつ切るんですのよ」悉乃は実際に肉を切ってみせて、左手に持ったフォークで一口分を口に運んだ。
「左手で食べるんですか。難しかあ」四三は同じようにナイフとフォークを動かしたが、カチャカチャと不格好な音が鳴るばかりで、なかなかうまく切れない。そして最終的には力任せにガチャンと音を立てて肉を切った。「やった!切れたばい!」と喜びの声を上げたのもつかの間、勢い余ってソースが派手に飛び散った。
悉乃の顔にも、四三の顔にも、飛び散ったソースが点々とついてしまった。
「う、うわああ!大丈夫かね、悉乃さん!?」
悉乃は、黙ってナプキンで顔を拭った。悉乃が何も言わないので、すっかり怒らせてしまったと思ったのか、四三は怯えるような表情で悉乃を見ている。
「ふふっ」
「へ?」
「私は初めてフォークとナイフを扱った時、そこら中にお肉を跳ね飛ばしてしまいましたわ。ソースが少し飛び散ったくらい、なんでもありませんわ」
四三はほっとしたように「もう~、焦ったばい……」と笑った。
「上出来ですわ、四三さん。少し慣れればストックホルムでも十分やっていけますわよ」
「悉乃さんにそう言ってもらえると安心するばい」
半分ほど食べ終えると、二人は料理を味わって、会話を楽しむ余裕も生まれた。
悉乃にとっては、忘れられない幸せな時間となった。
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